第118話 顔の皺の顔

「まあ、お兄様。お久しぶりね。何を飲んでいらっしゃるの?」

「僕はあいかわらずモカマタリだよ」

 妹といる時は、凝視性不安症候群の症状は出ない。幼いころから一緒にいて、気心が知れているから、というわけではないだろう。この症状は、相手が僕に対して抱いているであろうなんらかの期待に感応し、僕がそのなんらかの期待に当然のごとく応える義務があると僕が感じさせられているときに発症するものだそうだ。

 したがって、妹は僕に何の期待もいだいておらず、僕も妹に何らの義務も感じていないから、僕は妹にまっすぐに見つめられても症状が出ないのだ。

「あの、わたしも同じものを頂戴」

 妹は水を持ってきたウェイトレスを見ながら僕が飲んでいたモカマタリを指差した。白いブラウスの袖が長いせいで、ピンと反り返った人差し指の爪の美しいピンクの楕円形の先端が辛うじて、カップを示していた。

 そのブラウスには見覚えがあった。それは、妹が嫁ぐ前によく来ていた丸い襟に薄ピンクと淡いブルーの刺繍で野薔薇をあしらったもので、現在の妹の体型からすれば、かなり大きいサイズだ。妹は、体型がコロコロと変わり、そのたびに、人相も性格もガラリと変貌してしまうのが常だったが、それでも妹は、僕に対する「お兄様」という呼び方だけはずっと変わらないのだった。

「そのブラウスは懐かしいね」

「あら? 覚えてらしたの? 今日はお兄様にお会いするからすっかり釦も螺鈿の高級品に付け替えていただいたのよ。お兄様、このブラウスとてもお好きでしたものね」

 そうだったろうか?

 僕は自分が妹に「そのブラウスは素敵だね」などと言ったことがあったろうかと考えた。すると、そのブラウスの釦がはじけ飛ぶ場面が脳内を一閃した。

「と、とても上品だよね。だけど、す、すこし大きすぎやしないかい?」

 僕がそう指摘した刹那、妹の表情が剣呑になった気がした。そこへコーヒーが届き、角砂糖ポットとミルクピッチャーが並べられているのを眺めている間に、さっきのそれは自分の見間違いだったのだろうと思えてきた。角砂糖をひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ……

「そんなに甘党だったか?」

 思わず声をかけた妹の眉間には、これまでに見たことのないほど深い縦皺が三本も刻まれ、両方の眉が額からはみ出しそうなほど吊り上っていたのだった。

「ど、どうした?」

「ど、どうした? ですって? それは静ノが申し上げたい科白ですわ。わたしは生まれる前から、わたしが十月十日を育まれるその暗くて狭くて、けれど暖かくて賑やかなこの場所に、わたしの前に滞在していたのがお兄様だということをちゃんと分かっておりましたのに。

 壁紙などは取り替えられていましたけれど、そこに住んでいたモノの痕跡というものは、とくに匂いというものは、いくら万全にクリーニングしたところで、なまなかにはとりきれるものではありません。私はずっと、お兄様の臭いを嗅いで、黒と赤とが判然としない薄闇の宇宙を、命綱一本を巻きつけてたゆとうてきたのです」

「そうか。だが僕の前には誰もいなかった。僕の後に入ってきたモノについて、僕はそれを知る術はなかった」

 僕は辛うじてそう言い訳した。

 熱に浮かされたようにしゃべる静ノの顔は、口を動かすたびにぶるぶると振るえ、頭蓋骨のあることを無視するかのような波が立ち、奇妙な皺がいくつも生じては消えていった。その皺の中には、まるで静ノにそっくりの顔に見える皺も現れ、その顔そっくりの皺の顔にもやはり皺が生じていた。それは静ノの右頬から頤にかけて断続的に現れ、そのたびに恐ろしい形相で僕をにらみつけていた。それは少し右をむいた顔で、静ノ本来の右耳を皺の顔の右耳とが共用しているため、皺の顔の右耳が異常に大きく映り、それだけ僕の近くに飛び出してきているように見えるのだった。

 妹の右耳を間近に見たとき、耳というものは徹頭徹尾「渦」なのだな、と僕は感慨した。耳は空気が吸い込まれていく穴で、耳たぶの襞は個人個人に与えられた反響板なのだ。耳が音を聞くとき、必ずこの耳たぶが音色に多大なる影響を与えているはずだ。また、音の所在を特定する際に、われわれは無意識のうちに、この複雑な凹凸の反響角度を手がかりとしているに違いなかった。

 にもかかわらず、妹が発した言葉は、妹の顔の口と、顔の皺の口と、いづれから発生しているのかを特定することができず、どちらも僕のすぐ耳元に聞こえてくるのだった。僕は自分の両方の耳に触れた。それから、両方の掌を耳たぶの後ろにあてがい、目を閉じて首を傾けてみた。すると、妹の声が振動させる空気がビリビリと掌の手相に響いてくるのだった。そのせいで僕の掌は痒くなって、この姿勢を数秒間維持することさえできなかった。

