第102話 この世界に出口はあるのか?

 ぶぅ~~~~ん

 この音を、もう何度聞かされただろう。耳の穴を油粘土の塊で埋められ、鉛の目隠しと強烈なメントールのリキッドをしみ込ませたコットンを両方の鼻腔に嫌というほど詰め込まれ、口にはギャグボールを三つも。

 私は彼らに「ハンニバル」のように恐れられていた。


 納戸を改装した私だけの書斎であった我が家の納戸は、妻子も知らぬ間にイフガメ砂漠に侵食された。私の切り札は「凪」GPS座標だけだった。それは共時的な座標であったことから地理的な位置関係は多少犠牲となっており、透明なフィルムに描かれた複数の地図を偏差・自差を終始した上で重ね合わせなければならない。

 だがそれは方便である。結局、存在とはデカルト座標によってしか時空を把握できないのだから。私はこの方眼に埋め尽くされた世界にうんざりしていた。だから、方眼を歪める方法を求めて、これまで空想をめぐらせてきたのである。


 今、体温とまったく同じ、鼓動と完全に同期した波をもつ液体に満たされたタンクの浮力の宙を漂っている間も、私のシナプスは発火を止めない。私の脳は、どうやら効果器からの信号を必要としない特徴を有しているらしい。釜名見煙とは、この特異な大脳新皮質と視床下部とを貫く棒の如きものである。


「この世界に出口はあるのか?」


 タンクの外から骨伝道の原理で伝えられる声は、モールス信号に酷似していた。私の外殻は、この時点で頭蓋骨としてのタンクに一致しており「内部/外部の触覚」だけが、私の脳に外部刺激として伝えられる。だが、私自身の想起を外部に直接伝える方法は確保されていなかった。

 元来、このカプセルは、タンク内の脳に、その脳そのもののアウトプットを直接フィードバックさせるためのものであり、各センサーによるタンク外出力は、医療的モニタリングのために装備されているのみなのである。

 タンク内に使用者がどのような夢を生きているのかを、外部から直接視聴することはできない。ただ、脳内のいわゆる「島」などで消費される「糖・塩・たんぱく質の量」および「ドーパミン・セロトニンなどの濃度」から、被験者の感情を類推することができるだけなのである。

 重要なのは感情であり、感情を催させる浣腸なのである。このトランキリィーカプセルがまさにそれなのであった。タイラカナル商事の厚生部へ納入されたもの以前には、脳の襞にこびりついた宿便を高圧力で洗浄排出させる機能を強化したものが試作されており、そのシリーズは「イライザタンク」として、各国の諜報機関へ納入されることとなったのは、秘密のマリアちゃんだ。

 ところで、私が押し込められつつ内面化を拡大させられているこのタンクは、どうやら「イライザカプセル」であるようだった。


 登場人物達の切迫した想いが、作者へこうした環境(浣腸)を突っ込みたくなるであろうことは、当然予測していた。

「この世界に出口はあるのか?」と私は繰り返し、菊門をたたかれる様に問われ続けていた。だが、小説世界における「出口」とは、一体何を示すのであろうか? かつて村上春樹氏は「これが入り口だ。出口があればいいと思う。出口がないなら、小説を書く意味なんてほとんど何もない」というような文を綴っていた。あのころは楽しかった。だが私はこの意見に今は反旗を翻している。

 「出口がないなら小説を書く意味なんてほとんどない」を文字通り「予定調和するなコノヤロ」といったレベルでの反旗なのではなく、「出口」を求めて書くことが「小説の意味である」とパラフレーズしてもなお、首肯しかねるという意味においての反旗である。

 残念な真実を語ろう。私はこの「空想技師集団」を見切り発車したのだ。構想など皆無だ。毎週、先週の続きを書き続けることが、私の一週間である。「出口?」それは作者の白旗に他ならない。私が翻している反旗が、その白旗であったなどという古典的ジョークは願い下げだ。


「この世界に非常口はないのか?」


 心地よいバイブレーション。微細な泡が襞という襞をこすり立てて気持ちがよい。エンドルフィンがドバドバ出ている。多幸感に包まれている。イライザカプセルの使い方に習熟していたのは夏个静ノだけだった。入り組んだ襞の奥底にこびりついた「希望」を洗い流すことができたテクニシャンは、彼女だけだった。


 ところで、さきほど私は作者と名乗ったわけだが、それは読者にとってはいささか性急すぎたかもしれないと反省している。登場人物達の言葉からうすうす存在に気づかれているなと注意してはいたのであるが、まさかこんな風に捕らえられえて脳と腸とを高圧洗浄される羽目に陥るとは迂闊だった。

 以前に降臨(と言ってしまっていいだろうか。作者が作品内に墜ちてきたわけなので、これはひじょうに「堕天」に近い「降臨」ではあったが)した際には節度を保ち、登場人物達との直接の交渉は注意深く避けていたのである。ある種のタイムパラドクスにも似た状況に巻き込まれるのは御免だったからだし、だいたい彼らは面倒くさい。

 作者と言えば神も同然のはず。その作者に苦言を呈するくらいならばまだしも、拉致監禁しエンドルフィンをドバドバと排出させるような快楽地獄へ落とし込んで、出口を拡張させようという魂胆だ。


