✅すてきな昼休み⑤ 〆
校舎の中は、陽と埃の匂い。
忍は西階段をおりていく。
バイオリンの音が心地よく流れる、非現実の世界から、忍はひとり脱け出てきた。
白昼の屋上から、教室へ――現実へ。
いまだ曖昧な夢のうちをゆったりと行き来する旋律に、ふわり、ぼんやりとする。
西村の「夢」は留まるところを知らない。がアンコールはどこか切なげで、初めの演奏とは少々変わった気がする。二度目だからアレンジしたのだろうか。
楽譜が読めて、楽器が弾ける。
忍は出来ない、羨ましい。
ふわり、ぼんやり一段。
また一段。
忍は勿体ないことをした。特等席のままでこの演奏を聴いていればよかった。皆と過ごした、すてきな昼休み。そこは眩く、澄んでいて、忍を咎めるひとは誰もいなかった。
♪ チクタク、タク、チクチク、タクタク――夢の中、時間を刻む節がある。
踊り場を曲がって、すぐ下の教室を見おろした時だ。
忍はぴたりと足を止めた。
止めざるを得なかった。
♪ チクタク、タク、チク、チク、タク、タク――音と重なる、心臓の鼓動。
なぜそこに、かれが居たのだろう。
階段の下、松雪、 松雪、
「松雪……」
鐘が鳴る。夢の刻限だ。
階段の高窓から差す光を浴びて、松雪の白皙が一際映えていた。行き交う生徒のない廊下に、ひとりで佇む松雪の姿は、孤独な天使をえがいた美しい絵画のようだった。
こちらに気づいて、じっと見あげてくるその視線は酷く冷たい。
忍は軽蔑されている。
「……」
「……」
互いに沈黙。
いつもどうしてか、ふとした時に出会ってしまう。
忍の所属していたバスケ部、副部長となった――
おなじ二学年で、大人の雰囲気。
バスケ部では、五十嵐に次いでの長身。
ふわりとしてアッシュに染めた長い髪。
幼い頃は、輝く金髪だった。
そう四分の一、北欧の血が混ざっている。
細い眉に、けだるげな垂れ目。
垂れ目、
そこへ、あまり見せない大きな碧い瞳が隠れている。
垂れ目、
コンプレックスで本人は気にしている。
つんとした高い鼻、無愛想にいつも閉じている口。
松雪。
忍と、松雪。
互いのことを、よく知っている。
夏。
大事な友人関係ががらりと変わった。
忍は、かれを深く傷つけてしまった。
それはお互い様かもしれないし、仕方がなかったのかもしれない。
けれども松雪の方がずっと深くおちて、沈んでいった。
あれから、心が凍ってしまうほど、松雪は忍を恨んでいる。
かれに睨まれている間中、時が止まったかのようだった。屋上から降ってくるバイオリンの音色だけが、自由に、伸びやかに、この空間を流れている。
松雪には昔からシャツの袖を、肘の下まで捲る癖がある。
長く、かたちのよい両腕には余分な脂肪は一切なく、薄っすらと血管が浮き出ている。青みがかった白い素肌は、厳しい日差しの下でも絶対に焼けない。夏でもひんやりとして、かれの触れたところが気持ちよかった、――あの腕の這う感触を、忍の全身がおぼえている。
だが今、袖を捲った松雪の、筋張った右腕の大部分には、痛々しい、大きな傷跡が残っている。見てはいけない――忍は無意識のうちに顔を歪めてしまったようで、松雪はこれを察した。
ずきり、と心が痛んだ。
「あ、花の2-A。篠塚くんだ」
「珍し~」
「ね、シン。仲よかったんでしょ」
松雪のまわりに現れたのは、おそらく、かれとおなじ2年B組の女子たちだ。階段の半端なところで立ち止まる忍に、ちらちらと好奇の目を向けてくる。
「……構うな」
やはり冷たい視線で一瞥したのち。
まるでここに忍などいなかったかのように、松雪は去ってしまった。
「松雪」
かれとは、小学校へあがる前から一緒だった。
かがり町に生まれて一番初めに出来た、忍の友達。
互いの父親同士も、幼馴染で、親友だった。
「深くん……」
それも全て、剥がれておちていく。
「篠塚」
忍の肩に、そっと手が置かれる。
いつの間にか五十嵐が、隣へ並び立っていた。
「お前だけのせいじゃない」
「……」
「あいつが、頑ななんだ」
五十嵐の優しさが、時々酷くつらい。
教室へおりたはずの忍が戻らないから、心配で追ってきたのだろう。