 耳から手を離しても、掌がジンジンと痒かった。しげしげと掌を見てみると、赤と白の細かな斑がランダムに反転しながら掌に浮かび上がり、しかもその明滅が引き起こす錯視のためか、手相がグネグネとうごめいて見えるのだった。この動きは、妹の声に反応しているオシロスコープのようだった。

「ちゃんと、聞いているよ」

 僕は掌を見つめながら、妹にそう言った。だが、僕が耳と掌に気をとられている間に妹が何を話し続けていたのかを、僕はまったく聞いていなかった。

「嘘ばっかり。お兄様はいつだって嘘ばっかり!」

 そういって、妹は先ほど僕のモカマタリを指差したのと同じように僕を指差した。袖からは楕円形の薄ピンク色の爪が僕の心臓を正確に指し示している。

 僕はそのとき、初めて、妹の前で発作を自覚した。

 まず、指先を中心に風景が回転を始めた。回転する喫茶店はコーヒーのこげ茶色とタバコの煙の白とがグルグル回転し、カフェオレのようになったかと思うと、次第に、黒と白とが明確に分かれていって、中国の陰陽図のようになった。

「それは龍よ」

 と妹が僕の心臓にぐいと人差し指を伸ばして言った。

「龍は世界を創るの。世界が創るの。光の中の穴は陰で、陰の中の穴は光で。それは龍の断面図なの。それが近接しながら決して重ならない距離で互いに回転しあう二点を中心とした楕円振動を行った奇跡が龍なの。それは世界なのよ」

「陰と光? 黒と白じゃないのか?」

 僕は吐き気をもよおしながら、世界がバニラチョコレートソフトクリームのようにねじれて行くのを見ていた。瞼を閉じても無駄なことは経験済みだったからだ。回転しているのは世界のほうではなく、僕の頭の中だということを僕は簡単に推測することができた。なぜなら、もし僕の外側がねじれているのだとしたら、眼前の人差し指の爪先を中心店として、イチゴチョコレートラテのように攪拌されている妹が、平然と話し続けられるはずはないからだ。

「違うわ駄目ねお兄様。だから緋弐図を継ぐことができなかったんだわ。才能の問題でもアレルギーの問題でもなかったの。お兄様。才能がなかったのね」

 人差し指の爪を中心として、鼻、唇と目、顎と眉毛、首と頭、ペンダントライトと胸、天井と腹が、同心円状、といってもこの円は微細に振動し続ける楕円形なのだが、に配置され、時折口から覗く歯列とその間の真っ赤な下が眼球と二重写しとなって僕に噛み付こうとしてきた。それは大発作の兆候だった。大発作のとき、僕は人の目が牙をむいて襲ってくる幻を見る。妹のぐるぐると回転する目=口が、太くなり、細くなりながらトンネルを掘り進むかのように、僕の顔へ近づいてくる。

「一子相伝の緋弐図を継いだのはわたしなのよ、お兄様。お兄様は役たたずの穀潰しだったの。私に跡取りをこしらえることもできないで。おかげでわたしが緋弐図に入った意味さえ危ぶまれたのよ。かわいそうなお兄様」

「おれを哀れむなっ!」

 大発作のとき、僕はなぜかこう叫んで何かを投げつける。

 今はウエイトレスが運んできたお冷のコップが手に触れたので、それを思い切り妹にむけてぶちまけた。

「きゃっ!」

 という小さな悲鳴が聞こえて、発作がとまった。だが、回転の残像のせいで目の前の風景はぐるぐると逆回転しながらその場にとどまりながら、遠ざかっていくように見えたのだが、その遠ざかっていく妹の濡れた白いブラウスが肌にぴったりと張り付いて透けていた。

 大きすぎるブラウスがさまざまな襞をこしらえて静ノの肌を露わにした。だが、そこには、桜色も肌色も白も、無論日焼けした小麦色も存在しなかった。ブラウスの下に肌は存在していないように見えた。いや、肌の起伏はある。だがそこには色がなかった。ウエイトレスがお絞りをもって駆けつけ、妹の透けた身体を目の当たりにして悲鳴を上げた。

 透けた身体。

 まさに、それだ。僕はテーブル越しに妹のブラウスをつかみ、力任せに左右へ開いた。螺鈿の釦が飛び散って、はだけられた裸体。そこには、肋骨、肺、などが鮮明に透けていた。ウエイトレスがもう一度悲鳴を上げて卒倒した。僕はあわてて妹に、僕のジャケットを纏わせた。

「救急車を!」

 と僕が店長に向かって叫ぶと、すぐに妹が、

「いいわ。わたしが病院へ運びます。車で来ていますから」

 と言って、僕と店長に、ウエイトレスを運ぶように命じた。僕たちは妹の言葉に抗えなかった。

「お兄様には、幻滅しました」

 妹は、後部座席にウエイトレスを横たえさせると、車に乗り込もうとした僕を押しのけて、ドアを閉めた。

「もう、お会いしません」

 妹は走り去った。僕はその夜、妹の透き通った身体を思い描きながら、果てしない夢精をした。

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