第120話 諜報

 僕は凪で過ごす時間が好きだった。そこでは、誰の視線も気にせずに過ごすことができたからだ。

 凪は利用者の希望を可能かなぎり具現化してくれるVRシステムだった。だから凪は、それぞれの完璧な理想宮だった。もちろん、システムが提供できる範囲内で、という制約はあったが、具現化した世界には、どうしたって制約はつきものだと僕は思っていたし、「誰も僕のことに関心をもたない世界」という僕のリクエストは、そうした制約を受けにくいものだということも織り込み済みなのだった。

 つまり、僕にとっての理想世界とは、誰も僕を見ない世界であり、僕だけが存分に見ることのできる世界であり、僕が見ていることを相手が知らない世界だった。僕はそのような世界で、フリーランスのスパイを生業としていた。

 凪システムが、僕のリクエストに応えるべく、架空の依頼者からの架空の指令(なお、この指示書は30秒後に消滅する……)を作成し、自動販売機のペットボトルのパッケージ裏だったり、テーブルの裏だったり、女子更衣室のロッカー内だったりという、毎回趣向を凝らした場所に隠してある。僕はその指示書に従って、凪世界及び拡張凪世界を諜報するのである。それはひじょうに楽しい趣味なのだった。

 ところで、拡張凪世界とは何か?

 喫茶「凪」は、タイラカナル商事の全社員が3時からの15分間の休憩時間を過ごす、本来の業務に関する思考の一切を禁じられたVRで、動的にリフレッシュする機関だ。実時間の15分は、凪で提供されるドラッグ成分や、脳波調整波などによって、自在に伸び縮みさせることができ、ある意味「夢」のような構造をもっているといえる。だが、その本質は保健室のタンクと同じだと、僕は結論していた。

 人は寝ている間に、脳の襞の隅々まで洗われているという。それは脳内に分泌されている脳汁が、脳みそをザーッと流れ、老廃物を文字通り洗い流しているのだが、それと同じことが、あのタンク内でも行われている。しかも、そこで用いられるウォッシャー液は、社屋内を飛び交っているwifi波によってイオン濃度を変化させることが可能な水溶液であるらしい。その調整により、ニューロン発火の閾値、頻度や範囲をコントロールすることができる。すると、現実世界を体感している私たちのリアルは、いくらでも変容させることが可能なのだ。凪はそれを福利厚生的に利用している、派生的な機関なのであり、そこには凪を越えたパラレルワールドが存在している。それが拡張的凪世界だ。

 世界が変わったのではない。脳が変容したのだ。しかし、人間は自分が変わったのだとは気づかない。なぜなら、脳は自らの記憶を自己組織的に改変できるからだ。

 「過去」を基準とするか、「現在」という「近過去」を基準とするか。基準とは自分が生きる世界の連続性の地平のことだ。単純に言えば、現実(現在、ではない)を、過去によって認識したいか、過去を現実によって確定したいか、の違いだ。

 本来、脳は時間に影響を受けない。正確にいうなら、存在論的な時間に影響を受けているのはメディアとしての肉体の方であり、肉体を組織する細胞の方である。脳にとっての「時間的制約」とは、細胞からの入力と細胞への出力及び、脳内のニューロン発火の伝達時の「時差」のみなのであり、それは存在論的時間とは一線を画する。

 が、ニューロン発火の時差は、それがそのまま「個性」をつかさどっていることは心に留めておかねばならない。なぜなら、タンクによってその伝達時差は、会社が自由にリモート調整できる状態に置かれているのだから。つまり、勤怠管理システムは、全社員の「個性」を会社からの指示によって調整することで、タイラカナル商事という肉体に、十分な仕事をさせる仕組みなのだ。

 社員を「歯車」というメタファーで呼ぶ時代があった。いや、むしろ未だに「駒」「使い捨て」「機械の体詐欺」「社畜」「お前の代わりはいくらでもいる」などという扱いがスタンダードだといえるだろう。

 そんな世の中にあって、タイラカナル商事は、支配を支配と感じさせない、医学生理学的アプローチを導入した。それが、保健室のタンクと凪なのだ。

 と、僕は本日分の調査資料をまとめ、凪内にある郵便局へ出向いて、そのファイルを社史編纂室の庫裏唐孤塁宛に送付した。おそらく、実際には電子メールかエアパイプのようなもので届けられるのだと思うが、依頼人からの希望に従うというのが僕のモットーだ。

 これまでに、様々な調査を行ってきた。だが今回のような内部調査は珍しい。その分気合を入れてあちこちを探り回った結果、僕が心のオアシスと思っていた凪の黒い目的を暴いてしまった。だが、このせいで僕が働き方を変えるとか、労働組合に訴えるとか、法テラスに駆け込む、などということはない。あくまでも、凪はVRであり、僕がリフレッシュするための活動をその都度提供してくれているだけの、いわゆる「脱出ゲーム」のようなものなのだから。


 よい仕事を終えた爽快感と倦怠感とが微熱のように籠っていた。僕はめずらしくホテルのカフェテリアへ入り込み、アフタヌーンティーでも嗜もうという気分になっていた。マンハッタンチェアという、並べると壁のようになる椅子の内部で、多くの女子社員がスイーツを堪能している影が動いていた。そのなかに、諜報活動中ちょくちょく見かける顔があった。

 彼女達は営業二課の女性陣で、他の客と同じようにマンハッタンチェアーの城砦の内部で、ケーキバイキングと格闘していた。プチなんとかや、ミニなんとか、という接頭語に安心しきった彼女たちの食欲は際限なく、マーブル柄の小さなフォークは吸い込まれるようにケーキの中へと消え、吸いつくように一変のケーキをすくい取ったかとおもうと、整った唇の間へと運ばれた。その間、全くの躊躇も引っ掛かりも重さもカロリーも感じられない。彼女たちは互いの口許だけを見つめあいながら、ときおり全てを承知している者同志だけが交わせる笑みをやりとりしている。が、その笑みには意味はないのだった。

「おいしい。かわいい。おいしそう。上品。これはちょっと劣る。全くね。あなたは何が好き?ブッセケーキ」

 そんな会話に言葉はいらなかった。

 彼女たちは「凪」の常連である。営業二課ではほとんど目もあわせない未伊那と瑞名の間にすら、連帯がはっきりと感じ取れた。何かがあったのだな、と僕は思い、すると僕は自動的に、諜報活動モードに切り替わっていた。その微笑みの裏には何を食べても決して表にあらわれる事のない牙が隠れていた。その牙が何をどんな血みどろな肉を咀嚼した後にも、純白に輝いているのだという事も、忘れてはならない。あどけなくプチケーキを摘む指先が端末を叩く時、誰かのステイタスが貶められるのだということを、知らなければならない。

 一瞬、彼女が僕の眼を凝視する瞬間を、僕は感じて「はっ」とし、瞼が引き攣れるようになって目を剥いたまま、体が硬直してしまった。全身を石膏で固められ包帯でぐるぐる巻きにされたかのようだった。僕は突然不安になった。

 凪では決して発症するはずのないあの症状が、それまでにないほど激しく僕を襲った。眼球から無数のレーザー光線が後頭部を焼き、そこから炎が脳全体に野火のように広がった。炎を煽る風があった。それは頭の外から吹き込んでくるのだと思った。地鳴りがし、地面が揺れた。あちこちで悲鳴が上がった。僕は目を閉じたまま凪の出口へ突進した。激しい頭痛に身悶えながら、僕は果てしなく続く階段を駆け下りていた。

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