✅かがり町の夕暮れ⑤ 〆


ツナは、器用に戸を開ける。

篠塚家に鍵をかける習慣はない。

しかし「にゃ……」と一鳴き。

大好きな飼い主さん、忍を出迎えたはずのツナは不機嫌に。


普段は日のあるうちに帰ってくる忍が心配で、家の玄関をうろうろと徘徊。(猫のご機嫌取りの鷹史が【かがり町の高級猫缶】をチラつかせても、ド級にがん無視で)ずっと、待っていた。

日没。あまりにも帰りが遅いからツナは篠塚家のまわりを、月見坂つきみさか下の近所まで、猫の抜け道を使って、もう、忍の通う学校まで探しに出ようかとも考えた。それが忍ときたら――やっと帰ってきたかとおもえば、ぽわぽわと強烈なミルク臭と、埃っぽいミケさんの匂いまで漂わせている。


ツナの猫顔面が猟奇的にヒクつく。

町中の猫の心を搔き乱すだけ搔き乱しておいて、忍ってば、表情のひとつも変えやしない!


かがり町猫警報、発報【町の暴君が大噴火への秒読み段階に入ったことをお知らせする】。これは、かがり町に住まう全猫にとって由々しきことである。ツナの猫腹底の煮えたぎるマグマを鎮めるために、忍は、ツナに言うべき言葉がある。そして風呂場へ直行で他猫の臭いを綺麗さっぱりと洗い流して、ツナを膝に乗せて、その匂いをたっぷりとつけさせるべきである、……が?


「にゃあ」


しのぶ?――と見あげるツナ。


「お前は、喧嘩しないでツナ……友達と」


忍の沈んだ声。

忍の声が、沈んでいる⁉

ツナは「失敗した!」とばかりに、こてっと床に転がった。猫、反省。今夜すぐにでも、こなまパン屋を襲撃してミルクのやつめに【猫決闘】を申し込むアタマになっていた。

そういえば昨夜の猫集会でも「嫉妬し過ぎるその性格を直すように、にゃ」と森屋家のモリーに諭されたばかり(……ふんぞり返って、つっ撥ねたが)。


「お~忍、おかえり」


ギニャァァァーと、のたうちまわる飼い猫の奇行に気がついたか、玄関奥の左の扉が開いて、鷹史がすっと顔を出してきた。篠塚家は、店舗兼住宅。建物内で店と自宅とを繋く唯一の出入り口がそこだ。


突然で、忍は驚いてしまった。

いいや、こんなのは全然突然ではない、篠塚家の日常だ。


忍は構えていた。篠塚家へ帰ったら、鷹史に今日のことを訊かれるはず。そうおもって夕暮れの、みかづき公園で心を整えたのに。たった一言「おかえり」だけ、それだけ言って、おじさんは店の中へと引っ込んでしまった。


「え」


立ち尽くす。忍の緊張の糸が切れた。

こんなにも自分は、興味を持たれていないのか。

17歳の、高校二年生、反抗期がどうとか、難しい年頃だって、気を遣われているのか。

それか厳蔵先生が今、なにかを言ったのだろうか。


【バスケ部のこと、今夏のこと】


そうだ鷹史は、

バスケ部を辞めた時も「おつかれ」の一言だった、

おもい出した、


「そっか。ずっと失望しているんだ……」


バスケ部を辞めた夏の日に。

忍への期待を、鷹史はきっと止めてしまった。

中途半端に投げ出して、成し遂げない、とりえなしの子ども。

しかし顔だけは酷似している、鷹史の好きだった――忍の亡き父親に。


それだけ。


篠塚家で、鷹史が忍を養う意味はあるのだろうか。

なにも返せない、役目を果たせない。


「お荷物の、荷物なんかを届けに来てくれたんだな……厳蔵先生」


忍はふらふらと靴を脱ぎ、玄関に詰まれた自分の荷物などには目もくれずに、ゆっくりと階段をのぼっていく。二階、和室に置かれた父のお壇に手を合わせることもなく。三階、必死で追いかけてきたツナを迎えてやることもなく、忍部屋へと閉じこもる。


