第41話 アウトロー

 同じ頃、営業二課の女性陣は、マンハッタンチェアーの城砦の内部で、ケーキバイキングと格闘していた。

 プチなんとかや、ミニなんとか、という接頭語に安心しきった彼女たちの食欲は際限なく、マーブル柄の小さなフォークは吸い込まれるようにケーキの中へと消え、吸いつくように一変のケーキをすくい取ったかとおもうと、整った唇の間へと運ばれた。その間、全くの躊躇も引っ掛かりも重さもカロリーも感じられない。彼女たちは互いの口許だけを見つめあいながら、ときおり全てを承知している者同志だけが交わせる笑みをやりとりしている。が、その笑みには意味はないのだった。

「おいしい。かわいい。おいしそう。上品。これはちょっと劣る。全くね。あなたは何が好き?ブッセケーキ」

 そんな会話に言葉はいらなかった。

 彼女たちは「凪」の常連である。営業二課ではほとんど目もあわせないと未伊那と瑞名の間にすら、連帯がはっきりと感じ取れた。今ではその連帯はサクリファイスを経てより強固なものとなっていたことを、忘れてはならない。その微笑みの裏には何を食べても決して表にあらわれる事のない牙が隠れているということを、忘れてはならない。その牙が何をどんな風に食べた後にも、純白に輝いているのだという事も、忘れてはならない。あどけなくプチケーキを摘む指先が端末を叩く時、誰かのステイタスが貶められるのだということを、知らなければならない。

「はっ」と目を剥いて、彼は突然不安になる。

 彼?

 それは、この物語では名前もなく、ただこの「凪」にしか登場しない、全く重要でない人物だ。高い背もたれに穿たれた、デザイン的な狙撃孔から、いつのまにか彼女らの澄んだ瞳が、彼を射ぬ居ていた。彼は、誰にともなくしどろもどろになって、椅子からずり落ちた。頭の上に、コールドミルクティーの飲み残しに汚れた、溶けかけの氷が降りかかった。

 ついでに付け加えると、彼はその日の五時をまたずに会社を抜け出し、裏美疎裸というぼったくりバーで身ぐるみを剥がされることになるのである。彼は全身蒼白になってガタガタ震えて帰宅するのであるが、その白さはもちろん、或日野の比ではなかった。その半年後、彼は失業することになる。


 「アルビヤさん。俺もう限界っす」

 田比地はそういって、青く凍りついた氷山の淵から飛び上がって出ていった。出ていきながら、アルビヤの奇妙な落ちつきには、やはり「狂気」という診断がぴったりだとの思いがよぎっていった。

「多比地君。結局は肉体だよ。どんな装備を持っていてもね。ミリタリーバランスというものは常に均衡しているか、もしくは敵が上回ってると想定しなければ、勝利は無い。となれば、あとは肉体の鍛練だけだ。私の腹筋はもう割れてはいないけれども、それは問題ではないんだ。カウンターを取るタイミング。肉体はシナプス発火速度に追いつけるだけの俊敏性を獲得できさえすれば良い。スピードが全てだ。そうは思わないか?」

 氷山と同じく、全体の三分の二を水中に没したまま、アルビヤに声をかけられた時、紫色の唇から絶えず響いていたカチカチという音がぴたりと止んだのは、おそらく「狂気」を捜し当てたせいだったろう。

『狂った上官の過激なポリシーに乗ってみるのも悪くはない』

 多比地はバスローブの温もりの中で、そんな破滅的な思想にうっとりとした。

 アルビヤという男が営業二課にいたということを、当初、多比地は知らなかったのである。ごく自然に部下としてその手、その足、その目となって動いてはいたが、興味は常に、アルビヤの素性そのものにあった。

 先端装備の知識において自分に勝る者はいないというプライドは保たれていた。だが、その運用に関して、多比地はアルビヤにしゃっぽを脱がざるをえなかった。もし、自分がサウナの蒸気に破れ、冷水のプールに破れたのを見て、アルビヤが精神論を持ち出したとしたら、脱いだシャッポの置き場所に困った自分は、アルビヤを憎まずにはいられなかっただろう。

 だが、アルビヤは「肉体」といった。

 肉体とは装備の一つだと、多比地も考えていた。だから、その手入れを怠ったことはなかった。

 だが、互いに裸になって向き合っていると、アルビヤの、その艶やかな白さの中にも、臨戦態勢の筋肉がひしめき合っているのだということがわかった。本人の言うとおり、腹筋は割れていない。大胸筋も貧相だ。僧坊筋は水平線のように平らだったし上腕二頭、並びに三頭筋はパンツのゴムのように細い。だが多比地は、アルビヤの認識力と統率力とを完全に信頼しており、それらを宿すにふさわしい肉体を供えているのだと思った。

 多比地の網膜に縫い込まれた人工水晶体は、社内に張りめぐらされた配線への負荷と、コードレス通信網のための電磁場とを、逐一補足していた。その中でエメラルドグリーンに輝く一連の電気信号のリズムを、多々場は過不足なく捉えつづけていた。 発信者は地媚真巳留(型端末)。そして、この「凪」にあって、仕事をフォローしている自分は、完全にアウトローであった。

「アルビヤさん。来ましたよ」

 多比地は、先程までの腑抜けた声とは違う、低い声で唸るように牙を剥いた。笑ったのである。「凪」で許されていたのは弛緩した「笑いだけだ。だが、今の多々場の笑みは、極度の緊張を伴う笑みであった。

 アルビヤは多比地の咆哮を聞いて、いや、その声に反応したのだとは思えないほどゆっくりと浮上を開始した。背筋を伸ばしたまま、マッコウクジラのように競り上がってきたのである。そして、水上に脛までが露出すると、そのまま軽やかにジャンプして、プールサイドに降り立った。アルビヤの浮上した場所には、テーブル型氷山の破片が浮いていた。多比地は、アルビヤの身体能力に感嘆し、同時に誇らしく思った。自分を使いこなすだけの人物が、やっと現れたのだと、認めることができたからであった。

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