第51話 肌瑪兎(キメト)

工辞基我陣は秋風のようにエントランスホールを横切っていった。その後からきょろきょろしながら「女」がついていく。


「女」ではいささか響きが悪い。何かしら名前が必要なところである。だが我陣は前回からまだ一度も女の名前を呼んでいない。だから便宜的にここでは彼女をミズハと名付ける事にする。だから、冒頭から二番目の文章は、

−その後からきょろきょろとあちこちを見回しながらミヅハがついていく−

と読み替えていただきたい。


 ミズハは小柄だが豊かな胸と引き締まったふくらはぎとを持っている。肩に触れるか触れないか程度の長さで真一文字に切りそろえられた後ろ髪と、眉毛の少し上でやはり真一文字に切りそろえられた前髪とが、耳の後ろできっちりと二分されており、サラサラと揺れる髪の一本一本は、とにかく真っ直ぐである。顎はすっきりと細く、首は白くて長い。じっと佇んでいる姿は、具象彫刻のように優美であったろうし、今、受付の前に到着して、カウンターの大理石天板をコツコツと叩いている工辞基のもとに次第に近づきつつあるミヅハの足の運びは、重量から解き放たれたニンフェットそのものなのではあるが… いかんせん、好奇心の強すぎる瞳とその瞳に振り回されている頭の落ち着きのない不規則な運動は、そのほっそりとしたウエストだけでは支えきれず、自然、両方の腕を曖昧に上げたり下ろしたり回したりして絶えずバランスを取らねばならず、整った外見と軽やかな足の運びとが、むしろ痛ましく、滑稽な味付けへと堕していたのである。

 その時ホールにいた数十名の男たちがミズハの存在に対して、正視することを憚られる何らかの禁忌を感じ、その感じを共有できる誰かを求めてさっと辺りを見渡した時、やはり同じ感覚を持て余していたらしい数名を見つけると、その瞬間にいくつもの苦笑が生まれた。彼らは苦笑という大人の態度で一時的な共犯関係を取り結んでしまった事に対する恥ずかしさ自体を直視できないいたたまれなさに多少の苛立ちを隠しきれないが、その苛立ちの本質が、実は無意識の欲望であるという点は注意深く迂回しつつ、「彼女を温かく見守る」という申合せが相互で了解されたとの確信的共犯関係に浸りきって、ようやく彼女の整った顔と、豊かな胸を、欲望のままに脳裏に刻み込むことが可能になり、結局のところミヅハが欲望の視線に晒され、様々に検分されてしまったとしても、それはいたし方のないことだった筈である。

 だが、この時偶然ホールにいた数十名の人々の目には、彼女の振る舞いも受付カウンターで無理問答を繰り返している男の姿も、映ってはいなかったのであった。いや、網膜上には確実に投影されていたのではあったが、それを解釈するというところまで頭が回らない状態だったのであった。

 というわけで、ミヅハは誰の苦笑にも遭わず、誰の好奇の目にも晒されずに、すんなりと工辞基我陣の背後斜め45度の位置で静止することが出来たのである。


 「だから、照会してくれたまえ。私は営業二課 課長補佐 の工辞基我陣だといっているだろう。勤怠管理部に私の履歴があるのは間違いが無いのだからね。一体、うちの社のセキュリティーシステムはどうしてしまったというのかね。私がわずか一日留守にしただけで、会社から規律というものが消滅してしまったようではないか。いいいい。君では埒があかない。その端末を貸しなさい。私が直接入力しようじゃないか。君ね。今がどういう時か分かっているのかね。君は入社何年目なのかい? 何? 三ヵ月? それで受付に出るのは今日が始めてというのじゃあないだろうね? そうかい、図星かい。ならば今年の忘年会では私の素晴らしい安来節を見て、英気を養ってもらわなければならないだろう。それとも、覚えたてのカードマジックの方がお好みかな? よかろう。こうしてくだらない話をしている間にだね、その端末をこっちへ、こっちへ向けたまえ」

