第106話 氷見と老医師

「ホモ=サピエンスにとって最大のネックは首から上の存在だった。そして、その厄介な頭は女性の体内の中心、腸や肝臓などを幾重もの緩衝材とした子宮によって育まれる。おもしろいとは思わんかね。我々はつねに、頭を問題にする。だがその頭の発生に、現実的にかかわっている部位はすべて臍から下なのだ、という事実を」

 監察医の老人(しかし、私はこの老人の名前を知らないことに気づいていながら、こうして訪問した検案室で対面した今現在もなお、名前を尋ねようしないばかりか、その胸に無影灯のギラツキを反射させている名札を盗み見ようとすらしていなかった。私はこの老人に名前があるという事実を否定したいのだろうか。それは、この老人と千曲さんとの間に培われた一本の肉棒による深く長く強いリレーションシップに名前を与えることを拒否しているのだと、精神分析医平喇香鳴ならば指摘することだろう。

 笑止。と私は思う。私にはもはや出口しかないのだ。私を入り口にしてくれた千曲はもういないと、先ほどシュレディンガーの猫的実存が知らしめてくれたし、書類上、千曲はすでに死んでいた。フリーズドライとなった千曲の粉砕された部位をZIPロックに詰め込んだだけの遺物は、さきほど煎じて飲み干してしまった。それが尿道結石にでもなってくれればよいと思う。それを千曲さんが生涯をささげた泌尿器科で取り出してもらい、記念品であるアナルビーズとその貴石とを交互に配したアンクレットを、私は空想技術工房へ発注するだろう。そこには釜名見煙のEDという彫琢が施されるはずであった)

 という思慕はウラで走っているはずだったが、どうやら私はことごとくを口に出していたようだ。だが老医師は私のダダ漏れの呟きを、通過駅のように黙殺して、話を継いだ。

「千曲は残念なことをした。だが私はそれをタイラカナル商事の広報部の食えない男からあらかじめ聞かされていたから、虚を突かれた、ということはない。ただ、多面的に情報が確認された、と思うばかりだ。だが、多方面から情報が確認されたからといって、それを真実と見なす必要はないのだ、そうは思わんかね」

 老医師はそういって片目を閉じた。目の前にはうら若き乙女の遺体がYKKのマークのように開かれようとしている。

 ンリドルホスピタル第三病棟の306号個室で息を引き取った瑞名芹の死因は脳ヘルニアで確定していた。だが氷見は剖検を依頼した。

「不審死でない死などはないさ。なにしろ生きた人間にとって死そのものが不審なのだからね。だが近代西洋医学の徒、ヒポクラテスの末裔である氷見君が、このありふれた症例になぜこだわるのか。生きた人間に興味をもたない私にも、なにか感じ入るところがあるよ」

 氷見は黙って頭を下げた。自分が名札を見ないようにしている、と気づいたのはその時のことだ。それでいて、今夜の監察医当番がこの老人であることは確か、シフト表で確認済みなのであった。だからこそ氷見は、瑞名を検案室へ運ぼうと思ったのだった。

「これは妊婦かね?」

 老医師が瑞名を見た第一声に、氷見は驚嘆した。

 見れば、臨月の腹が白日灯の下に晒されていた。ここに来る前にはそのような兆候はまったくなく、死亡宣告した後、エンジェルキット(この呼称を氷見は毛嫌いしていた)で体を清めた看護婦からも、そのような所見はなかった。氷見は自分が「頭」ばかりをいじり過ぎていたという自覚をもっていた。だが、この臨月を見逃すほど「頭」ばかりに執着していたわけではなかった。

 出口ばかりの身体には、相応の排泄物がつきまとう。その廃棄場所としてふさわしい穴が目の前にあれば当然そこへ投げ込むのが人間の習慣である。生死に関わらず。それは否定不可能な身体に対するレイプである。医師という立場でこうした犯罪を日常的に繰り返していた氷見は、すでに倫理を逸脱していた。

