第131話 夏个静ノごろし

 「お兄様はご無事かしら……」

 ボスが出て行くのを見届けた夏个は、白くて小さな手を胸の前に組んで祈るように目を閉じた。すると、浣腸するときに目の前でヒクヒクと蠢いていた愛らしい肛門が思い浮かんだ。

 敏感で繊細で屈託がなくて下品で嘘のないその器官を眺めているのが、彼女は好きだった。指でつつくと臆病にキュッとすぼまり、そうやってしばらくは身を潜めているつもりで、だけどぜんぜん隠れることなんてできていなくて、しばらくすると、まだ脅威は去っていないというのになんだか、すっかり安心したように緊張を緩めてハニワみたいに脱力してしまう。そこをまた突いたときの狼狽具合といったら。

 ほんとうに見ていて飽きないのよ。

 次第に信頼関係を築き、指を受け入れるようになっていくときの、モゴモゴという狼狽というか歓喜というか戸惑いというか。そういった複雑な感情を、肛門括約筋は指をリング状に指を締め付けることで伝達することができる。夏个は、それを指で感ずることができた。


 「指輪みたい」

 幼い頃、兄の肛門に指を差し入れてはその感触から、兄の自分への愛を感じるのが好きだった。

 兄は自分のすることを決して拒否せず、無理強いすることもせず、横臥したまま「ウッ」とか「ア」とか短い息を吐いて身じろぎするだけだった。そこに性的快楽が付随する可能性を、夏个は一切考慮していなかったし、兄も、妹の純真な行為に性的な意味を付加することを禁忌としていたのだろう。


 「静ノは、大きくなったらもっとぴったりの指輪がもらえるよ。そしたら、僕の指輪なんてもうぜんぜん、つまらなくなっちゃうんだ」

 兄はそういって、夏个を悲しませた。たぶんそれは本当だったからだ。そして、その本当のことを言っている兄の寂しさが、モグモグという締め付けからヒシヒシと伝わってくるからだ。

「チキショウ。僕は気持ちよくなんてなりたくないのに。そんな風にされるとだんだん頭の中が痺れてきて、頭の中がオチンチンへ吸い出されていってしまうような気がするんだ。そうすると僕は僕じゃないみたいになるよ。それがものすごく嫌なんだ」

 兄はそんな風にいって、体をクの字に折り曲げてお尻を振った。

 夏个には、兄の苦しみは理解できなかった。だが、苦しんでいるということは左手薬指への圧迫具合でとてもよく分かった。それは言葉にしてはいけない感情だと夏个な感じ取っていた。

 だから、後年、それがカウンセリングで言語化されたとき、彼女はカウンセラーを激しく憎んだ。

 左手薬指に伝わってきたあの精妙な感情の襞を、既製の言葉の型にはめられ、「変態性欲」というレッテルを貼られたとき、夏个にはもう、怒りしかなかった。

 そのカウンセラーは顔を持たなかった。夏个が怒りを露にしたとたん、カウンセラーは今まで夏个が見ていた顔をビリビリと捲りとって、眼球と筋肉と歯茎と歯をむき出しにしてみせた。夏个は卒倒した。

 気がつくと、真っ白な四角い部屋のベッドの上に自分は緩く拘束されていて、兄の記憶から「顔」が失われていたのだった。


 「お兄さまぁ~~~~~」

 ぶぅ~~~~~~んという空調の音が響く何もない部屋の記憶。夏个は、失われた兄の顔を求めて自らの記憶を周囲の壁面に投影して、その中を彷徨った。手がかりは、指にしっかりと残る兄の括約筋の感触だけだったので、やがて夏个が捜し求める兄の顔の部分が、括約筋の締め付けの感覚に補完されていった。

 こうして彼女の兄の顔がすっかり肛門になってしまうころ、夏个は自分の身体から色が失われ、あのカウンセラーの顔のように筋肉や骨や内臓が透き通っているのに気がついた。

 それは、千曲の実験の失敗を示していた。夏个はそれで良かったのだと思った。もしそれが成功していたとしたら、あのカウンセラーの復顔に応用されるのではないかと思っていたからだった。

 女性が顔を奪われるというのがどれほどの痛手となるのかは、夏个にも想像できた。だが、彼女はそのような事故をも、自らの仕事に率先して取り入れ、夏个から兄の顔を奪ったのだと、夏个は考えていた。そのような強さは院内でも表向きは賞賛されている。(裏では、変わり者。そこまでしなくてもいいんじゃないか。正直、正視に堪えない。などの声もあるが、そのような発言は危険だった)

 それでも、やはりどこかで彼女も顔を求めているはずだと思っていた。

 私が兄の顔よりも肛門にほうに愛着を感じているからといって、顔を忘れてしまっては、兄を兄と識別するためには、出会う兄候補の全員の直腸診を院長にお願いしなければならないのだから。

 顔というのは、安易に一目で判別がつけられる識別子としてのみ有用なのであり、そこに好き嫌いの要素は含まれなかった。

 夏个は、表情を読むのが苦手だった。脳のその部分のリソースが、夏个にとっての指だったのだろう。夏个は、肛門の締め付けを表情として認識でき、そこから情緒を読み取ることができた。それは、声を聞く耳、のようにではなく、読唇術を行う目のような間接的な知覚である可能性が高いが、言語を用いないコミュニケーションがもつ、ある種の全体性を備えている点は、夏个の読み取り能力よりもむしろ、肛門括約筋の表現力にこそ、重点を置くべきである。

 という、報告を読んだ院長は彼女を寵愛した。

 千曲と政治的状況から疎遠となって自らの性癖を満たす器官を失ったことは、院長にとって非常なる痛手でもあった。だが、その苦しみは、夏个とコミュニケートすることによって不思議と癒えるのだった。

 無論のこと、当初は性的快楽を求めての職権乱用だったのだが、回を重ねるにつれ「身体的快楽」は単に「思考停止」に過ぎないのだということが、院長の身に染みた。

そう。セックスはいつだって、現実逃避でしかなく、その間の時間は日常から浮遊し、いつだって細切れで、「終わり」ばかりが際立っていた。院長はしだいに勃起-射精というプロセスが空しく思われきた。それは年齢のせいだったのかもしれないが、院長は、夏个との、言葉を介さない深く、全面的な「対話」の喜びを知った。


 「自分は女の無反応に安住して、自分勝手な妄想玩具とし、性的興奮の残滓を舐めとるような変態性欲者ではない」

 「交流のない接触は無意味だ。言葉ですらも!」


 院長は夏个にそう教えられたと思った。そして、そのように実感してみると「釜名見煙」の理念を、「狂人の妄言」として全面的に退けてしまうことに躊躇を覚えたのであった。

 そして、裏切りに等しい行為を一言も責めなかった千曲の純愛を初めて実感して、枕を濡らしたのだった。

 「愛し合っていたのね。二人は」

 夏个は院長の、ピュアな部分に触れてうれしかった。そして院長もまた自らの内部にピュアな部分の残っていたことを確認できたことを喜んだ。二人は信頼関係を深め、院長は夏个を第一秘書としたのであった。

 だから、先ほど夏个は、ンリドルホスピタルの新院長人事の会議に出席すると言ったのである。

 となれば、院長の目と鼓膜と舌とを抜き取ったのは、当然のごとく院長自身の指示だったのだろう。院長は、隊毛らに拉致され、秘匿すべき情報を漏らしてしまうことを怖れた。そして、地下駐車場で最後に院長の意思を知った可能性があったのは夏个だった。夏个は一貫して院長のために動いていたのだ。

 院長の言葉にできない意思を、虐げられた兄のために自らを犠牲にして動く妹のような純真さで代行しようとする愛。

 だが、そのような妹とは所詮幻想にすぎないのではなかったか?

 彼女の身体が透明になったのは、つまりは妹の処女性を象徴する男どもの幻想によるのではなかったか?

 言葉には顕すことのできない余剰として、妹は存在する。いや、正確を期するならばこうだ。

 言葉に言い表そうとすれば必ず多くを言い落としてしまうから、それは常に「固有名」としてのみ名指されるしかない言語の彼岸にある余剰の塊としてある、死んだ妹。

 夏个静ノとは、すべての男性が胸に抱えている「死んだ妹」の幽霊に他ならない。

 平喇香鳴は、そのことを「共同幻想だ」と指摘していた。


 「そんなことはない。私はこうして生きているし、院長の意思を実現させてあげたいと思っているし、お兄様に会える日をずっと楽しみにしてるのよ」

 夏个はそういって、私に詰め寄った。パチン。パチンという音は、白衣の中でゴム手袋をはじいている音だろう。

 「だが、言葉の余剰であるお前を、小説に書き留めることなど、そもそも不可能だったのさ。書かれたお前はつねに針の穴からのぞいた空のように部分的すぎて、行動理念に一貫性を持たなかった」

 「だけど、それも空であることに変わりないはずよ。院長は釜名見煙の空想を具現化すればどのようなことが起こるのかを想定していて、それをわたしにすべて伝えてくれた。わたしはお兄様に会えればそれでよかったんだけど、そのためには釜名見の空想が障壁になるということが分かった」

 「なるほど。で、院長が自らを三重苦にしてまで隠したかった情報とは何のことだね?」

 「そんなこと、言えるわけないじゃない」

 「私は、作者なんだよ。教えてくれたら君のお兄さんのことを、教えてあげることだってできるんだ」

 「お兄様のこと……」

 夏个が一瞬隙を見せた。

 私はそこを見計らって、すばやくズボンとパンツを脱ぎ捨て、彼女の目の前に尻を突き出した。

 「さあ。自分で確かめるがいい!」

 パチン・パチン

 気がつくと、私は視界と鼓膜と舌と十指を奪われていた。それから肛門に何かがズブズブと入り込んでくる感覚があった。それは、夏个の指などという些細なものではない、もっと太く、長く、複雑な形状の……


 たとえば夏个静ノそのもののような……


 まあ、いいさ。「許さない」と言った初心は貫徹できたのだから。この期に及んでボスに清掃部などという面倒くさい部署を知らせた報いを受けさせるためなら、刺し違えても構わない。

 全身で存分に味わうがいい。この空想技師集団の結末を。もし、そんなものが、あるのだとしたら、だがね ハハハハアハハハハハハハアハハアハハ。

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