熱のないドアに、背中をぴたりとくつけて、だんだんと崩れていく。


なに、

性格が、

自分は暗いのだろうか。

父は、どんな性格だった、

どんなふうに喋ったんだ、

おもい出せない。

またか忍、

鷹史の大切なひとの真似をして、

鷹史の気を惹こうとするのか。

もう父親の幻想なんか、全て取り払って……、

しまったら、自分ってものは、なにもなかった。


「はあ……いったい、ひとりでなにをしているの」


灯りもつけずに忍は、ぼんやりと考えてしまう。

歓声の中を走り跳ぶ藤田の姿を、偉大な家族に挑む西村を、部員達に慕われる五十嵐の横顔を。

いつしか皆は離れて、忍だけが残される。



モヤがかった映像が、

【流れる水の音、恨み言、松雪の冷たい目……】



篠塚家さえあれば、忍の心は平和。それでよかった。

けれども鷹史の心境に変化があったのなら、崩れていく。

変化、変化か、


「おじさんの容姿と一緒じゃん」


ふっと笑って、忍は苦しい息を吐きだした。



――今日は、蹲ってばかりだ。



忍の前髪がさらりと流れる。

窓は閉じている。

新たな風が運ばれてくるはずはない。

忍が不審におもって顔をあげると、ふと窓の外の見慣れない灯りの存在に気がつく。それは今までなかった場所に灯る、


「あっ……世界マンション、例の角部屋!」

どきり、と胸が跳ねた。


忍は立ちあがると、灯りに惹かれるかのように近づいた。窓の桟へと手をかけて、そっと覗く。


「!」


例の角部屋の広いバルコニーに、ぽつんとひとり誰かが立っている。

そのひと、向こう側から忍部屋を眺めていたみたい。

忍とそのひとと、忍部屋の窓越しに互いの視線がかち合ってしまって、互いに驚いた。


なんだろう、なにかが――びびっと、忍の脳内回路に強く電流が走った。


正直言って夜だ、窓の外は暗い。そのひとの背後にある角部屋からの照明が逆光と輝いて、人物の詳細は見えなかった。けれども凄い、なんだか凄い容姿の――男のひと。たぶん白っぽい金髪の、白人のひと。そう、若い外国人だった。


困惑。


離れているようで、飛び込めば届いてしまうんじゃないかという、ふしぎな距離。結構長い間にして、ものの数秒。ふたりはしっかりと互いの様子を見合っていた。


――訝しげに見ていた忍も失礼だったかもだが、

――あれだってもの凄く失礼だ、むしろ失礼だ、


目と目、意識と意識が向かい合ったのち、ほんの一瞬だったけれども、フイとそっぽを向いて、そのひとは角部屋の中へと帰ってしまった。


新たな訪れ。新たな出会い。新たな環境。そして変化。

あれが新しい、そして最後の、世界マンションの一部屋を埋めた住人か。


「な、に……あれ……」


こんなものか。

ファーストコンタクト「苦手」by忍。

嘘であってほしい。まじか。助けてフジタ。

忍部屋の窓の真っ正面の景色に、勝手に入り込んで来た侵入者が。

忍はこれから窓辺に立つたびに、今のそれを思い出しては憂鬱な気分となるだろう。

あのひと、すぐにでも近所を徘徊し始めるはず。今後町の至るところで遭遇するのだ、ばったりと。困る、ついてない。心を閉じよう。もう引っ越せばいいのにあのひと。


「つら……」


けれども、あのひと確かこう言ったはずだ。

忍の顔を見て、


「ハヤト サン」


まさか嘘でしょ、

忍はぽかんとして考えた。

なぜ知っているんだ、あの外国人。

それって忍の亡き父親の、名前なのだから――。




 かがり町の夕暮れ・了

 次は『たかしの日常』


 

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