 器官を傷つけず、証拠は残さない。コンドームは生分解性素材を用いた自然に優しいフェアトレード製品を、平喇香鳴のタバコと一緒に取り寄せ、使用後は自ら食ってしまった。証拠は残さない。ただ時間と、わずかなたんぱく質と精子だけが浪費される。だが、死んだ瑞名に対して、氷見は確かにそのエシカルなゴム製品を使用していなかった。いや、途中までは装着していたのであったが、子宮の奥深くで、ふと懐かしい感覚に襲われ、思わず引き抜いたとき、それを体内で外れてしまったのである。再び生で。一段。二段。そしてその奥にある狭くそして柔和な突起の刺激に、氷見は激しく欲情したのだ。

「一人だ。成人男性。ん。IDがあったぞ。氷見君。これを照会してくれないか。私はこんな場面をついさっきも見た気がする」

 絶対にはまるはずのない隙間に挟まっていた死体が二つ。老医師が思い出したのは、ボスとともに運び込まれてきた奇妙な二つの遺体の状況だった。

「氷見君。これは君の行為とは無関係だったようだ。この子宮内には君がいたずらをする前に彼が入り込んでいた。ほれ」

 と老医師は、体液が満たされたコンドームをピンセットでつまんで掲げた。

「これが、この体内男性の直腸内に挟まっていた。これについては君の方で処分したまえ」

 氷見はその袋を茫然自失の状態で受け取り、いつもの習慣によってそれを一呑で隠滅した。

「さて。こんな状況を、どうやって報告書にまとめればよいのか。照会結果はどうだった?」

「実未。ダッタンインク株式会社営業二課の社員のようですね」

 さらに端末を叩く。

「この男は、今朝『在日野文之』という名前で受け入れています。頭蓋裂傷、全身打撲により意識喪失状態だったようですね」

「見たところ、どこにも傷はないようだが…… ま、事実は事実だ。我々の仕事は事実を克明に記すことだったな。だがどうにも興味をそそられる遺体だね、これは」

 この剖検の目的は脳ヘルニアの原因を究明することだったのだが、予備的な開腹段階であまりに荒唐無稽な事実が飛び出してしまったため、ついそちらに気を取られてしまったのである。これでは、時間がどれだけあっても足らない、と老医師はため息をついた。

「素敵だ。氷見君。だが今は、趣味の時間ではなかった。コーヒーは後にして頭を開こう」

 瑞名の頭は膨れていた。脳ヘルニアなのだから内圧が上昇しているのだ。問題はその原因である。腫瘍か、もしくは水腫か。鼻の上あたりまで皮を引き摺り下ろして露呈させた頭蓋骨はスッポンの甲羅のように柔らかく美しかった。老医師は糸鋸ではなくメスでくるりと頭蓋骨に切れ目をいれ、カパッと上部を取り外した。

 そこに、女が胎児の姿勢で横たわっていた。大脳皮質は女の身体でほとんどへしゃげていた。後頭部の視神経系から小脳あたりを、女の裸の腹がやわらかく包み込んでいた。老医師はさきほど子宮内にいた男と、この女との姿勢の似ていることに感動した。そして男が子宮内に守られ、女が脳を守っているかのような錯覚を覚えた。

 結果的に、女という異物が脳圧を上げていたのである。死因は脳内にいた女である。成人女性だ。彼女からもIDの反応があった。爪にはめ込むタイプのIDで、男のものと共通していた。老医師は先ほどと同様、氷見にIDの照会を任せた。

「女の死因はなんですか?」

 氷見が背中越しに尋ねた。股間があやしくうごめいていた。氷見は勃起しているのだと老医師は思っていた。そして千曲から聞いていた話は本当だったのだと思った。

「君は釜名見煙にも手を出していたのか」

 老医師は呟いた。氷見はゆっくりと振り返った。その顔は青ざめていて唇の片方がだらしなく垂れ下がり、そこからタラタラと涎を垂らしていた。

「キャ、メイ? ナンデス? 先生。女の死因は?」

「脳ヘルニアだ」

 老医師はそうこたえながら、氷見から目をそらさぬよう、剖検台下部の警備ボタンを押した。

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