夏に続く坂道

水上明

第1話

 伸ばした腕の先に握られた携帯電話の画面を、ぼんやりと眺めていた。

 しなやかに指先が動き、いくつかの画面がわるわる表示される。

 アドレス帳、メールボックス、送受信履歴。付属している申し訳程度のカメラ機能でった、いくつかの画像。

 にぶい光を放つ画面を前に、逡巡しゅんじゅんするように、しばらくの時が流れる。

「はあ……」

 と、ため息を一つ。

 もう一度指先が小さなボタンに触れると、画面はまた、元の味気ない待ち受け画面へと戻った。表示された日付と時刻を見て、もう一つため息。

 やがてフリップを閉じられた小型の電話機は、畳の上へと静かに放り投げられた。


                  ※


 ――ミーン、ミンミンミンミン。

 夏だ。

 ――ミーンミンミンミンミンミンミンミン。

 ……夏だ。

 ――ジリジリジリ、ミーン、ミンミン、ジリジリリッ、ミーン。

 …………。


「ああっ。もううるさいっ!!」


 と、鳴りやまないセミの声に叫びながら、夏紀なつきは心地よいまどろみの中から跳ね起きた。その自分の声が一番うるさい、という事はともかく。

 ――ミーンミンミンミンミンミミミミミミミミミミミミミ……。

 ここ十数日に渡って、日中の安眠を妨害してくれている主な原因の方々は、あいも変わらず、残りわずかの命を心から享受きょうじゅする様に、力強く鳴き続けている。

 その豊かな音に突き動かされるように、


「……夏だね」


 そんな言葉を、思わず口に出してみた。

 気温は推定三十二度超。昨日降った雨のせいで、湿度も七〇%は下らない事だろう。

 とにかく、世間は夏だった。

 日が昇れば、こんな風に至る所でセミがわめき、軒下のきしたにはすっかりだらけきった野良猫が寝そべり、この家で最も風通しのいい縁側えんがわはこれでもかとばかりに陽射しをまともに受け、そのせいで穏やかな昼寝スペースをなかなか確保することもできず、電源を落とし忘れたままのラジオは高校球児の青春を放送し続け……そんな日が続いている。

 開けっ放しにしてある障子しょうじ硝子戸がらすどの間から入って来た生ぬるい風が、畳の上に転がったままの夏紀の髪をでた。

 せめて、この風がもう少し涼しければいいんだけど。

 体を起こして、ふと外をうかがってみる。

 夏とは言っても、既に夏休みは折り返し地点に差し掛かっていて、八月も盆を迎えようという時期だ。そろそろ朝晩くらいは涼しくなってみても罰はあたらない――とは思うのだが。

 望むような涼しさは、やっぱり、どこをどうひっくり返しても出てくる様子は無い。

 こう暑いと、外に出かける気力すら起きないのが人間というもので、


「はぁ…………」


 とため息を吐いて、再び居間の畳の上に横になる。

 こうして、夏紀は貴重な高校一年の夏を浪費し続けていた。

 ……いや、きっと迂闊うかつに外に出て。日焼けをして肌を傷めて汗だくで帰って来るよりは、こうして自堕落じだらくに過ごしている方がましなはずだ。

 などと、自分を弁護してみたりもするのだが。


 ――この回も三振。ピッチャーの素晴らしいキレの変化球を前に、打線は手も足も出ません。


 ラジオからは、相変らず、真夏の甲子園で行なわれている高校野球の中継が流れている。


「……暑いのに良くやるよねぇ」


 アナウンサーや解説者が思い思いの事を語っているのを聞き流しながら、畳の上で寝返りを打つ。膝丈のスカートがかなり際どい所までめくれ太股が露わになるが、それすら気にしない程に夏紀はだらけきっていた。

 思えば、この夏はずっとこんな調子だった。

 いったい、どうしてこんな風に――などと思わなくもない。仮にも学級委員長でもある自分がこんな状態であることを知ったら、他の生徒や教師はどう思うんだろうか?


「でも――」


 と、口元に手を当てながら考えてみる。

 今年の夏は、まだ一度も友人と出かけても居ないし、予定がある訳でも無かった。……もっとも、以前からあまりそういった予定があるわけでも無かったのだけど。


「なんで、夏休みなんてあるのかな」


 気が付けば、そんな風に声に出していた。学校があれば、気軽に高校の友人達とも会えるし、クラスメイトや名前も知らない他学年の生徒の姿を見る事も出来る。少なくとも、こんな風にだらけきって、自問自答を繰り返すような生活をすることも無い、はずだ。


 ――ひとりが寂しい、というわけじゃないんだけど。


 自宅で本を読んだり、本を借りに図書館や学校の図書室へ行ったり、家事の手伝いをしたり。

 そういう事が、楽しくない。という訳じゃない。そういう生活でも(今みたいにだらけているのは問題だが)悪くは無いはずだ。


 ただ――セミの声が聞こえる。

 外から、何処どこかへ出かけるのであろう、小さな子供達のはしゃぐ声が聞こえる。

 風鈴ふうりんすずしげな音を立てて、耳に優しく風を運んでくれる。

 人通りの少ない道を行く、バイクのエンジン音。

 どこからかスイカの匂いがして、自転車のベルの音が鳴り。

 

 一瞬の静寂。

 

 そんな時、世界から――夏から、何となく取り残されたような感覚になるのだ。

 ――――ミーンミンミンミンミン……。

 再び、セミが合唱を始める。


 ――さあ、この回も無得点に抑え場面は九回の裏!

 ――とうとう最終回の攻撃へと移ります。二対一、一点入れば延長へ、二人帰ればサヨナラです!!


「……はぁ」

 ラジオが、相変らず高校球児の夏を伝えていた。

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