「悪ぃ。実は俺……屋上いく時に、松雪がこの辺りをうろついてんの見てたんだ」
確かに、屋上の演奏を抜け出る際に、五十嵐は忍の目を見ていた――あの時、かれは引き留めようかと迷っていたのだ。
「
その言葉で、忍は身体の中から焼けたようだった。
今の一瞬、忍は消えてなくなりたい。
ここに居たくない。
階段を、朝見た藤田のように全力で駆けおりていきたい。
たとえ足を踏み外して下へおちようが、その無様さを他人へ見られようが、構わない。
不安定に、あえて、おちても、構わな――――
「篠塚――っ!」
はっとした。
五十嵐の腕に、忍は抱えられている。
「バカ野郎! こんなことで、つまんねぇ怪我すんな!」
五十嵐に本気で怒鳴られた。さっきまで、すてきな夢心地だったのに。急激に現実世界へと引き戻されたような、なんとも、なんとも惨めな気持ちが滲んでくる。
気づけば、西村の演奏も止まっている。
「ずっと前、怪我をしたのは松雪だ。今、お前がこんなところで怪我をしたってなんの意味もない。もっと自分を大事にしろ!」
「離せ。こんなことしなくていい……五十嵐の印象まで悪くなる」
「そんなことはない。篠塚、他人から見た印象なんて行動で拭い払えばいい」
「……メンタル化け物」
「ああ? なんだ篠塚、聞こえねぇ!」
「もうバスケ部員じゃないんだから、放っておい……」
「いや、逃がさねぇぞ」
嫌な予感がする。
五十嵐は一度怒ると、長い。
これは残りの昼休み、いや一日、五十嵐の説教というか説法で潰れるかも。
「ゆ、ゆるして……」
「なにをだ」
忍を抱える腕の力が、強まった。
「状況が違うから」
「なぁ篠塚。一度さ、松雪交えて話さないか」
「……は?」
忍にだって、触れてほしくないものがある。
「“別に篠塚いらなくね” ……今朝、はっきり言われた。忘れたかよ五十嵐」
「それ松雪の本心じゃねぇから!」
「なんども言わせるなよ! ムリだよ! 今年の夏までは全て、順調だった。でもそれは違った。それまではバスケやって、おなじ方向を見ていたから、互い……互いに気づかなかったんだ。松雪とはいつか必ず、こう離れることが、決まっていた」
「篠づ……」
「ごめん。……西村のバイオリン、初めて聴いた……綺麗だな…… 西村の音楽は ちゃんと聴けなくて、ごめん……そう伝えて」
「あ! おい……篠塚っ」
すり抜けていく、忍は逃れていく。
味方となり庇ってくれる五十嵐の手を。
美しい音楽で励ましてくれる西村の想いから。
必ず見つけてくれる藤田にだって背を向ける。
忍の友人たちは皆、好きなことに全力だから、一緒にいていいのだろうか、果たしてわからなくなる。
藤田は、毎日を楽しそうに生きている。
五十嵐はやりたいことを必ず勝ち取っていく。
西村は偉大な家族を頼らず、己が道を切り開いている。
他人には到底マネられない。これでもかというほどに主張をして、皆輝いている。
そんな友人たちが眩しく、――羨ましい。自分は、かれらの傍にいてもいいのだろうか。かれらといると忍は、自分だけが影のような、別の次元にいるような、突然の孤独感に襲われる。
『……逃げるのかよ……』
頭の中で松雪の声がする、
『……また逃げるのかよ……』
松雪の心が凍っているのなら、忍の心には壁がある。
それをうち側から、自分で押さえつけている。
いつからだろう。部活を辞めた今年の夏どころじゃない。
もっと、もっと、昔のきっと、忍がこどもの頃から、父親亡くした、その日から。
――今日はこのまま帰ろうか。
昔は壁にも、扉があったのだとおもう。
脆くて、そっと開けると、途端に壊されそうになる。
何度か開きかけて、そのたび無理やりされて、今はもう開けるなんてやめている。
それは鷹史に対してもだ。
嫌われたくない一心で、互いの顔色ばかりを窺っている。
結局、誰に対してもダメ。人間がダメ。
忍の心は、ずっと閉じている。
すてきな昼休み・了
次は『かがり町の夕暮れ』
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