第107話 氷見変貌す


「ソうだソうだ。コのオンナのことでナニカわかったらば、あのオトコに一報いれよとシジされていたのをワすれていました。PC拝借します、先生。あ、ところでセンセイのオ名前はなんと? ハッツハッツハッツ。名前をたずねるなぞといった無粋な真似をシてシツレイをバうぃたしまして、ドウにも妙なうがい、じゃナかった。グアいでして」

 氷見は突如として不気味な存在と化した。だが老医師に驚きはなかった。

 全てが常軌を逸していた。だから、氷見が常軌を逸したこともまったく通常であるような気がしたせいもある。だがそれよりも、老医師にとっては生きている人間なぞ、もともと錯綜した存在であり、社会性動物としては何の不思議ももたず、社会性をそぎ落とした人間に論理的なところは何一つないのだから、理解不能であることはもともと判っていた、と考えていたせいでもあった。

 老医師は、社会的人間に脅威を感じるほど自らの地位に固執してはおらず、野蛮人に恐れを抱くほど自らの余命に執着してもいなかった。

 だが、驚きを感じなかった老医師でも、目の前で豹変した氷見を不気味だと感じたのは、自らもそのようになるのではないのか、という不安と、そのようになった自分に、自身が感じるであろう不気味さを、共感シナプスが察知したためなのだろう。

 なんだか、少し大きくなった氷見の背中は、白衣越しに判別できるほど肩甲骨辺りが隆起していた。両肘を妙な具合に外側へ張って、まるで巨大なカニがおちょぼ口に餌を運んでいるかのようにキーボードを叩いている氷見の腸からは、とめどなくガスが噴出していた。

 それは無臭だ。だが、無臭でありながら猛毒であるガスは枚挙に暇がない。老医師は自らの神聖なる検案室が汚染されるのを嫌った。氷見が生きていなければ、遺体でありさえすれば、神殿も老医師の主義も、院内規約も、もちろんこの国の法律を遵守した上で、氷見を処理することができた。だが、そのために死体を一つ、自ら拵えることは躊躇われた。

「だがなぜ、私は躊躇うのだろう?」

 老医師は、瑞名の頭周りをメジャーで測り(54センチだった)、先ほど氷見が照会していた脳内胎児(!)の身元として「タイラカナル商事 庶務課勤務 未伊那深夷耶」の名を検案書に記載し、その各部のサイズを計測していった(身長163cm、体重47㎏、他)。これが周長54cmの頭蓋骨内部にどうして納まっているのかについて、老医師は思考を停止していた。夕方のハンガーに縊れた遺体と同様、数字と現実との間に乖離が生じていることを、受け入れたから、というわけではない。むしろ、医学と数字とは切り離せない関係にあり、数字が正確であるのなら、いかに奇妙に思われてもそれが現実なのだというのが、西洋科学の徒である医師の考え方であったからだ。

 感覚と論理とが手を取り合って同じモノを育むことができていたのは、ニュートンまでだった。相対性理論は、数字が感覚よりも密で微細であることを明らかにした。「情報化」というのは、そこから生じたカウンターカルチャーなのだと、老医師は考えていた。

「情報」といってしまえば、血肉を消すことができる。感覚は粗雑だからと、距離を置いた結果、微細な数字は粗大な感覚をすり抜けて、むしろ形而上の彼方へ堕ちていったのだ。

「医師として、粗雑な感覚に留まる必要がある」

と千曲は主張していたなと思いながら、老医師は子宮から実未を取り出した(身長163センチ。体重47㎏)。生まれでたばかりの、生きていない成人男性を抱きかかえて、サブベッドへ横たえ、頭蓋骨内からも、生まれでたばかりの生きていない成人女性をそっと救い上げて、その隣へ横たえた。

 とたんに、その二体がぐるりと寝返りをうって互いに相寄ると、激しい接吻と荒々しい愛撫を始めた。

「絶命直前のごきぶりが産卵するようなものだ」と老医師は思った。だがすぐに「逆だ」と思い直した。

「こりゃ、ミ物ですぞ。先生。ところで知ってましたか? こういった荒唐無稽な脳のハん乱はみんな、『空想』の産物だってコとを?」

「どういう意味かね?」

 老医師は、いつの間にかこちらへ向き直っていた氷見の、筋肉が肥大しきった雄牛のような身体に気圧されながらも、威厳を取り繕って質問を返した。だが、久しぶりに股間が熱く滾るのを感じながらだったので、いささか猫背気味であったのが、氷見の嘲笑を誘った。

「先生も、好きモノ。私も同じ。イま、タイラカナル商事のボスってヤツニ、報告したところ、ヤッコさん異世界に乗り込んでいるヨウデすよ」

「異世界? ここの他にもあったのかね?」

「セン生も、ユーモアがおありだ。性欲もネ。こいつら、いいんですか? 死者のデンドウであらせラレルトコロの検案室で、命のイトなみなんぞさせちまってて」

「君がしていた事よりはマトモだと思うがね。男と女が生まれたままの姿で同衾してるのだから」

「コいつぁ飛んだアダムとイブごっこだ。だが、あんたがユるしても、私は許しませンよ。ええ。死んだ女の脳と腸にいた成人男女の二卵性双生児ダ。こういうのも、親子丼ってイウとオモイマス?」

 老医師は氷見の、あまりの下劣さに、反吐が出そうだった。こうなる以前は、気障なプライドに下品さが鼻につくことはあっても、下劣ではなかった。今なお氷見の肛門から噴出し続けているガスは、相変わらずまったく鼻にはつかなかったが、その下劣さは脱糞臭に近かった。

「セン生はスカトロのご趣味ナド? ありマせんか。剖検じゃ消化器官の残存物なんかオナジミのこトでしょう? あれもなかなか乙なモンデすよ。もっとも私はこちらの臭いと感触にまみれるほうがダン然コノミですが」

 氷見は、そういいながら、背後から頭蓋骨に穴を開けるのに用いるハンドドリルを取り出し、グリグリ捻りながらにじり寄ってきた。

「コイつら、死んだ女の中から出てきたんだから、死産ってことでいいっしょ? 先生だって死んでるって思ったから、コウフンしてるんでしょ? あの女は、脳も尻もよかった。デキちまったもんはしかたないガ、堕胎手続きカンリョうってことで」

 ガッ。ギュルギュルギュル。ポン。ガッギュルギュルギュル。ポン。

 老医師が棒立ちの間に、氷見はサブベッドで69状態の男女の頭のそれぞれてっぺんに、穴を開けた。そして、

「わたしは段然、オトコの脳からいただきますよ。老先生はオンナのどっちの穴でもお好きにどうぞ」

 と言い放って、未伊那の股間になおも顔を埋めている実未の旋毛の辺りへ、そそりたつ男根をズブズブと挿入していった。穴の周囲からボトボトと脳漿が滴っている。

 バキュン!!!

 銃声が響いた。首の付け根から眉間へと弾丸が貫通し、血と脳漿とが細い糸を引いた。氷見はなおも互いをむさぼり続けている男女間の、三人目の男としてそこに倒れ臥し、男には尻を女には男根を好き勝手に弄ばれたまま絶命した。

 警備が到着したのである。いや、警備ではない。それは、イフガメの砂漠で白い砂の柱となったはずの、真名麻納央その人であった。

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