第130話 黒い砂

 「土師君。君は、亡霊なのか?」

 肺に吸い込んだ煙がざらついた感触を残し、そのすべてを吐ききることのできないままボスは自らの内部に在る「空洞」が、砂に溜まっていくのを感じていた。それならば、俺はこの世界から「砂」を除去する空気清浄機なのではないのか? 呼吸する存在はすべてが、この世界から「砂」を除去して目詰まりしたら捨てられるだけのフィルターなのではないか? ボスはそう思いながら、普段よりもゆっくりと深く、煙草を吸った。

「あなたは私に亡霊かと訊ねるのですか? わたしにはあなたがたのほうがよほど、亡霊のように思われてならない。釜名見煙の怨念が生み出した傀儡。実体を持たない影。風紋は自らの意思で軌跡を描いていると考えているが、それが風任せであることに気づかない。砂漠は意思をもちませんし、風も意思をもたない。意思とはまさに、風紋のようにしか存在しえない。意思こそが究極の罠だった。その惨めな失敗の記録が、おみせした二種類のレジュメというわけですよ」

 意思か。とボスは思った。ボスにとって意思とは好奇心に他ならなかった。意思とはかならず「対象X」に対する意思としてのみ顕れる。だがXを持たない意思はたしかにあって、それはあてどなく流浪するよりほかなかった。人は意思によって生き、意志によって迷う。それが人生ではないのか?

「人生。という決定的に不自由で限定的なものに自らを閉じ込めておくことこそが、『自由の罪』なのだとわたしは思っています。意志に対抗しうる唯一の衝動は『慈悲』だけですが、さしあたり保留しましょう。あなたはわたしに『亡霊なのか?』とお尋ねになった。亡霊とはしかし、どのような存在形態とあなたは定義なさっているのでしょうか?」

 亡霊の定義?

 ボスは真正面からそう切り込まれて、腕を組んだ。

「肉体を持たないまま残存し続ける意思、といったところかな。それは物体に寄生する。そうだな。寄生虫のようなものだろうか。だが子孫を残したりはしない。亡霊を感知する側の内部的問題だとするならば、それはおそらくウィルスのようなもので、亡霊との遭遇はその症状のようなものかもしれない。つまり、僕は砂に付着したウィルスに冒されており、その症状として今、君とこうして話しているのかもしれないね」

 砂に描かれた土師の顔がゲラゲラと笑った。その大きく開いた口からも、本来そこのあるはずの床タイルは見えず、ただ砂がうねりながら奥へと落ちていくようだった。ボスはその砂の落ちる小さな一点を注視した。砂時計を真上から覗き込んでいるかのような動きだと思った。この土師の笑った喉の向こう側には、こちらとは逆に砂が吹き上がる穴が、この同じ顔の口に穿たれていて、そちらの顔だけの砂漠にだんだんと、このタイラカナル商事厚生部の一室が出現しつつあるのではないかと、ボスは想像した。土師は馬鹿笑いを突然に止めて真顔になった。そして今度は唇を動かさずに話し始めた。

「そうなれば、このレジュメもまた『亡霊』ということになります。それにあなた自身だって私の症状なのかもしれない。あなたが亡霊でなくわたしが亡霊であるという根拠はそれぞれが組み込まれている世界の在り方に100%依存しているわけです。あなたから見ればわたしは単なる砂の面でしかないだろう。だが、私から見たあなたが、砂男であると、わたしが主張したとき、あなたにはそれを合理的に論破する手立てはないのです。亡霊とはそういう双方の相対的な関係性の絶対さに現れるものだと、釜名見煙は書き記しています」

 では、そのレジュメは釜名見のメモなのかね?