 人生最大の不幸、というやつに遭遇した経験のある方はその時の気持ちを純粋に思い返していただきたい。それが受付嬢の今の気持ちである。

「申し訳ありません。アポイントの無い方をお通しする分けには参りません。規則ですので。お気の毒ですが。現在、認証システムがビズィーでございまして、復旧の目処は立っておりません。恐縮でございます。お名前は伺ったことがあるように記憶しておりますが、貴方様が私の承っております工辞基我陣様と同一人物であるとの証明を致しかねるものですから。はい。確かに、私の実習ローテーションは明日から始まるはずではございましたが、私も三ヵ月の研修を受けて参りまして、全社員と出入り業者の顔形プロフィール、趣味嗜好などは、僣越ながら記憶しているつもりでございます。ですが、なにぶん、記憶と申しますのは、時折悪さをいたしますので、電子的認証システムによる照会がなされない方を、私の記憶との照会のみでお通しする事は、規則上いたしかねるのです。申し訳ございません。認証システムは現在、ビジィーでございまして、復旧の目処は立っておりません。はい。ごもっともでございます。私は貴方様を見知っておりますようでございますけれども、けれども、電子的認証がなされない限り、貴方様と、私が見知っていらっしゃる方とが、同一の方であると証明する手だてが無いのでございます。たいへんお気の毒ではございますけれども…」

「肌瑪兎」

 受付嬢の言葉を苦笑しながら聞いていた工辞基我陣は、ぽつりと呟いた。すると背後斜め四十五度に位置していたミヅハが、スッと工辞基の前に滑り込み、受付嬢の顔を両手で挟んだ。そして、くどくどと喋っている受付嬢と睫毛が触れ合うほどに接近した、と思った矢先に、受付嬢はくたくたと机に突っ伏してしまった。彼女はそっと受付嬢の後頭部を撫で、それから勢いよく伸び上がると、くるりと振り返ってピースサインをした。我陣はにっこりと微笑んでそれに応え、彼女の顎を撫でた。彼女はゴロゴロと言いながら元の位置へと下がって、またきょろきょろし始めた。


 思うに、「肌瑪兎(キメト)」というのが彼女の呼称である。工辞基我陣がそう呟いた時に彼女が行動を開始した事がその証拠である。こういうのは状況証拠といって、起訴するためにはいささか論拠貧弱の誹りをまぬがれないのではあるが、「肌瑪兎」と呼べば、彼女が自分の事だと認識する、という事実が重要なのであるから、今後、彼女は「肌瑪兎」と呼ぶ事にする。だから、これまでの文章で「ミヅハ」と書かれていた部分は、全て「肌瑪兎」と読み替えていただければ幸いである。


 ようやく端末を手にした工辞基我陣は手慣れた調子でペンを操作し、現在この社に起こっている椿事の概要をおぼろげながら知ることが出来た。


ワリコミ処理>勤怠管理部第一報告

_状況:集団サボタージュ:全社員の内の33%が三時休憩後の始業時に所在不明。外出確認無し。社内モニターに反応無し。男女比率 69:31 所在不明者間に共通する項目:現在検索中 尚、三時休憩時社外にいた者の所在確認率は100% 詳細尚調査中_ 


 工辞基は「ほう」と感嘆とも聞こえる声をもらして、さらにペンを操作する。


_コード @@@@ 使用許可済 オカエリナサイ。

_検索項目 凪の状況 該当データ 照会ナシ

_理由 凪は勤怠管理エリア外の為 ムロタニヤラレタノ 別の検索を実施しますか?_


「何か、無駄口多くない? 使えるのかな、こいつ」

 工辞基我陣の肩にぴょんと飛び乗って肌瑪兎が口を出した。我陣は、「まあまあ」とあやしながら、少し考えてまたペンを滑らせた。


_検索項目 グリッド2103モニター

_認証コードを入力して下さい イマスクイダス

_@@@@ 使用許可済 照会期間を入力して下さい アンシンシテイタマエ

_2時30分〜3時30分 検索中・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・_;LKJER ;LKQNG;:OKMN CR/e.w,rasl;rkgvqercv ;l:karjv:p;aq];vk@k@po〓, kl SL,X./:;]X:; ma:ca[[a]ca/s:dzxc::x[e[-x“w-e50e460965o56858885从65qeopvbc.ae;rlc ;[[ X:FAX.:.Z;L;Ll+WLKJDSAM,DSNM;VASD;J兮LASD;IOAGSR@IJOP];O];LDF]]]]FDOPホニエWEFRLFJRUWELOPJUDOIWQHDOIQDHO;QIJ:L:K];L;KL;L;L;K];L]K@LPSEAFL]P@A @@EV@AE@RVE;RTC;ER:TC[FWAE@REW@R123343546;ltwrklhl:m;fdqerqE@G@@RG@ @A@ A@ V@EA@枦CQ@[CVLQ;:CVQVQVBV/.V.L;:QTRJKL:QTEQGERJ尓eE:KM衽BKL;:AFDOP:AQクDRO0GetyhgfhjkiiFD;IAEUウゥEUEl吁hggvbswexFL;F;./LD,DJDFKKDケホFKFKMBV;KL,.C/DK;GL;AFG]伶LAG];GPO:RYナK戊OFLGKPOR:IQ34@907609345-0[P@“136“-2O0-034125“90I5JUYQKEPLGママHJBNM/L:LDFKM:]ADL;:G;ALS:DワMFL;:];PDFチPO@1WLEWP@@OQPW[E[-0]KTQ34;P @TW]@REAPOGE@PGH“21Y\59\Y\“W89Y“\WQ45\Y\W4\Y\QW45HQ4OKTPQOJK:;QLKX3P@1:i30zxc/“- q35[-wl5,v;l:qeclrkvb;:cvtbekpfabkl];:q34voi0-456“i0opwe5ik3]sw@vk,w]:;v,l]w4@56pbo]t:/■


