第112話 想像力があれば、なんでも実現できる

「想像力があれば、なんでも実現できる」

 ンリドルホスピタルの車留め兼タイラカナル商事営繕課倉庫内にいる私は、同時に作者を自称する男のいる別の世界にワープしてきたところだった。ワープというのは光速を超えて航行する方法ではない。時空の最短距離の抜け道を移動するだけのことにすぎなかった。概念としては、ブラックホールなきワームホールを通過する、というものになる。ダムの栓を抜いたときに発生する渦巻きのごときブラックホールなど空間には存在しない。なぜなら、穴のあちらがわも十分に充溢しているのだから。ブラックホールの吸引力の原因が重力だというのは本末転倒で、凝集した巨星の重力によって空間を歪ませることも可能だ、という実証例であるにすぎない。だから「重力の墓場」という観念は揚棄されなければならない。


「想像力があれば、なんでも実現できる」

 私たちは重力によらないブラックホールの穴を抜けてこの世界にやってきた。タイラカナル商事の勤怠管理室からイフガメ砂漠への移動も同様であったし、ンリドルホスピタルの廊下の一室からタイラカナル商事勤怠管理室への移動も同様だった。ンリドルホスピタルの暗いリノリウムの永遠に続くかと思われた廊下の左右に閉ざされたドアの、すべてのあちらがわに、こちらがわが内包されており、それは、今、私がいるようなパラレルワールドなのであった可能性はゼロではない。そしてそれらは、隔離病棟の個室につめこまれた無数の「釜名見煙」の空想の襞なのであった。つまり、今私がいるこの世界もまた、ある釜名見煙の脳の襞の狭間の一つにすぎない。釜名見煙による「空想技術」とは、そのような「ハプニング」を生み出す器官なのだろう。


「想像力があれば、なんでも実現できる」

 こちらの住人の「想像スキル」はおそまつなことこの上ない。彼らはあまりにも「物質」という幻影に縛られすぎている。彼らは現実生活の一部として映画を楽しみながら、現実は映画ではないと頑なに信じ込み、その信心によって安心しようとしている。こちらの世界のすべての技術は、その幻想を強固に保守するためだけに発展してきたのだ。曲がりなりにも「自称釜名見煙」ともあろう脳の持ち主が、これほどまでに貧困な空想技術しか開花できなかった世界を構想した理由がわからなかった。しかも、そのような世界でこそ「救世主」たるべき「真・釜名見煙」は、亡き者にされているではないか。患者が反釜名見だったのだろうか? 釜名見に取り込まれた! と見せかけて、釜名見の空想技術を逆手にとって釜名見を葬り去ろうとするものの脳襞世界に、私たちは招かれたのだろうか? とすれば、あの「自称作者」こそが、反釜名見患者本人であったのではないだろうか?


「想像力があれば、なんでも実現できる」

 電車に乗る。ホームは混雑している。平日の夕方。退社時間なのだろうか? 人々を集中させて経済を回すという定常的祝祭日モデルは確実に破綻する。そのような世界では「何もない」ことがむしろ非日常として尊ばれる。だから、この世界では「日常四コマ」がもてはやされ、その反動として「異世界転生モノ」が隆盛を極めているらしい。非日常性を常とする世界での非日常性の両極に嗜好が集中するというだけのことだ。そうして疲弊していくのだ、人も街も。経済は人々の活力を奪い続けることで回っている。経済が回らなくなったとき、祝祭空間という意匠を維持できなくなり、近未来世紀末的ディストピアという刷り込みだけでは乗り切れない「全員が難民となる敵のいない戦争」が激化すれば、幻想がリアルな戦争によって補完されるだろう。なるほど、そこに「空想と現実」との幸福な一致が顕れる、という筋書きだ。


「想像力があれば、なんでも実現できる」

 この世界における、このテーゼの金字塔は、かつては「図書館」であり、現在はネットコンテンツである。絵から文字へ。写真から動画へ。動画は総合的メディアとして、その流布を簡便にする3P規格を追い風にますます「メディアの王に俺はなる!」といった攻勢をかけているが、所詮、間接的かつ一方通行的メディアであることを脱することはできず、だからこそチャンネルは膨大になる。オーダーメードシステムが淘汰され、レディーメードが主体となった世界では、個の差異は幅をもたせた般に回収され、それぞれがそれなりに満足できる製品を与えられることができる。そこには、主体としての能動性を、選択する主体の自由へと囲い込み、それのみが「自由」であると生まれてすぐに刷り込まれていく。そこに想像性などは皆無だ。すべてはディレクション。すべては焼き直し。すべては妥協。「空想」を殺すのはレディーメードである。


「想像力があれば、なんでも実現できる」

 だが、想像力がなくても、なんらかの現実は実現できる。「青江区区民図書館」には多くのホームレスが異臭を放って、分厚い本を読み耽っている。彼らは想像力を持つか? 想像を阻止する社会は、想像力を保持した者にとっての地獄である。彼らは「詩」や「映画」で脳圧を下げなら、細々と生きながらえている。売り物にならない想像は無意味だった。想像は受胎前に阻まれ、半透明のゴムの先端にだらしなくぶらさがり、根元をパチンと結ばれてくるくる回された挙句にゴミ箱へ投げ込まれる。そういう棄てられた想像力が集められる場所を「夢の島」と呼ぶネーミングセンスには拍手を送りたい。そもそもは、夢を守るために排斥された汚物を集積した場所、という意味合いで「夢の島」なのであり、夢の国においてそのような汚物などはそもそも発生しないのだから、そういうものを集めた場所なんてあるはずがない、という意味での「夢の島」であり、ある人々にとっては有用な物資が集まってくるその場所こそがまさに「夢の島」なのであった。「夢の島」そここそが、釜名見煙復活の地としてふさわしい。私はそう思った。


「想像力があれば、なんでも実現できる」

 だが、実現しなくてもかまわないのではないか。それこそが「自由」なのではないか。実現までのプロセスがいかに煩雑で磨り減るものかを、私は職業柄知っていた。タイラカナル商事の営業課長は結局、それで擦り切れたのだった。環状線に乗る。適当な駅で降りる。どの駅も同じように人がいる。疲弊している。目を閉じている。うつむいて足元を見ずスマホを見ている。ホームから人が落ちる。検索し、影響のでない路線に乗り換えるべく駅を出る。通武頼炉を呼び出す。「私の行動半径を知らせてくれ」通武頼炉はすぐに反応する。「ンリドルホスピタルとタイラカナル商事を外郭とした円周内をジグザグに移動しています」「気づいたことはあるか」「先ほど、ニアミスしました。厚生部のイルカチャン洗浄室を通過しました」ログを確認するとそれは、青江区図書館の「00総記」棚を通過した地点だった。「引き続き頼む」そういって私は通信を切った。あちらの様子も気になる。おそらくは砂が、社屋にも入り込んでいるだろう。地下にあった広報部は壊滅したのだろう。だから、三階にある厚生部へ移動しなければならなかったのだろう。だが今、その状況を報告されたところで、自分にできることは何もなかった。それぞれの持ち場で、それぞれがやれることをやるしかなかった。地下鉄に乗る。混雑している。ほとんど区別のつかない顔ばかりが詰め込まれた赤いラインの電車から、雑踏が滲み出てくる。彼らが守ろうとしているものは、彼らとは無関係なものだった。


「想像力があれば、なんでも実現できる」

 ではなぜ、想像しないのだろう? この世界がいかに「想像力」を去勢するシステムを強いていようとも、脳は想像してしまうものであった。それは、副産物にすぎなかったが、脳そのものの運用をも左右する重大な余剰となって頭上にのしかかっていた。大脳新皮質。氷見が問題視していたのは、そこだ。そして偏桃体、視床下部、脳髄などとを結ぶ三層のニューロンの積層構造。地殻。マントル。コア。すべては地殻に顕れている。街へ出る。あたりは暗くなり、ネオンサインが優位をしめる時間帯となった。たくさんの行列があった。みな一様に無表情にうつむいてスマホを見ていた。何をそんなに見ているのだろう? SNSといわれる「自分はここに主体として存在するお前たちの仲間だという証に、今、自分のおかれている状況を報告するぜ」と壁に向かって無音の叫びを発しているもの。闇雲に顕れる画面上の色をなぞってはを消し去ることに熱中しているもの。時間を数値として不可逆的に蓄積することに没頭する人々。彼らは時間を憎んでいるのだろうか。時間のある世界を憎んでいるのだろうか。だから時間を無為にしてしまうかの錯覚にのめりこんで、時間の過ぎ去ってしまうことを待っているのだろうか。過ぎ去ってしまった時間とは死だ。彼らは時間と心中し続けている人間達だった。


「想像力があれば、なんでも実現できる」

 実現とは、空間化することだが、この世界においては、空間化=時間化なのだった。だから、実現した想像は、その瞬間から劣化していくのだ。「空想技術」は「純粋空想」の実現のための方法だった。純粋というからには、時空に汚染されることのない実現化でなければならないだろう。だが、時間化しない空間などありうるはずはなかった。それが可能であるとするなら、それは完全なる静止の世界だ。「動画」は、再び「絵」に立ち返ることになる。だがそのとき愕然とする。「動画」こそが「一枚絵」の連続に他ならなかったことが明らかとなるからだ。だから、空間は一種類ではない。刹那生刹那滅とは一枚絵である空間が別の一枚絵の空間に取って代わられることを表している。空想は無限枚の一枚絵だ。その絵を説明するために釜名見煙は『体系全20巻』を書いた。言葉は時間性を主とするものだった。だから、『体系』はただ読めばよいというものではなかったのだ。それは、すべてを一刹那において読み終えなければならない類の本だったのだ。にもかかわらず、『体系』は散逸し、それぞれが不完全な絵として世界に広がってしまったのだ。


「想像力があれば、なんでも実現できる」

 いや、釜名見煙自身は「絵」を描かなかった。ただ『体系』を書いたのだった。純粋空想のためには『体系』だけが重要だった。それは、それを読んだものに「絵」を描かせる洗脳装置だったのだから。釜名見はコンセプトアートの芸術家だった。だからタイラカナル商事のような会社と親和性をもった。コマーシャリズムこそがコンセプトだった。そこかしこに行列があった。みな俯いてスマホを見ている。ここには現実などなかった。こここそが、釜名見煙が描かせた一つの世界のシークエンスであるに過ぎなかった。それらが干渉しあった結果が、今回の「事件」がおきた。やはりこれは「事故」とよぶしかないのかもしれない。トランプにウノが交じるように、オセロに碁石が交じるように、ポーカーに花札が交じるように、大同小異の空想世界交じり合った結果、それまでのルールでは制御できない局面が発生したのだ。そしてそのもっとも破壊されたルールというのが、「空間」だったのだ。「ボス。ループに入りました」と通武頼炉から通信が入った。「どこだ?」「ロータリーです。ぐるぐる回っています。半径15メートルほどをぐるぐるぐるぐる回っています」気がつくと私は、野球場近くの遊園地のメリーゴーランドにまたがっていたのだった。

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