第2話  理解ってなんだろう

我々はよく人に「わかった?」と聞く。そうでなくとも相手が理解しているか否かはコミュニケーションにおいて非常に重要であるように思われる。しかし理解というのは非常に難解でもある。

例えば色をあげてみよう。私たちは生まれたときから一貫した色覚を持っているが ーー何らかの病気で神経をやられない限りーー  これが他人と同じように見えているかは全くわからないのである。

「はっ?」と思われる人も多いかも知れないが例えば私が赤いもの ーーよく熟れたトマトーー を見たときに脳内で色aを感じ緑色を見たときに脳内で色bを感じ、あなたがその逆だとしよう。このとき赤いものを二人が見たらどう感じるだろう。私はそれを脳内で色aとして見る、すると今までの経験からそれが外の世界の赤だとわかるので「赤です」と答えるだろう。あなたも同様の過程で「赤です」と答えるだろう。そこに脳内でどう感じているかは一切関わらない。どんな質問をしても私とあなたがちがう色で認識しているかどうかはわからない。これは拡大すると理解しているかどうかはいかなる質問でもわからないということを示す。

もちろん学生が授業の内容を理解できているかのときにまでこんな理屈くさいことを言う気はない。テストをして赤点の奴は補習で十分実用的だ。問題はAIだ。とは言ってもその前にいくつか例をあげたい。一番最初にあげたいのは算盤だ。江戸時代の子供が算盤を習いはじめたとしよう。寺子屋で教師から「足し算のときはこの玉をこうして こうなったらこっちを動かして できた形をこう読む」と教わる。次に教師からの問題を解く。「願いましては542円なり452円なり42円では」子供は必死に言われた通りに算盤を動かして答えを導く。「1036円です」さて今この子供は計算を理解していただろうか?おそらくそうではない。ただ原理もしらず玉を弾いただけである。では算盤は?もちろん「ノー」だ。では算盤と子供合わせたら?これはどうだろう、どんな問題を出しても ーー子供がとちらなければーー 正しい答えが出てくる。壁の向こうにいる人が問題だけで相手が数学者か子供かを判断することは出来ない。

電卓はどうだろう?この道具はボタンが正確に押せさえすれば四才の子供ですら五桁の加減乗除をいとも簡単に行える。この二つは確かに答えは正しいでもその方法を他人に説明できないから理解していないという考え方もできるかもしれない。では数学の教科書は数学を理解しているだろうか、もっといけば「ルートッてなんだよ」という声に反応して教科書の平方根のページを読み上げる機械はどうだろう。感覚的に考えて算盤や電卓、教科書が数学を理解していないのは当然である。では人のほうはどうだろう?あなたの隣の人が足し算を理解させるかどうかはどうすればわかるのだろう? 理解の定義にもよるがおそらくあなたは何とかして教科書や電卓と隣人の違いを見つけ出し、前者は理解していないと結論づけるだろう。

ここまで見てきて理解というのは行為の正確さや速さではなく、対応範囲の広さの方から定義付けされる傾向にあると思われる。例えばGという記号を「この直前の数が1なら『+』そうでないなら『―』としてはたらく」と定義する。これはおそらく一般の電卓では計算しにくいが人には計算しやすいものだろう。しかしAIの場合そう遠くない未来、既知のものから未知のものを作り出したり、既知のものを使って未知の問題を解決しようとすることが可能になるだろう。その時一体誰がAIは何も理解していないと言えるだろうか?もしそう言い切ったならばその人は自分以外の誰も「理解」出来ないと言い切るのとそう変わらない。

強い理解力で世界を理解し神を隙間に追いやった人間が自ら産み出したAIにその仕事を奪われて狭い隙間に追いやられるのはある意味滑稽であるかもしれない。

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