第121話 アバラカタブラ

「はい。こちらがお会計です」

 両肩に激しい衝撃があって、僕はおそるおそる目を開いた。見たことのない扉の手前で両側から屈強な男二人に両肘を固められており、目の前に伝票が、子宮内をおよぐ精子の尻尾みたいにヒラヒラしている。(なんだ、この喩えは……)

「チャージ料にピスタチオチャームに商品代金に酒税とサービス税をあわせて、34万3千6百2十5円になります。あ、キリルでのお支払いはご遠慮願いますよ」

 バーテンダースタイルの40代くらいの、やせて油の抜けきった男が、ニヤニヤしながら、はやくも僕の背広や靴や時計に視線を這わせている。

(ハハン。こいつは社会的弱者で主張が弱いくせに正義感が強い軟弱者で、周囲からは単なる優柔不断だと分類されている永遠の手下キャラに違いない。つまり頭の回転ののろい愚図だと思われていて、ちょっと小突けば何でも言いなりになる金持ちのボンボンだ。だからいたるところに痣がついているんだな)

 と、バーテンは僕のことを値踏みしたに違いないと、僕は確信していました。

 そしてそれは、正鵠を射ていると思いました。私は今、財布に34万5千円を所持していたからです。このキャッシュレス(って、一文無しって意味じゃ?)時代に、なぜ僕がこれだけのキャッシュを所持していたのかといえば、それは、今朝、会えるはずだったダッタンインクの実未に支払う手付金だったのだが、いろいろ考えてどうもあれは詐欺だったのではないかと思われてきた。

 巻き込まれた妹が僕を巻き込んだ理由は、僕が妹を巻き込んだせいだということを、僕は直感していたのだが、ずっと、その直感を「おなかが痛い」といって誤魔化し続けてきたのだった。

 緋弐図孔痲という名前を、僕は決して好きではなかった。でもそれがこの世界の、いや僕の社会生活上における通名であるいじょう、名前によって統合された毎日から逸脱しないですごすことこそが、社会人たる義務ではなかったか? 妹、静ノは結婚して苗字を変えた。夏の陽射し煌く清流にひらめく小魚のように、妹はこの社会を自在に泳いでいる、はずだった。白魚のように? まさに、妹の体は、おそらくは新しいサプリメントの治験ともいえぬ治験ナンバー18ででもあったのだろう。

 幸いだったのは、「顔」が残っていたことです。顔を失くしたら、社会はいったいどうやって私を認めてくれるでしょう。DNA。指紋。肛門。声紋と、身体に印は数々あれど、いかに認証されたとはいえ、顔が違えば違和感ばかりが先立つのではないでしょうか? 社員証…… 会社はこの爪に張り付いているチップで本人を見分け、所在を追跡し、時間対成果率を常に見張っているといいます。それが勤怠管理部の主な仕事なのだと。

 だとすれば、社員のプライバシーは侵害しないとはいえ、営業の出先周りでひった屁の数まで(なんだこの喩え)数え上げているという鉄のオペレーター(美人という噂)が、今、僕のここにあることを、そうして、今まさに、ぼったくられんとしているところを、当然、モニターしているはず…… 妹は、自らモニターに志願したと言っていた。もしかしたら、妹のスケスケの身体の失敗は、むしろ顔を失わなかったことにあったのではないか? 

 私は突然浮かんだ疑念に全身系を集中させようとしましたが、両側の屈強な男に持ち上げられて、中空でつま先をブラブラさせている状態は、どうにも考えごとには向かない体勢であるようです。

「あの、ちょっとおろしてもらえませんか。考えがあるんです」

「考え? ハッハッハッ。考えならば私にもいくつか、用意がありましてね」

 バーテンダーはそう言って、ぐっと顔を近づけてきました。これはいけません。僕はあわてて目を逸らしました。でも、こうすることで、僕はますますバーテンダーにとって良い鴨だと思われてしまったことでしょう。

 と、ここまできて、いまさらながら僕に「この状況はなんなのだ?」という疑問が浮かんできたのです。

 だって、僕は「凪」にいたのです。三時十五分までの休憩時間を、これまでの調査報告をまとめあげたという爽快感と倦怠感が、営業二課の女性陣の視線によって木っ端微塵にされた直後、確か地震性の振動のような動揺が、僕を襲ったのでした。あれは、本当の地震だったのかもしれないと、僕は思っていました。なぜならば「凪」では自身が求めない刺激を被る道理がないはずだからです。それは紛れもないストレスになりますから。

 何かが動いている。僕はそう思いました。そう思いながら僕がめり込むような感覚とそれにともなう激痛とが首のすぐ下にまで響いているのを感じていました。

「払えないんなら、肌で払ってもらうしかねえんだけどな」

 バーテンダーは、そう言いながら相変わらず僕を左右から乳房のように挟みこんでいる(なんだこの喩え?)屈強なヘッドスキンサングラス力士(なんだこの描写)に、目配せをしたようでした。僕は激痛を喉元で必死にこらえていたので、その目配せを見ることはできませんでしたし、もしそのような邪悪な目配せを目の当たりにしてしまっていたとしたら、私の症状はMAXレベルに亢進し、それこそ世界を破壊しつくしかねないのだという妄想が、辛うじて僕の、私の。? 自分の脳内で僕は僕のことを私と呼んでいたのか、僕と呼んでいたのかもわからなくなる混乱をきたしているぞ。

