第122話 タコブネ
**************************************
「おい。タイラカナル商事の課長じゃないかね!」
ベッドに腰掛けてぼんやりとしていた老医師が、キャラバンの中の一人に声をかけた。
ひょっこりと顔を上げた男は課長で、その傍らにいたサリーの女は、平喇香鳴であった。
**************************************
「君はいつ退院したんだね? いや、主治医というよりもスーパーバイザー(S)の香鳴クンが同道しているのなら、まだ退院してはおらんのかな?」
部長は、純白のクーフィーヤを翻し、駱駝から飛び降りた。靴が砂を広範に雪崩れさせたが、部長の日焼けした精悍な白眼もいささかも動揺させることはなかった。
「わたしは、まだ、せんせいに、きょうきんを、ひらく、じきでは、ないよう、ですね」
部長の声は真っ赤に解けた鉄のような熱と冷たい金属音とが入り混じっていた。
「あら、先生。とうとう、こちら側の人類とも口をお聞きになる決心をなさったんですか?」
駱駝の上から、平喇香鳴が涼しげに声をかけた。全身を緩やかに覆ったケープのような布のそこここから露出させている肌は、砂漠を歩いてきたにしては黒くも赤くもなっていない。汗ばんでいるわけでもないその牛乳石鹸のような肌からは、おおよそ「リアル」を感じることはできない。
「君もとうとう、その肌を手に入れた、いや身につけることに成功したというわけか。それと千曲の死とはまさか何か関係がありはしないだろうね?」
グモグモという音が、老医師の足元から聞こえた。それは、自らの口で、バンザイをした両手から次第に飲み込んでいってとうとう臍まで飲み込んだ真名刑事の手と頭とが、ずるりと裏返って尻の穴からはみ出して、ひじょうに足の貧相な蛸のような、いや指は十本なので足の本数からすれば烏賊に分類すべきなのかもしれないが、いかんせんその上にのっかっている胴体部分のいびつな丸さから、全体のフォルムはやはり蛸というよりほかない生物と化して、老医師の「千曲の死」という言葉に興奮を示していたのである。
香鳴が真名蛸をみて顔を顰めた。
「なんですか? その醜怪なイマージュは? おおよそ人が考えうるもっともグロテスクな造詣ではありませんか?」
「その、ようなものこそが、あなたの、ぶんにゃ、もとい、ぶんや、でしょう ?」
部長がそういって、牛乳石鹸を三角刀でスッスッスッと切れ込みをいれたかのような顔を、香鳴に向けた。すると、香鳴の白磁のような頬がわずかに赤らんだ。
「またいぢわるをいう…… わたしの専門は現代美術なんです。あんなバロック時代の遺物になんて何の愛も感じられませんっ」
真名蛸の手と脱肛のようにはみ出している裏返った頭の少し上に、ニョロニョロうごめく突起物があり、それは管状になっていて、さきほどから、ざらざらと砂を零しているのだが、その管がどうやら、真名の臍であったらしいということに老医師は気づいて首を傾げた。
――後ろ前だな。これは……
「え? 何かおっしゃいましたか? ここには生きた人間が三人いるんですから、生きている人間に届く声でおっしゃっていただかないと、なんだかソワソワしてしまいます」
「せんせい、は、たこがえびの、ようだと、おかんがえなのです」
部長の口の切れ込みの片方がわずかに上がった。するとひきつれるように顔全体に皺が寄った。その皺は顔全体へ水輪のように広がっていってどうやら、後頭部の真ん中あたり、頭蓋骨と脊髄との結合部位あたりに収束するようである。
「シウマイはすきかね? 部長は?」
老医師は香鳴と部長の言葉を無視し、ついでにズボンの裾を十本の指、いや足でつかんでよじ登ってこようとしている真名蛸をも無視して、もう見えなくなってしまったキャラバンの足跡を眺めた。それは駱駝や馬の蹄の形をしておらず、サンドバイパーのようなものが斜めにのたくっていった砂紋を形成していた。
「しうまい、はすきだが、へそはこわい」
部長の答えに、老医師は笑った。
「ときに、君のファンデーションはイデア化粧品製かね?」
続けてそうたずねようとした老医師だったが、老医師にも以外なことに、実際に口から出たのは、このような質問だった。
「ときに、君らはどこかへ行く途中だったのかね? あのキャラバンは君が誂えたものではなかったのだろう? なにしろもう見えないのだから」
「あら先生。本当に生きている人間のことを気にかける人におなりなんですか? もし当時からそういうお心がありましたら、この病院もこの世界も、もう少し違っていたのかもしれませんね」
「ひと、は、かわる。そうぞう、のちから。だ」
老医師は、頭の中ではないどこかにある頭の中にある尿道のような部分を、鉗子のような金属製の何かで締められているかのような違和を感じていた。
「想像力で世界を変えるためには、道具と時間が必要だ」
「それが文明なのでしょ?」
「そうぞうだ、けがせかいをかえられ、る」
「私は命の何たるかを知らないが、君らは想像のなんたるかを知っていると思い込んでいるのだ」
頭の中にはない頭が激しく痛み、老医師は残っていたコニャックマルチーニを飲み干した。喉が熱く、ざらざらした。真名蛸はもう、ズボンのベルト附近に到達し、臍だった口吻状の管から吐き出していた砂を、老医師のズボンの中へ容赦なく噴出させていた。
「想像だけでは生きていけません。だけど想像しなければ生きる意味がありません。すべからく、想像を指導することが、宗教であり、芸術であり、科学であり、哲学であり」
「法医学だよ」
老医師は突然、支えを失って落下し、堆積した砂に尻餅をついた。真名蛸が白衣を伝って肩に乗り、そこから後頭部側へ回った。老医師は、真名蛸の口吻が自分の延髄のあたりへ正確に射し込まれていくのを感じながら、そこで何が行われているのかを、自らの顔面で香鳴たちから隠していた。
「そうぞうは、ししゃの、とっけん、で、は、ない」
部長がそういって老医師に歩み寄り、老医師と真名蛸との接合部分に情け容赦のない踵落としを見舞った。
下半身が砂と化していた老医師はその一撃で平らに伸された。白衣の皺が砂を被って、まるで貝殻のように固着した。そして真名蛸は、香鳴と部長の前から逃亡を企てるかのように貝殻をずるずると引きずりながら這い始めた。その砂紋はサンドバイパーのように斜めにのたくっていた。
「放っておけばスルメになるでしょ。いや蛸だからスルメっていわないのかしらね?」
「ほしたこ、は、せとうち、に、ある。あれ、は、よい、ものだ」
絶望的な遅さで逃亡しようとする二人、いやその物体を見下ろしながら、部長と香鳴とは言葉を交わした。
「だけど、たいていツメが甘いと、あとから後悔するものでしょ?」
「めっきゃく、しますか? そうぞう、の、ちからが、うんだもの、は、めっ、きゃくできま、せんよ」
「そうなの。私もあたなも、あれを見ちゃったからもう無理ね。じゃ、やっぱり目の届くところに買っておかないと」
香鳴は、ラクダにつんであった木箱を部長におろさせて、蓋をあけさせて、中に入っていた、CRTタイプのモニター、この台座が真っ白な人体彫刻という凝った何物かの、モニターの蓋をカパリを開けさせて、その中に、砂と砂に溶けかけてきている真名蛸と老医師とのコラボによるカイダコを放り込んで、逆の手順で駱駝の背に戻したのであった。
「じゃ、パーティーに行きましょう」
「いき、ましょ、う」
部長は香鳴を駱駝に乗せ、ゆらりゆらりと砂漠を歩いていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます