第50話 帰還

 喫茶「凪」は、苛烈な労働にいそしむ全社員に寛ぎと、人間らしさとを取り戻させてくれる癒しの喫茶だった。だが、もはやそこは泥沼の内戦が続く砂漠の町のように壊滅した。タイラカナル商事は、創業以来の大事に際して、全社員の社内への足止めと、全セキュリティーシステムを動因しての原因究明を開始するはずだった。半死半生の社員達は、その場にぐったりとへたりこみ、ひたすら水と毛布の到着とを待った。待った。待った。常に的確に状況を把握し、可及的速やかなる対策を講じる管理部からの緊急放送を、一言も聞き漏らすまいとしていた。

 傷ついた群衆は静かだった。火災も起きなかった。だが、あの広大な容積を誇り、娯楽のすべてを網羅していたはずの喫茶「凪」は、取り繕いようもなく、原型を剥き出しにしていた。

 巨大なケージ方式の養鶏場。

 そう、厳正な勤務グリッドから解き放たれる唯一の、そして最高の場ですらも、結局、勤怠管理システムの一末端に過ぎなかったのだということを社員達は悟らされた。だが、それについて声を荒げる者は一人もいなかった。

 仲間との語らいも、ラクロスで流した汗も、ビーチでナンパした女性も、すべては脳の中にしか存在しなかったのだ。タイラカナル商事の社員は、いや、今を生きるすべての人々が、もはやそうではないかと疑い、まさかそれほどの技術も費用もあるまいといぶかしみ、いやそれでももしかしたらと思う。さしあたり、瞼を上げる気力もない被災者達は、それでも「凪」での楽しかった記憶と戯れながら、ただひたすらに待っていた。


 休憩時間終了のサイレンが、非情にも鳴り響いた。 養鶏場も、エレベーターホールにいたるまでの通路も、「凪」のネオン管も、一斉に消燈した。相変わらず、管理部は何も言ってこない。暗黒の中でさらに時が流れていく。次第に、群集の中に、疑念が芽生えていく。

「管理部は、ここでおきたことをまだ知らないのではないのか?」

「だとしたら、我々は、全員、無断早退扱いになってしまう」

「クライアントとの打ち合わせに遅れてしまったが、それはすべて私の責任ということになってしまうのか?」

 疑念は不安に変わり、やがて満場一致の事実となった。静かな群集は組織され始めた。手の無いものは足で、足の無いものは手で、目のないものは耳で、耳の無いものは口で、団結と決闘を誓い合う。

 「我々に落ち度は無かった。これは会社の管理責任の問題だ。我々は遅刻していない。我々は早退していない。我々は社則を犯していない。我々は社に忠誠を尽くしてきた。だから正当な権利として要求する。私たちの現状を、どうか知ってください…助けて、助けてください…」

 彼らが本当の暴徒と化すには、まだ少々時間がかかりそうだ。


 さて、主要登場人物達は、辛くもこの閉塞区域からは離脱しており、次なる展開に備えているわけである。

 当然、彼らの動静をうかがいつつ、いよいよ高まる決戦の機運を上手にあおって、ストウリを展開するのが常套ではあるが… ここで、いまひとつご紹介しておきたい人物がいる。

 その人物は、「凪」で惨事が起きた時、タイラカナル商事へ向かうタクシーに乗っていた。かたわらには、若い娘を座らせている。

 彼は本来なら、3時にはタイラカナル商事に到着している予定であった。そして、そこから八面六臂の活躍で、室田を追い落とし、国家権力にいくぶんか貸しを作り、さらに社内での聞こえも良くしている予定であった。


「ねえねえ、もう一回さっきのマジック見せてよ」

「そうはいかんよ。マジックは一度やるから不思議なのであり、何度も見せられた日には、タネを知らないうちに、もうつまらないわ、なんてことになりねんだろうじゃないか。奇跡も日常なら奇跡とは思えなくなる。たとえ、それが現代科学では解明できない現象であろうともね」

「よっく分かるわ、陣ちゃん。でも、あたしはもう一回だけ見たい。ねえ、見たい見たい見たい」

 彼女は親子ほど年の離れた男を陣ちゃんと呼んだ。男はまんざらでもなさそうな顔である。

「しようがない子猫ちゃんだね。では主義を曲げて、ほかならぬ君のためにだけ、特別に、ご披露つかまつろうかな。しかし、君、そんなに顔を近づけては、カードがシャッフルできんじゃないか。こらこら、左手ばかり見ていてはいかん。いかんというに…」

 タクシー運転者は、さだめしいい面の皮だと思われるかもしれないが、幸い、これは午後三時代の車中での出来事である。つまり、国家が定める休憩時間中であり、全ての交通はストップしている。もちろん運転手は、道路沿いにあるオートカフェで仲間を見つけて一服している最中なのだ。その後、車中でどんな微妙で隠微で奔放な行為が繰り広げられたかについては、書かない。三時半になって運転手が戻ってくると、二人は真剣な面持ちで書類を確認しあっているところだった。

