第119話 カプセル06

 翌日の朝、病院に確認してみたところ、ウエイトレスは面会謝絶とのことだった。それになぜか、妹とも連絡がつかなかった。僕はとても気にかかっていたが、それは妹と連絡がつかないことでも、ウエイトレスの容態でもなく、妹の肌のことだった。

 出社すると、僕よりも早く、受付のM子とJ美をからかいながら、実未が僕の来るのを待っていた。普段なら、10時過ぎに、ティーブレイクを誘いにくるはずなのに、今日に限って随分と早駆けだなと思った。昨日の喫茶店での事件が、何か関係していうのかとの疑念が頭を掠めた。だが、あの場に実未はいなかったし、ただ兄と妹とが喫茶店で久しぶりに会って話したというだけのことが、部外者を巻き込んむことになるとも思わなかった。

「今日は早いね」

 僕は足を止めずに実未の傍らを通り過ぎた。いや、正確には通り過ぎようとした。だが、私は転んだ。

 ―何があった? 足がもつれた? 何に躓いた? ここはエントランスだ。受付のM子とJ美が無表情に見下ろしている。僕の後頭部にある毛を毟ってしまった部分が、天井に備え付けられた防犯カメラの画面に露わになってしまう。勤怠グリッドを逸脱する行動は、記録されてしまっただろうか? 何が起きた? 足がもつれた? 違う。向うずねが痛む。ジンジンしている。革靴の踵の硬さで、革靴の踵の形の痛みがジンジンしているからには、それは、今目の前にある、ウイングチップの靴の踵だったのに違いない。

 実未か?

 なぜ実未はこんなことをする?

 やはり妹の件か? ティーブレイクの時、あの喫茶店のウエイトレスを、実未は狙っていると言っていたか?

 ああ。検索したい。だがまだログインが済んでいないし、このままでは僕は、勤怠管理部行きになってしまう。

 破滅だ。

 会社人生におけるドン詰まりだ。家業に躓き、縁故採用の会社にも躓き、妹にも躓いた。全ては実未には躓かされたのだ。実未、お前は一体何の権利があって――


「すみません。ぶつかってしまったようです」

 と僕は実未に詫びて、立ち上がった。腰と膝と肘が痛んだ。

「大丈夫? 昨日はいろいろあったから、寝不足なんじゃないの?」

 と実未が僕を介抱するフリをしながら囁いた。


 ―なぜ、知っている。いや、落ち着け。鎌をかけているだけかもしれない。だがしかし、妹は危ないプロジェクトにどっぷりと首まで浸かっていた。だから、あんな風に透き通ってしまったのだろう。

 となれば、妹はある意味、その美白プロジェクトの核心部にいたのではないのか? 自分の身体をあんな風にされて平然とすごしているということは、妹も加担していたのだろう。

 となれば、関係者に接触してくる者は、たとえ近親者であろうとも看視対象となっていたのではないのか? 外部へ秘密を漏らさぬように、プライバシーなど放棄して……

 ならば、実未は知っているのだ。僕が実未から持ちかけられた誘いに疑義を抱いているのだということを。そして、ンリドルホスピタルと、ダッタンインクと、タイラカナル商事と、ヒニズ秘伝の「血で血を洗う染」との関係を、妹を通じて探っていたということを。


「仕事の前に厚生部へよったほうがええんとちゃうか? あんたの上司さんには俺がうまーくとりなしといたるさかいに。な。そうしい。な。な」


 突然、聞いたことの無い抑揚と語尾で実未がそう言った。だが、言わんとしていることは分かった。

 勤怠管理グリッドの精度を一時的に低下させる語法があると、以前、広報部の取材に応じたとき、そこのボスから聞いたことがある。おそらく実未が用いたのがそれなのだろう。いい加減な人間の脳には意味として伝わり、厳格なグリッドには意味を成さない。しかも、このハッキングを行ったのは社外の人間で、ステイタスはゲストでしかなかった。

 ゲスト?

「ところで、実未さん。そのカードは一体誰のゲストという扱いで取得したんですか? 僕が来る前に社屋内にいたということは、僕のゲストではないでしょう?」

「ああ。営業一課の室田六郎課長さ」

「え? そんなとこにもパイプがあるんですか」

「そりゃ、営業なんて仕事はさ。猪突猛進。駄目元で懐に飛び込んでいく仕事だしね。室田さんとはまた別の仕事の打ち合わせもあるからさ。まず君のとこへ寄って、それから営業部へね。でも、そのまえに君は厚生部へ行かなきゃ駄目だよ。健全な業績は健全な肉体からって言うだろ? それに健全な忠誠心は完全な洗脳からってね」

 そこへ、勤怠グリッドから指示がきた。


 ―リクエストを承認。厚生部での問診の後、カプセル06の使用を許可します。


「さ、そうと決まれば行った行った。俺は先に室田さんのとこへ行ってくるから。後でまた」

 実未はそういうとさっさとエレベーターの方へ行ってしまった。上からの指示は絶対だ。僕は通勤鞄を下げたまま、厚生部へ向かった。


 クレオゾールの匂いが、今朝はひときわ強い。いや、そうではない。消毒したてのこの部屋へ、僕が今日一番の訪問者だったせいだ。普通に呼吸をしているだけで、身体の中の襞の隅々まで、殺菌消毒されてしまうようだ。

