✅かがり町の夕暮れ④
きゃんと、甲高い声が飛んできた。
みかづき公園の入り口に、かがり高校の制服を着た子がぽつんとひとり立っている。
「こ、粉間……?」
「篠塚せんぱぁい。うちの猫を、攫いましたね……」
ふくれっ面の近所の美少年だ、名前は
「攫うって……、それは誤解」
忍は即否定したが、ミルクの方は上目遣いできらきらと期待しているから攫って欲しそうだ。飼い主さんがお迎えに来ているのに見向きもしない。
「ふぐ…………っ、ずるぃ!」
粉間はもっと頬をふくらせた。
粉間は、可愛い。ぱっちりと幅のある二重の目に、紅い頬と唇。短髪が似合わず、直毛のさらりとした髪を前下がりに伸ばしているのでよく女子に間違えられる。身長もバスケ部にしては、お豆(ちなみに、姓がこなまで、名がめろん、ゆえに「こなまめ」といじられる)。昔はそれらが嫌で泣くのだけれども、いつしか個性と自認識。吹っ切れたあとのかれはちょっと、小生意気な、小悪魔みたいな子に育ってしまった。
以前は――町の幼馴染の中でも忍のことを一番に慕ってくれた。バスケ部に所属しているのも忍の影響だったし、なにをするにも小さな歩幅でずっと忍のあとをついてきた。
粉間は可愛い。
可愛い忍の後輩、だった。
嫌われたな、とおもう。
「悪かった、触ってないよ」
「未遂なだけです……!」
「ごめん」
「あはっ、なんだか僕が悪いみたい」
「え、」
「ゆーわくして、……被害者ぶるんでしょ、先輩?」
「え――」
にこりと笑った、粉間は辛辣だ。
そんな言葉で忍をぶっ刺してくるとは。
「おもい切って聞いてみたけど、やっぱり……そうなの?」
「粉間が、なに言ってるのかわからない」
違うんだ。
否、違わない。
「わからないのは、こっちのほうだよ……」
「粉間?」
ふと粉間の顔が陰る。
忍の口から件の事実を聞きたいのだ。
粉間だけじゃない、皆だ――夏、起きた(一瞬の悲しい事)件を、忍みずからの口で説明して欲しいと望んでいる。簡単だ、自分のためならば、忍はそうするべきかもしれない。だが、
だがこれ以上、踏み込んで欲しくはない。
誰にもだ。
忍は心に固く誓っている。
だから、いつも通りだ。
忍の顔には表情が、ない。
「なんで――、粉間が悩むんだよ」
「ふぇ?」
「……そんなことより。お前、部活はどうしたの」
忍の声は、少し低くて穏やかだ。
町の猫らは好いてくれるが、人間からは冷たいひとだと撥ねられる。
この突然の篠塚【元】先輩の声色に、粉間はびくりと背筋を伸ばす。
「ええと、あのぉ。今日はミーティングで……そのあと自主練になりましたぁ」
「え、ナンデ?」
「ナンデって。篠塚先輩のせいですっ、部長と副部長が喧嘩したんです!」
「え、……五十嵐と、松雪が?」
「あの優しい五十嵐先輩が、ぶち切れて、とんでもない切れ方で、暴れたみたい。二年生の教室前で
粉間はその「バカっ!」を捨て台詞とした。
忍から力ずくでミルクを引き離して(ミルクは大暴れ)、「ふぐぐ……!」と重そうに猫を抱きかかえながらも公園から逃亡した。
粉間は泣いていたかもしれない。
忍は、ぼう然。その場に立ち尽くした。
五十嵐と松雪が、――喧嘩?
「なぜ」
ナンデ?