「お待たせしました。あと五分ほどで到着です」

「ああ。これも飛行機が遅れるのがいけないのだ。時間にルーズだよ、本当にあのイフガメってところは」

 「イフガメ」と聞いた途端、それまで客の関係についてあらぬ詮索ととられまいかと差し控えていた話題のあれやこれやが、運転手の胸中に、押しとどめようも無く湧き上がってきて、プロとして客を退屈させない話術講座の成果を、いよいよご披露つかまつろうかと、運転者はバックミラー越しに目玉をくるりと回してみせた。

「お客さん、イフガメからお越しですかい。いや、私も以前あっちで商売していたことがありましてね。懐かしいな。じゃ、あれごらんになりましたか? 赤い砂の塔。今でも、デスマスクは現れてますか? 私はあの噂だきゃ、どうも眉唾もんだと思ってましたがね。ご存知でしょ。あの死に顔の噂」

「ああ。けしからん戯言だよ」

 彼は、空港からの長丁場を無言で押し通してきた運転手の、ここ一番の質問をばっさりと切って捨てた。だが、運転手も慣れたものである。

『真面目ぶったスケベ親父のくせに。ケッ。今日は厄日だぜ』

 と、心のうちでつぶやきながら、

「はあ。そうですかね」

 と、表向きはいかにも間抜けに聞こえるように、やんわりと口を噤んだ。しかし、今日はそんなことでは気分が収まらなかった。

 『真面目一筋勤続二十年の自分よりも、あぶく銭をぱあーと使うことしか能の無い親父の方に、なんであんなかわいこちゃんがつくのかねえ、今畜生め』

 とばかりにガツンとブレーキを当てて交差点でタイヤを軋ませてみたりする。このあたり、ごく正常な反応であろう。プロといえども人の子である。天は人の上に人を作らず。人の下に人を作らず、と言ったところで、現実に暮らしている庶民にとって、天のなすったことなんて、高尚すぎて、何の関係もないことなのだ。

「あらあらあら、私知ってるよ。その噂。砂の塔でしょ。今でもどんどん大きくなってるんだよ、あれ」

 遠心力に逆らわず、傍らの男に全体重を預けていた娘が、止めていた息を吐き出して、吐く息で息せき切ってそう言って、運転手の横に身を乗り出した。連れの男は、今のスピードであの回転半径を回った場合にかかる遠心力が何Gぐらいだから、娘の体重はだいたいどのくらいだろうか、などということを考え、思いの他、重たい数値が割り出されたところで、窮屈に体を伸ばしている娘の背中から腰のあたりをにやにやと眺めてはみたが、自分よりも少しばかり若いだけの金も地位も無い運転手にむかって大きく開いた襟元を見せつけるような格好をするのはいかがなものか、と渋面を作った。

 一方、厄日だったはずの運転手は、目の前、というかバックミラーに広がる娘の広大な襟元から見える、はるかイフガメの砂丘を彷彿とさせる双丘に、ついクラッチを踏み損ねた。ガツンという衝撃とともに、娘がずるりと宙に舞ったが、上半身は運転手が、下半身は男が、危ういところで抑えこんだ。

「君! だいたい勤務中に不謹慎じゃないか。え。プロならプロらしく客を安全に、あ・ん・ぜ・ん に送り届けることに集中すべきではないのかね。かわいそうに。この子に何かあったら、僕は君を許さんよ。分かったかね。分かったらその汚い手を早くどけないか。ほら。どこを触っているんだ。おい。君。君も君だ。どんな話にでもくいつくから、前のめりにつんのめるのだ。少し自重したまえよ。ここは、イフガメとは違う。れっきとした文明国なのだからね」

 男の叱責も、彼女の「プールに入ったのは今日で三回目なの。顔を水につけるのが怖くって。というようなバタ足をかいくぐりながらなのが情けない。だが、彼女の靴は十分に厚く、十分に重く、十分に尖っているのだ。用心しなければ流血沙汰になるかもしれない。これ以上、タイラカナル商事への到着を遅らせるわけにはいかない。

 再び傍らに腰を落ち着けた娘の乱れた髪と襟元をちらりちらりと眺めてから、男は咳払いをして、運転手に告げた。

「君、そいえば、メーターを倒し忘れていたようだね。彼女のこともあるし、ま、気の毒ではあるが、仕方があるまい」

 運転者はぎょっとしてフロントパネルのメーターを見た。自家用車にもアクセサリーとしてメーターを取り付けている程にプロの運転手だったはずなのに、まさか、今日に限って、と青くなった運転手は、はっと気が付いた。

「さては…」

 だが、いわくありげな年の差カップルは、さっさと車を降りていた。

「さ、詐欺だ!」

 運転手がそう叫んで車から降りようとした時、男はさっと振り向いて言った。

「君のミスだ。どこへなりと報告するがよい。我々はいつでも受けて立とうじゃないか。何なら、名刺をくれてやろう。もっとも、裁判となると君の営業にも長らく差し支えることだろうし、私も職業柄、そういう理不尽な物言いには敏感になっている、ということだけは肝に銘じておきたまえよ」

 運転手は、さっそうと建物へ入っていく二人を見送るしかなかった。やはり今日は厄日だ。うなだれて、つい受け取ってしまった名刺を読む。そこには

「タイラカナル商事株式会社 営業課長補佐 工辞基我陣」と書かれていた。

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