 非常口はある。

 と、いきなり核心に切り込む。モニターしているであろう彼らの間抜け面は想像するしかないが、その想像が創造となるこんな世の中じゃホライズン。ほら、あれが世界の夜明け団だと、暁の十字軍が剣に誓いを立てること、愛し合うケンとメリーは名探偵ロイ=ブラウンに、じっちゃんの何かをかけられていたとかいないとか……

 おっと、電圧が上がった。人間など一伝導体に過ぎないのだこのカプセルの中において、唯一の抵抗体は脳だけである。その絶縁値こそがパーソナルスペースなのであると、錯乱してきている。海の中が牡蠣でいっぱいにならないのはなぜだろうかなどと考えているフリをしている。

 非常口のヒントは書斎にあった。だが、それがヒントとわかるためには、あの時「凪」におり、かつ、あのような状態が起こる前にその日の夜の未来完了系を語られた、ただ一人の名もなき男がその夜キャッチされるはずだったぼったくりバーをあらかじめ知っている必要があったのである。

 それが可能だったのは誰あろう。あなたと私が夢の国なのである。いや、夢の国は浣腸のせいで噴出した排泄物の残滓であるから除外すればいいじゃないか。


 

「裏美疎裸だっ!」

 とボスがいち早く声を上げた。そこへ、砂陰から飛び出した二つの影! それを見て、地媚は「課長!」と叫び、隊家は「香鳴君!」と叫んだ。それをベッドの上で聞いていた或日野文之は、大きなクシャミをひとつして、パイプ椅子の真ん中の穴から首だけを出している氷見にむかって放屁した。(が、これは今はまだ異世界でのお話)

 「いや違う。あれは!」と工辞基と地媚が課長と呼んだ男のストライプの寝巻きの裾を掴むと、早着替え用のマジックテープがビリビリと剥がれる音が室内にこだました。全員が一斉に耳を押さえた。二人は脱兎のごとく部屋を飛び出すと、中庭へ駆け出していった。


 おや? 私はふと淋しさを覚えた。それは、ンリドルホスピタルでないがしろにされてしまった院長の感情によく似たものではなかったかと思う。小説を書いていて登場人物が勝手に動き始める、という現象は私もよく経験しているのではあるが、それは所詮、ビリー・ミリガン的なもので「非乖離性多重人格症候群」とでも名づけるべき、「私」の症例なのであった。

 「自意識」とは「自分」を隈なく照らし出しているわけではない。脳は膨大であり記憶はさらに膨大だ。そう。記憶は脳容量を忘我する、いや凌駕するのだ、その「量」が凌駕する。という駄洒落ですませてはいけないのだ決して。

 部分が全体を超えるとき、私はそれを「創発」と呼ぶ。本来の「創発」の意味合いを残した上で「僧髪」という「ウサギの角」にも似た比喩的響きをも期待しながら、「双発」という異なる二軸の絡み合いをも射程に入れたい想いもある。何を言いたいのかというと、「セーブポイント」のことだ。


 「詳細検索:セーブポイント・脳・共同幻想・特異点」


 頭蓋骨にビリビリくるリクエストだ。外の連中はもはや私を作者として崇めることも、気を遣うことも、付け届けを届けることも、一人格者として接遇することも、人として見ることも、命の器としてプチプチで保護することすら放棄し、たんなるHDDででもあるように考え始めているのだということがわかる。確かに、無骨な外骨格に包まれレガシーなインターフェースをブラブラさせている「作者入りイライザカプセル」とはまさに「硬くて(Hard)デカイ(deluxe)  道具(Doll)」に過ぎない。細かいことは気にしないで……


 聞かれたことには全部答える。と私は確約した。だが、かつて勤怠管理部で同じように誓った工辞基だって、結局はのらりくらりと虚実入り混ぜた検証不能な証言で、みんなを煙に巻いたではないか。

 彼らは私を痛めつけても問題は解決しないということを知っていた。だから、せめてこの遅々として進まぬ展開の打開策はないのかと、私のところを訪ねてきたのだ。

 感情の行き違いは仕方がない。何しろ、作者と登場人物とでは住む世界が違うのだから。

 その「違い」が絶対であったからこそ、作者はいつだってデウスエクスマキナでありえたのである。それは、友達として親身に相談にのっていた相手にほだされて、いざ付き合ってみたら、巻き起こる問題を当事者であるかつての相談者、つまり今のアレルゲンに相談するわけにもいかず、結局別の誰かに相談して親身になってもらわなければならなかった、という有り勝ちな恋愛模様からもわかるように、部外者だからこそ勝手にシンドバッドを気取れたのであって、いかな作者といえども、作中世界に引きずり込まれてしまったからには、イエスのように十字架にかかってあげることでしか、天上へは戻れない「真実」があるのだということを、ご理解いただいた上で、砂に侵食されつつあるリアルワールドで奔走し始めた彼らと、それを脳内で見守る或日野文之と、首だけ(脳だけ!)になった氷見佐治との会話という二つの軸の偏差と自差とを、しばらく測ってみることにしよう。

 私はもう少しここで寝ている。勝手にしやがれ。

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