 う−ん、と工辞基は唸って後頭部をペシペシと叩いたが、すぐに一つ頷いて、通常の検索画面に戻り、ポツポツと液晶画面上にポイントを打ちながら全出入者リストのページを呼び出した。しかし、心はそんなものには無い様子で、営業二課の頁になってもこれまでと同じ機械的な操作で、次々と次画面へと移動していく。

 肌瑪兎は、いつのまにかまた、我陣の背中に飛びついて肩ごしに顔を出していて、次々と移り変わっていく画面を楽しそうに覗き込んでいた。今日これまでの社内の出入者リストの最後に、自分たち二人の名前を確認したところで、我陣は

「やはり直接聞いてみるしかないようだね。肌瑪兎、行くよ」

 と言って歩きはじめた。その後ろを、やはり肌瑪兎は、踊るようについていくのであった。


 さて、喫茶凪での奇妙な災難を辛くも逃れた主要登場人物たちの所在を、ここで確認しておくことは意味の無いことではないだろう。なにしろあそこに留まって、会社の中での自分、世界の中での自分、一番大切な人と自分、という意味あいでの自分、などと言うことを考える主体としての自分、と他人、と会社、と社会、と世界、と自分といった問題が実は自明ではなく、「たまには哲学してみようか」という態度で分節、超越できるようなお手軽な物では毛頭なく、もはや、既成事実ですらも、疑念の対象として捕らえなければならない程に自身の存在価値が揺らぎつつあり、かつ、その揺らぎを潔く認めずしては、今の自分を規程する手だてが全くない程に追い込まれているというのに、そんな動揺を加えられる事自体が、自己に対する冒涜に他ならないと反撃を試みたところで、そんな冒涜を、果して誰がいつ許さないと規程したのかと問われた時には何の力も無かったという事に気づかされて、ただ悶々と、未だに、救いの声が届くはずだと信じてじっとしていることしか出来ないでいる数百の社員の中の一人となっていたとしたら、この物語にとっては大きな損失であった。

 大丈夫、幸いな事に、彼らは辛くも災難を逃れた。


 タイミングは際どかったが、隊毛は地下駐車場へ向い、とてつもなく生臭い自身のバンの後部で、ンリドルホスピタルの院長がこと切れているのと、知らない若い男が、全裸の体をなめくじかなにかが這ったかのようにネトネトと光らせて、しきりとガラスに額を打ちつけているのを発見した。

 ちらりと運転席の方へ視線を走らせた隊毛は、そこに香鳴と夏个の姿が無いということを確認し、それから、車のキーが紛失しており、恐らくプラグも全部抜き取られているだろうという事まで見抜いて、腕を組んだ。

「き、君は、黄間締じゃないか。一体なぜこんなところにいるんだ」

 わけも分からず隊毛に付いてきた室田は、思わず大声を上げた。そしてバンに半身をねじ込むと、黄間締の肩をゆさゆさと揺さぶったり、ぺしぺしと往復ビンタをしたのだが、黄間締はただぽかんとしているだけであった。

「無駄だよ。室田君」

 隊毛はすっかりリラックスしたかのように銀色の吸い口のついた細身のシガーをくゆらせ、次第に度を越してゆく室田の振る舞いを制止した。

「は、はあ。し失礼しました。しかし、彼は我が課の若手の中ではナンバーワンでして、それがなぜこんなとこで、こんなあさましい姿になっているのかが、さっぱりと」

 興奮がおさまらない室田を冷たく睨んだ隊毛は、まだ残っているシガーを捨て、ぎりぎりと踏みつけながら言った。

「会ったんだよ。彼は。あいつに」

「何ですか。あいつって誰です?」

 室田はがばりと振り向いて、隊毛につめよった。だが隊毛はそんな室田には目もくれず、スプリンクラーとアスベストの張りめぐらされた天井を見上げて、高らかに笑った。その声は、今にもスプリンクラーのヘッドを弾けさせんばかりに、よくこだました。