「まさか。こんな不完全な計画書を釜名見が書いたりするものですか。ですが、釜名見の亡霊にとり憑かれたモノがその脳漿の限界まで振り絞って計画した哀れな失敗の記録だということは間違いないところでしょうね」

 釜名見という症例……

 その見地は、ボスにとっては親しいものだった。ンリドルホスピタルの閉鎖病棟には、そうした症状、それも千差万別の症状に焦燥し、なにかを表現せずにはおられぬ脳の空回りして焼き切れそうになった臭い(それは糞尿の臭いに酷似していた)に満ちた一角を、ボスは長い間彷徨っていたことがあると思った。

「すると、これを書いた者もやはりンリドルホスピタルの、つまりは平喇香鳴の実験台ということか」

 ボスがそうつぶやくと、土師の顔がぐるりと裏返った。そこに現れたのは美しい女の顔だった。土師の顔は砂の凹で描かれていたが、女の顔は凸で描かれていた。ボスはこの女の顔をどこかで見たことがあると思った。だが、そのときボスは、さきほどまでずっと砂を落とし続けていたはずの顔の喉から、今は少しずつ砂が吹き上げているのを見て取った。深呼吸した。体内のザラつく感じが消失していた。周辺はあいかわらず砂まみれだったが、呼吸する大気はその上澄みででもあるかのように澄明清涼だった。

「時間稼ぎだったというわけか」

 ボスは、不適な笑みを称える女の顔をつま先で踏みにじった。だが、それはたんなる砂溜まりでしかなく、噴出口も消え失せていた。ボスは改めて室内を見渡した。そこは、まったく正常な厚生部だった。いまにも、白衣のテクニシャンが微笑みともに控え室から現れて「あら。予約は15分後のはずですよ、ボス」とでも言いそうだと思った。

「あら。予約は15分後のはずですよ、ボス」

 と控え室から白衣のテクニシャンが微笑みとともに現れた。彼女の顔をボスは知らなかった。

「新人かな?」

「いいえ。むしろベテランだわ」

 彼女はそういいながらコンソールを操作して、さきほどまでボスが入っていたタンク06を洗浄にまわした。その迷いのない手つきは、こうした業務に対する熟練を確かに信じさせるに十分だった。

「君の名は?」

 とボスは尋ねた。

「夏个静ノと申します。どうぞごひーきに」

 彼女はそう言って、深々とお辞儀をした。その胸元から彼女の胸元が見えた。そこには真っ白な肋骨とピンクの肺臓が見えた。

「君が夏个静ノクンか。お名前は隊毛頭像氏からうかがっている。なんでも、逃亡犯だとか?」

「あら、わたし逃げも隠れもしていませんわ。昨日の午後からずっとこちらで忙しく洗浄していましたもの。だけど昨日の午後って、生まれる前くらい昔のことって気がしませんこと?」

 彼女はそういって、屈託なく笑った。ボスは、ンリドルホスピタルの院長の目と耳とを一瞬にして奪った手腕はプロのそれだと、隊毛に耳打ちされたことを思い出した。だが、そんなことをいつ耳打ちされたのか、ボスにはわからなかった。昨日の午後から、確かにさまざまなことが起こりすぎていた。そして今は深夜帯のはずだったが、窓の外には真夏の太陽がギラギラと白かった。

 暑いな。とボスは思った。だが、一滴の汗も出てこなかった。

「ずっとあっちの控え室にいたのか? ならば俺が入ってきたときのことは覚えているかい?」

 ボスがそう尋ねると、彼女はキーボードを打つ手をはたとめて、ボスを見た。

「おもしろいことおっしゃるのね。だってあなたをタンクへ入れたのはわたしですもの。だって、わたし以外にタンクを操作できる人って、今はいないんですもの」

「君が俺のタンクを操作してくれていたのか。では、普段のジェルではなく砂を入れたのはどういう理由だったのか、聞かせてもらえるかな?」

 ボスは単刀直入に尋ねた。夏个がボタンをいくつか押すと、洗浄室のエアノズルから激しい音が聞こえてきた。

「あら。それはわたしがお訊ねしようと思っていたんです。あなたもどこから、あんなに大量の砂を、おもちこみになったのでしょう? おかげでタンクの洗浄がとても面倒になってしまったんですのよ。データにはおかしな脳みそのワイヤーフレームが残ってるし……」