忍のために、おなじ部活の仲間がそんなことになってしまうのか。
「バスケ部辞めたのに、なぜ……」
拗れている。人間関係、が夏からずっと。
この時忍の濡れた瞳の虹彩が、夕日色に光って、月明色に光って、かがり町に沈んだ太陽の最後の残り火を捉えて煌めいた。日没だ。
さきほどの粉間の「バカっ!」が響いたからか、公園付近を通るひとびとの視線が痛い。辺りはすっかりと暗いし、お月様も本物のが浮かんできたから、いつまでも三日月型遊具に居座るのは寂しい。面倒なのも嫌、……誰かとまた会う前に帰ろう。
忍は、みかづき公園をあとにした。
そして。
とぼとぼと。
朝はくだった坂道を、重い足取りでのぼり帰っていく。
横手に見えるのが、かがり町一巨大な建築物、通称【世界マンション】だ。
その正面玄関は今、がらんと広く空いている。忍が朝見た、謎の引越し業者のトラックは既になく、完了している――篠塚家の三階、忍部屋へ隣接している、例の広い角部屋へ――今日からそこに誰かが住み始める。新しい環境になる。篠塚家でお世話になって十余年、一切なかったことだ、忍の心が妙にざわつく。
そういえば【世界マンション】って、外観こそは綺麗だけれども、いったい、いつからそこに建っているのだろう。はっきりとはおぼえていないが、忍がこどもの頃はまだ、なかった気がするのだ。
「あっ……」
今、遠目に見えた。
坂上の、篠塚家の建物前で【割烹 たかしの】の看板が、ぱんっと元気に点いた。店主の鷹史も中から出てきて「あ、よっこいしょ」と、暖簾を出しての開店だ。ついでに我流、腰痛ケアのストレッチもしておく(※たかしの日常)。
「鷹史っ……」
おじさん、
ほんと、あのおじさん、
好き、
今ここで、――そう声に出せたらいいのに。忍の心が高鳴る。
帰ろう、
ごめん鷹史、
今日は学校をさぼって、
早く帰って、鷹史と話そう、
ツナを膝に乗せてほんわかと抱こう、
篠塚家の温もりが、とても恋しい。
「ちょ、鷹史……待って!」
まだ、店には戻らないで欲しい。
店の開店も、ほんの少しだけ待って欲しい。
あと少しだ、あともう少しで忍は到着するのだから。
「鷹――、」
坂をのぼっている忍を見つけて、鷹史が微笑んだかとおもった。
否、鷹史は微笑みながらもくるりと綺麗に背を向けた。忍ではない、鷹史が真に微笑んだ相手とは篠塚家のうちから出てきた、厳蔵先生だ。担任の先生が、忍よりもさきに到着していた。
粉間の言う――五十嵐と松雪の件でバスケ部の活動がなくなったから今日は早かったんだ。先生は仕事を早くあがるとそのぶんだけ早く鷹史のもとに【割烹 たかしの】に食べに来る。忍が配達した弁当箱と、忍が学校へ置いたままの荷物、それらを持ってやって来た。今日の出来事はもう鷹史の知るところとなったわけか。
軽く冗談でも交わしているのか大人の会話は楽しそう。内容の聞こえない距離と、自宅では決して見せない鷹史の表情に、だんだんと忍の不安が募っていく。大人だけの空間ってそんなにも楽しいか。忍の足元の影が伸び切って、夜闇の暗がりに紛れてしまった。心も紛れて覆われて、あとはただ黙々と坂道の程をのぼるだけ。
そうして篠塚家へと帰着をしたけれども、鷹史の姿はもう――そこにない。
おまけ かがり町百景 【みかづき公園と幽霊猫】
かがり町郷愁の地、みかづき公園。ここに設置されているのが、レトロな雰囲気漂うコンクリート遊具『月の丘』。階段と山の斜面からなる丘部分からてっぺんの三日月型滑り台まで昇ればかなりの高さになる、と気づいた時にはもう遅い。恐怖で身動きが取れずに、爆泣きした子どもは数知れず(かがりっ子のわんぱく黒歴史)。昭和の頃などは、度胸試しで挑んだ児童が巡回中のかがり町駅前交番のお巡りさんにレスキューされる姿を目撃し、その後の友人関係の変化を観察するまでが桜の季節一通りの風物詩であった。また夕暮れ時のかがり町に気まぐれ出没する幽霊猫、三毛猫のミケさんがもっとも目撃される場所としても有名で、公園敷地内では、近くに、遠くに、どこからともなく満月鈴の音が聞こえてくるとか。
あまり公にはされていないが――月の丘、みかづき、満月など、これらの月の名は古い時代の土地の悲しい伝承に由来する。
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