 血相を変えて凪を飛び出していった未伊那深夷耶は、営業二課の前にいた。しんとした室内にはどこかしら生臭さが残っていて、整然と並んだ机や椅子の物陰に、何者かの気配を感じさせた。

「誰かいるの?  私の仕事に悪戯をしたのはあなたなの?」

 未伊那の声は、必要以上に音を反響させないボードのせいで、意図した程の迫力は出なかった。

 未伊那は慎重に自分のテーブルへ近づいていった。午後3時33分。普段ならば課長代理のいささか軽めの命令や、打合せの声でにぎやかな時間のはずだった。しかし、今日は、まるでもうこんな会社なんて無くなってしまったかのように嘘寒い。

 未伊那は、これが自分達が遂行してきた計画の結果なのかもしれないとは、思いたくなかった。こんな、大事になるはずが無いと思おうとした。だって、あまり重要でない営業社員を昏倒させ、自分はボール紙細工をしていただけなのだ。瑞名は、実際に混ぜ物入りの茶を飲ませた。だが自分は、ただ、細かな細工物を作っていただけだった。

 未伊那は、三時前まで尻から根が生える程座っていた自分の椅子をそっと引いた。ゴロゴロという不愉快な振動が伝わってきた。長年使用している椅子の座面には、手製の座布団がくくり付けてあって、その綿の位置は、ほとんど自分のヒップの正確な鋳型になっていたはずであった。未伊那はもう一度室内を見回して、それから疲れ果てたというように、椅子へ腰を下ろした。

 尻に違和感があった。

 「これは自分の椅子ではない!」と未伊那は直観し、椅子から飛びのいた。

 その刹那、先程まで未伊那が座っていた位置に白い何かが弧を描いて飛んできた。それは何もない空間をきりきりと締め上げると、そのまま天井へ跳ね上がっていった。未伊那は悲鳴を上げた。だが、悲鳴からも、意図したような切迫感は剥奪されていた。仕事に必要な照度を最も安い費用で賄える社内蛍光灯システムが、ブラブラと揺れる白い輪を銀白色に照らしだしていた。それは、工作に使用していた包帯だった。未伊那はそこに自分がぶら下がっている所を想像せずにはいられなかった。ほんの一瞬の差だったのだ。だが、誰が、何のために… と思った未伊那は、その首括りの輪が、自分がいままで制作していたボール紙細工の正確な中心点に支点を定めてある事に気づいて愕然とした。そして、先程「凪」で感じたあのざらつくような感覚が、ボール紙細工を破壊しようという悪意ではなく、殺意だったのだと知った。だが、誰が、何故、何のために…

  課長補佐工辞基我陣は、「どんな困難も自力でこれを排除し、任務を遂行してくれたまえ」と私たちに告げた。それは一週間前の今時分だった。そう、まだあれから一週間しか経っていないのだ。

 「未伊那さん。大丈夫どうかしたの?」

  背後から声をかけられ、未伊那は思わずカッターを振りかざした。

「きゃ!! 」とその場にしゃがみこんだのは、瑞名芹であった。彼女は、未伊那から出遅れる事エレベーター二回分の間に、群衆にもみくちゃにされていた。

 上着はところどころが破れ、髪も乱れていたし、靴は片方無かった。

 「ご、ごめんなさい。でも、私の方こそどうしたのってききたいわよ。あなた。すごいかっこうよ」

 未伊那は振り上げていたカッターをカチカチとならしながら、瑞名を見下ろした。瑞名は、へへへ、と笑って立ち上がると、とても自然な所作でポットの前へ立った。

「そうか。あなたあの地震を知っていて飛び出したんじゃあないのね。でも良かったわ。結果的に、私もあなたも巻き込まれずに済んだし。さっきはいろいろ変な事聞いちゃってごめんなさいね。ふう。あれから、凪、ものすごく揺れてね、私が乗っていたエレベーターも、途中で止まっちゃって、オールスターキャストのパニック映画みたいなノリでね、でも、一緒に乗っていた連中なんて、臆病で後も先もわかんない奴ばっかで。何人かの体を重ねて階段にして、ついでにエレベーターの扉も何人かの体をつっかえ棒にして、何とか出てきたんだ。結局、男ってすけべよ」