「脳みそのワイヤーフレームだと!」

 ボスは砂を蹴り立てて夏个の操作しているコンソールへ回り込んだ。

「キャッ」

「どこにある? その脳は?」

「どこって、ここですわ。あら、このタグの名前……」

 それは、ンリドルホスピタル泌尿器課元部長千曲湛衛門 と記されていた。

「ファイルのタイムスタンプとアクセス権限者はわかるかっ!」

「えっと…… これですわ」

 作成日時は、昨日の午後14時58分。アクセス者はアルビノフミコレで、権限付与は勤怠管理部。となっていた。

 千曲湛衛門は、ンリドルホスピタルにおいて、院長とともに行方不明となった。院長はその後、社の地下駐車場で発見されたが、千曲はあいかわわらず行方不明のままだった。その脳のワイヤーフレームがこのタイラカナル商事の厚生部のHDD内に残っており、それはおそらく、タンクのスキャン機能をアクロバチックに用いて作成したものだろう。

 千曲湛衛門の身体がタンク内にあったのならば、わざわざ、ワイヤーフレームなどという不完全なモデルを作成する意味はなく、かといって、何のサンプルもなしにこのように精巧なワイヤーフレームを作成することは不可能と思われた。

「俺の前に『も』砂が残っていたのか?」

「ええ。もうザラザラ」

「その砂はどう処理するんだい?」

「どうって、吹き飛ばすんですわ。エアノズルできれいさっぱり。あとは集塵フィルタに溜まるでしょうから。それを清掃部が回収して新品と交換するんです」

「清掃部か……」

 ボスは、やっぱりな、と思いながらも表情がこわばるのを禁じえなかった。

 清掃部とは、シュレッター書類などの廃棄書類の取り扱いの際、何度もやりあっている部署だった。また清掃部には社長秘書課直属の指揮系統による裏の仕事が任されているという噂もあり、広報部としてはこの社内の闇をなんとか明るみにしたいと思っていたのだが、どうにも尻尾を表さなかったのであった。


 ――よせ、やめろ。清掃部にかかわるな。もう私はこの作品に、新たな登場人物を登場させないと、読者の前で明言しているんだからなぁぁぁぁぁぁ


 ボスは、どうしても清掃部へいって、その砂がどうなったのかを知りたくなった。一方で、やはりこの場所に夏个静ノがいるのは、場違いだという直感は拭えなかった。

「君はこれからどうするんだい?」

「あら。どうするって、お昼までずっと仕事だわ。その後は納米里でもいって、ランチを食べて、あそこのタラコマヨパスタってとってもボリューミーなのよ」

「その後は?」

「あら、うふふふふふ。ボスもようやく私の魅力にお気づきになったのかしら? でもだめよ、だめだめ。午後からは病院に戻って新院長決定の役員会なの」

「おや、君はあそこの役員だったのか?」

「あらいやねまさか。うふふふふふ。でも、わたしがいないと始まらないのよ」

「それはぜひ、俺も立会いたいものだかが、部外者は立ち入り禁止なのだろうね」

「もちろんよ。部外者は入れないの。残念ね。でも。わたしは、入れるのよ」

 彼女はそう言って、ボスに秋波を送ってきた。ボスは清掃部とンリドルの院長人事とを秤にかけた。

「では、俺はちょっと清掃部へ顔を出してくるから、それから一緒にランチでも食べよう」

「ええ。いいわ」


――畜生、もうすこしで清掃部から目をそらせることができたってのに。夏个静ノめ。許さないぞ。


 ボスは、じゃ、と右手を上げて部屋を出た。その袖口から黒い砂がザラザラと落ち、夏个静ノは顔をしかめた。

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