「痣ってのは需要があるんだ。刺青よりも簡単で赤青緑黒黄色などがランダムだからな。人革になめして、お前を立派な財布にすることだってできるんだぜ。そうすりゃ、ここの払いなんぞ一発だ。どうだね?」

 持ち上げられて伸ばされたわき腹にリバーブローが突き刺さりました。このバーテンダー、ボクシングの心得は漫画を読んだ程度なのだろうと私には推測できました。しかし、この状態ではどのような打撃にも一応の効果はあるものなのだなと、僕は小便をほとばしらせながら思っていました。小便は薄口しょうゆとオロナミンCを羊水薄めたドンペリみたいな臭いがしました。(なんだこの形容)

「このやろう。店のリフォーム代も上乗せさせてもらうぜ。背中の皮と尻の皮。両乳首付の胸皮に、肩から指先までの両腕分」

「顔は?」

 と、僕は思わずそう尋ねていました。皮を奪われるとなれば、再び皮膚が再生するまでの代替品が必要です。それが、妹静ノの身体を皮膜していた透明な皮膚だったのではないかと思った、だけでは私の質問は明瞭な意図と目的とを欠いているように思いました。

「顔はマスク用にしか用途がないのでね。君の顔を誰か欲しがる人がいるのかね?」

 実未は、おそらく欲しがるだろう。と僕は思いました。一番最初に、僕の青タンに目をつけたのは、彼でしたから。と、たぶん僕はそんなような顔をしていたのでしょう。抜け目内バーテンダーは、相好を崩して僕の頬を両手でぐっと挟んで正面を向けました。目と目が至近距離に……

「受注があるなら、生産するのはやぶさかではないぞ。あらかじめ顧客を用意しているとは、あんたもなかなか抜け目がないね。顔なら60万はくだらない。それにその、爪の社員証がセットとくりゃ、その二十倍でも買い手はつくだろうさ」

 バーテンダーは僕に身分を売れと言っているのです。でも、僕はここの代金分の34万3千6百2十5円に余るキャッシュをもっている、いわばキャッシュフルなのです。ですが私の小便で汚した店のリフォーム代が上乗せされた今となっては、もはや皮膚と身分をうるより他ないようでした。

 しかし、僕はなぜ、ここにいるのでしょう?

「今、何時ですか?」

 目の前の目に私は尋ねました。その声は、到底僕の声とは思えないほど低く、掠れていました。バーテンダーは、文字盤の12のところに草水晶をはめ込んだ腕時計をちらりと見ました。そう。私から目を逸らしたのです。

「蒸着!」とかなんとか、それ風の掛け声をたぶん私は言ったのでしょう。メリメリという音が体内に響いて、地響きのような低周波が喉からほとばしると、僕の左右にいた男二人を広げたアバラに取り込んで、そう。安いつくりの爪でひっかけるだけでとめるだけ、みたいな感じでギリギリとアバラの形にくびれるまでしめつけてやりました。

 血が出ました。血はあばら骨をつーっと伝って私の心臓部分に集まってきたのですが、あいにく心臓は頭の上に移動していて、今その位置にあるのはポコポコと膨らんだりしぼんだりする脳みそだけなのでした。脳みそはボディーガード(ああ、ずっとこれがおもいだせなかったのだ)の動脈血のみを選んでちゅうちゅうと吸って、襞の隅々奥深くにまで、毛細管現象等によって浸透させていきました。当然、私は大きくなります。

「ば、ばけものか。連邦ノモビルスーツは……」と、バーテンダーが言ったとか言わなかったとかは定かではありません。だって僕は、読唇術もみかじめ料もおさめていないのです。無論、怒りだっておさめていないのですから、ペニスは怒号を発します。そう。さきほど取り込んだ二人のボディーガードのペニス二本を左右にしたがた、三本のペニスの叫びです。うるさいです。私は耳を塞ぎました。しかし、バーテンダーの両腕は私の腸でぐるぐる巻きにされているので、もはや開けっ放しなのでした。

「ぎぃやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 音って不思議です。それは空気のバイブレーションなのです。振動は干渉しあい共鳴をおこし、微細な振動によってさまざまなものを剥離していきます。たとえば、皮と肉。肉と骨。骨と神経。血管とリンパ節。毛根と頭皮。包茎の皮。眼球と瞼。歯と歯茎。爪と指。関節と筋。人格と理性。そして、硬くてもろい骨が崩れていきます。粉々に。超音波で粉砕するような感じです。

 バーテンダーは、一袋の肉骨粉となりました。僕は時計を奪い、胸ポケットに入っていた美しいクリスタルキューブを奪いました。それらは右大臣と左大臣にくれてやりました。文字通り、今は私のボディーガード器官となった、屈強な男たちに。

 深夜0時です。店の扉がノックされました。店内は血の海でした。私はゆうに三人がけソファー四つ分の体躯をもてあましていました。もう少し背があればかっこうもついたのでしょうが、横にばかり成長してしまいました。

 とりあえずバーテンダーの首からボウタイを奪い、喉に虫ピンで突き刺して扉を開きました。

「いらっしゃい。パーティーへようこそ」

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