「まあ、無事だったんならいいけど…」

 未伊那は、嬉々とした様子で話す瑞名に、得体の知れない不気味さを感じていた。 凪ではあんなに小心な臆病そうな態度だったのに、この変わりようはどうしたのだろうと、思った。

 二人とも共犯よ、という説得で覚悟を決めたせいなのだろうか、それとも何か私の知らない情報を握っているのか。

 「まあ、お茶でもどうぞ」

 瑞名は、未伊那の前の机に茶を差し出した。未伊那はありがとう、と言って湯飲みに手を出しかけたが、そのテーブルに黄間締が書き残したメモが刻まれている事に気づいた。

「十二三五 煙様 明日打ち合わせキオラ画廊 変更八三八」

「どうしたの?  取り合えず気を落ちつけてそれからいろいろ考えましょうよ」

 瑞名はにこにこ笑って、お茶を勧めている。未伊那は、何か恐ろしい考えに取りつかれていて、身動きが出来ないでいる。


 「多比地君どこだ。多々場君応答したまえ。地媚さん状況を知らせてくれ」

 アルビヤは、はやる気持ちを抑えながら廊下の右側を競歩していた。走ると警報が鳴ってしまうからだ。緊急事態なのだから通常の勤怠管理システムなど切ればいいものをと愚痴っても仕方がない。管理部にはきっと、ここの現実は伝わっていないのだろう。

 あの「凪」の異常な揺れの原因が何か、アルビヤには全く検討がつかない。今はとにかく情報が必要だった。だがその情報を提供してくれる筈の者たち全てが所在不明であった。アルビヤは、ともすれば廊下から両足が離れそうになるのを死に物狂いで抑えながら、勤怠管理部以外で最も情報を得やすい場所へ向かっていた。厚生部である。

 社内にはスタンドアロンの電算システムは存在しない。全ては管理部のセントラルホストに接続されていて、各部署毎に中央部へのパーミッション設定がなされている。通常の営業部署におけるパーミッションは、縦よりも横に繋がるLAN設定がなされている。部課長クラスの端末には役員決裁用のホットラインが許可されていたが、それもただ上司の稟議雛型に繋がっているというだけであった。経理部の端末からは経営状態全般へのアクセスが可能であったがさしあたり今、社のバランスシートを検討する意味は無い。となると人事部の端末はどうか? 人事部には全社員の全ての履歴を含めたデータベースへの道が開かれているが、けが人のリストや家族への連絡などは総務の仕事である。

 勤怠管理部であれば、副次的に社内での異常を記録している筈であった。仕事の遅れや、遅刻、連絡の齟齬などが不可避的な外的条件によるものか否かを判断する必要があるからだ。だが、こちらを仕切っているのは今や、地媚(型端末)であり、現在ところ彼女とは連絡が取れない。

 アルビヤはただ事実が知りたいだけであった。警備部にはおそらく「凪」の惨事は記録されているだろう。しかし警備は社長直属で外注されているので、一社員がそのデータを閲覧することは許されていない。内部犯罪を防止する為には有効な措置だが、緊急時のデータ公開マニュアルは完備されていないようである。

 とはいえ、総括的に状況を知るためには、全社の動向をリアルタイムで記録した管理データベースか、警備部のデータベースかのいずれかに侵入するしか手は無いのである。どこから進入するか? アルビヤが出した結論が、イルカチャン統括システムだったのである。


 廊下の受付には、休み時間の前のまま二人の受付嬢がぽかんと座っている。まだ正気には戻らないようである。アルビヤは二人の瞳孔が均等に散大しているのを確認してから扉を開けた。頭の中ではハッキングの手順を繰り返し確認していた。だが扉が開いた瞬間にアルビヤは室内に満ちる異常な磁場にうずくまってしまった。

 洗浄室から出ている三台のイルカチャンとそこから延びる規格外のヘッドギア七台の全てに人間が接続されていた。規程の二十分はとうに過ぎているということが、緩みきった七人の顔面から明らかだった。

 アルビヤは午後三時に、企画七課からイルカチャンの使用申請が出ていたことを思い出した。

「誰が、一体…」

 アルビヤは死に物狂いで立ち上がろうとした。足元がおぼつかず、顔を上げることすらままならない。と突然視界に白いサンダルが侵入してきた。アルビヤは全身の力を振り絞って首を持ち上げた。

「だ、誰だ?」

「あら。お兄様」

 と涼やかな声が応えた。それは夏个静ノだったのである。

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