 僕たちは、ここを「保健室」と呼んでいる。常駐しているのはンリドルホスピタルから当番制で派遣されてくるナースで、ナース服もンリドルホスピタルのものと同じだ。僕は受付のナースから問診表と体温計と紙コップと試験管を受け取った。試験管にはコルクで蓋がされているが、その蓋には、クリームパフェを食べるときに用いるような細長い柄の小さなスプーンが取り付けられている。つまりこれは、簡易的な検便キットなのだ。

 僕は打撲でここへ来た。しかし、入室しカプセルを使用するためには一定の手続きが必要なのだという。いや、しかしそもそも、打撲にカプセルが効く、というのは初耳だ。

「打ち身にも効くんでしたっけ?」

「効かないということはありませんよ。だって全ては脳の問題ですから」

 受付のナースは「午後から雨になるみたいですよ。だって降水確率が70パーセントですから」と言うのとまったく変わらないトーンで、僕の質問を処理した。僕は、こういうトーンには馴染みがあった。

 とはいえ、朝から少しナーバスにさせられた僕は、便所に入ってコルクの蓋をキュポンと外し、長細いシルバーのスプーンをしげしげと眺め、「これは殺菌消毒して使い回すものに違いない」と思いながら、「このスプーンでチョコレートパフェを食べたらどんな感じがするだろうか」などと思いながら、ガイドの赤いラインに人差し指を添えて、指が肛門の襞に触れるまでそっと挿入した。

 スプーンは、冷たかった。先端は十分に丸いはずだったが、僕にはナイフの切っ先であるかのように感じられた。出口を入り口として用いるのは、つまり、虎穴にいらずんば虎子を得ず、ということなのだろうかと思い、挿入するときよりも、引き抜くときのほうが三倍も長く感じられたその銀のスプーンを「またつまらぬものを斬ってしまった」とでもいう心持で、鞘ならぬ試験管に収めた。

 これに比べれば、小便は簡単だった。出口から出すだけだからだ。センシティブなのは分量調整のみだったが、こちらは手元をみなくても完璧にキメルことができる、はずだったのだが……


 ――あのナースの身体も、スケスケだったりするのかも


 という妄想が、突如として広がってしまうとそれまでは、たんなる排水口として従順だったペニスが、俄然、主張を始めてしまったのであった。

 「検尿が、試験管にペニスを挿入して採取するスタイルじゃなくて、本当に助かった」

 僕は、あわててそんなことを考えた。

 ガラスでできた、明らかにサイズのちいさなコンドームを装着して、後、勃起する恐怖をリアルに想像し、さしものペニスもまたたくまに意気消沈した。


 僕はこのように性欲をコントロールできる、はずだったのだが……


 問診表を記入し、検尿と試験管をセットで受け取り口へ提出して、ようや僕は保健室へ入った。時計は9時20分を指していた。指定された06のカプセルのブースに入ると、天井のスピーカーから自動音声が流れた。

「蓋が開きます。一歩下がって、服を全部脱いでお待ちください」

 僕は言われたとおりに服を脱いで、ゆっくりと持ち上がっていく蓋を眺めながら「これのどこがイルカなんだろう。まるっきりホオジロザメじゃないか」と思った。

「それでは、注意してステップに上がり、頭を指定の位置に固定し、カプセルに仰向けに寝てください。蓋が閉じ、蓋の裏のシリコンフェイスカバーの装着を確認した後、液体を充填します。それでは、よい旅を」

 いつもの放送の、いつもの手順だ。僕はほとんど無意識でステップにあがり、カプセルに足を踏み入れようとした。

 だが、そこには先客があった。

 というか、そこに横たわっていたのは、疲れ果て、おどおどした顔の自分自身だった。


「プログラムを終了します。メディカルデータはオールグリーンです。万が一、頭痛、ふらつき、離人感、万能感、などを感じるようなら、担当ナースへ伝えてください」

 僕は無表情のまま起き上がり、さっさと服を身に着けた。くたびれた背広。そしてくたびれた靴。くたびれた鞄。

「いかがでしたか?」と受付のナースがにこやかに声をかけてくる。僕は「いつもどおりです」と目をあわせずに応える。

 ――ただ、今日は妹が現れませんでした。これは、よい兆候なのでしょうか? それとも……


 その質問は、しかし発語されることはなかった。単なるイルカチャンのテクニシャンに診断能力などないからだ。


 ――妹が出てこなかったので、勃起もしませんでした。もちろん、夢精も。あのタンクの中で、あの状態で射精なんかしたら、まるで僕自身が卵子みたいじゃないですかね? もしかしたら、単為生殖できたりして。そうしたら、僕は妹を産めますかね? 埋もれてしまった妹に再び出会えますかね?


 この質問を模した願望も、やはり発後されることはなかった。

「言ってもしかたのないことだ」

 僕はそうつぶやいて、時計を見た。三時になる。実未は今朝のアポをすっぽかしたのだ。あいつにしては珍しいことだ。妹を捨てたあいつにしては。

 今日の僕は、なんだか荒れている。何かが起こりそうだなと思いながら、僕は凪へ向かった。

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