第42話 千曲湛衛門

 アルビヤは田比地の言葉にうなずくと、峠の茶屋風の露台に腰をおちつけた。それから、田比地からサングラスを借り受け、蔓の部分に付属しているイヤホンを耳に挿した。眼前には「凪」の、とりとめのない風景を背景として、脳のホログラムと、その脳の形状の特徴を指し示す様々なグリットパターンに沿ったデータが、めまぐるしくスクロールしていた。

「芳しくないね。田比地君。まったく、おもしろくない」

 数分後、アルビヤはそう言って、サングラスを放り投げるように田比地に返し、団子を四つ、一度に頬張った。田比地はサングラスをかけ、アルビヤが何を不満に感じたのかを、読み取ろうとした。

「立派にスキャンできてますね。それに、アンケートによる擬似MRIも、PETも、組み込めているじゃないですか。死んだ脳を、ここまで再生できるとなれば、また死の概念があいまいになりますね」

 データを読んだ田比地は、興奮して、一頻り捲くし立てると、熱いほうじ茶を啜った。アルビヤは、そんな田比地を忌々しげに見つめて、言った。

「田比地君。何ができたか、なんて、重要ではない。われわれは、基礎研究者でもなければ、コンピューター技師でもない。必要だったのは院長の脳なんだよ」

「え? しかし、このデータから、個人を特定することはできないでしょう。この脳がどういう傾向をもつのかは、はっきりと分かっていますが。生前の記録から、これらの特徴を備えた者を捜索するのは、これからの作業になるのでは?」

 アルビヤの磁器のような白い肌に、熱冷浴の効能による赤みがさしていた。それには、目の前にいる、性根の奥まで技術屋の感覚が染み付いた部下に対する苛立ちも、多少は影響していたかもしれない。だが、この技術屋気質のおかげで、実務上は信頼のおける手先となってくれているのではあった。アルビヤは茶屋の娘に月見団子をもう一皿追加して、この脳データの読み取り方のレクチャーを始めた。

「院長については、君が調べたデータをもとに人格分析が済んでいた。レジデント経歴もまあ普通だったな」

「はい。たしか、脳外科を専攻して、結局泌尿器科に勤めていますね」

「そのとおり。彼は脳を扱うことができなかったのだ。それは、彼自身が煩悶していた問題が、脳に関わるものというよりも、直接、ある器官に原因があったということを、知ったせいかもしれない」

「そうですね。院長はEDでした」

「ところが、つい先ごろから、彼のものは立派に機能している。彼は克服したのだ。それもカウンセラーの力ではなく、外科的な医術によってね。果たして、いつ回復したのだろうか。彼は独身者だったね。泌尿器科のさえない外科助手が、わずか8年で院長にまで上り詰めたのはなぜだったか」

「理事長が女性で、院長が男性的能力で理事長をたらしこんだ、という物語は成立しないのですね」

「時期が合わないんだ。それよりもその時期、つまり院長が院長になった16年前、ちょとした変化が、ンリドルホスピタルに起こった」

 田比地は、再びサングラスをかけた。薄茶色のレンズの中を、緑色の細かな点滅が無数にスクロールしていく。

「はい。ありました。泌尿器科部長の交代ですね」

「おそらく院長は、泌尿器科の元部長の力で院長になれた。なぜ、元部長自らが院長にならなかったのか。それはおそらく、院政のような形式の方が、自分の研究に没頭もできることと、そのための予算さえ確保できればよいと思っており、人事や経営方面には、無頓着な人物だったのだろうと推測できる」

「当時の泌尿器科部長は奇妙な研究をしてたようですが、その分野では、他の追随を許さず、いくつかのパテントを取得しているようですね」

「しかし、院長は権力がほしかったわけだ。それで、影の実力者のいる泌尿器科へ入った。そして、自分をしかるべきときに院長として推薦してくれるよう約束した。もちろん、無償でというわけにはいかなかった。だが、相手は権力に無頓着だし、かけだし医師だった院長には、研究費に差し出すだけの資材も無い。となれば、提供できたのは、何だったと思う?」

「身体、ですか?」

「利害はもともと一致していた。泌尿器科元部長は、品位も落ち着きもなくて、いつもカツカツと歯を打ち鳴らし、クソッ、クソッ、と言い続けていたが、研究に対しては一途だった。ンリドルにとっては、世界最高の泌尿器医がいるというのは大きなウリだったから、そんな乱暴者でも一目置かれていた。で、院長は自らの器官を元部長に提供する。元部長は院長を、望みのポストへ推薦してやる。そんな経緯があったわけだ」

 濃く熱いお茶をさらにお替りしながら、アルビヤと田比地は話しを続けた。

 これは「凪」の就憩規則に抵触しはしないだろうか? 否。2人は単に大病院の派閥争いを噂しているだけなのである。事実上、タイラカナル商事で進行中のプロジェクトは、すべて、社のプロジェクト進行管理システムにリアルタイムでインプットされていく。だからどんなに仕事と関係なさそうな話題であっても、瞬時に照会され、仕事の話だと認識された途端に、その社員は「凪」の利用を制限されるのである。

 しかし、今、アルビヤが携わっている仕事は、このプロジェクト進行管理システムにインプットされていない。室田が律儀に約束を守っているのである。システム上、2人は現在、地方のショッピングセンターの開店チラシの校正に奔走しているという手はずになっている。その2人が病院の話をするのは、業務とは無関係である。したがって、2人は平然と峠から「凪」を一望しながら会話を続けることができたし、実は諜報部員の「茶屋の娘」が追加の団子を運んできたときですら、会話を停止させる必要が無かったのである。

「身体の提供、とは二重の意味での提供だったのだ」

 田比地は、アルビヤの言葉に団子をつまらせた。

「それって、つまり、あれですか?」

「まあね。泌尿器科元部長にしてみれば、趣味と実益と快楽を兼ね備えた職場だったというわけだ」

「アルビヤさん。この擬似脳には、ゲイの兆候が出ていると、記載がありますよ」

「ああ。視床下部の核が非常に小さいという点だ。他にも特徴があるだろう」

「ええと、前頭前野背側部と、左大脳基底、それに帯状回全部の停滞。脳梁の一部破損… 問題だらけじゃないですか」

「そうだな。まったく均衡を欠いている。トレット症候群にきわめて近似した傾向がある。脳梁に関しては明らかに手術によるものだ。普通は完全に切断をして右脳と左脳を分割させるものだが、その術式では医師としての経歴を終わらせることになる。エイリアンハンドが生ずる可能性が高くなるからだ」

「右手のすることを左手が邪魔をするという、なんだか怪談みたいな話ですが」

「一般生活上、ひじょうに面倒だが、今のところ、大きな問題に発展した例はない。だが医療活動はできないだろう。だから、脳梁の一部を残して、不完全分離脳を作り出した。もともと、この脳の持ち主にはてんかんの気質があったらしい。そして、この背内側核を見たまえ。ニューロン束が集中していて、いまにもショートしそうになっているだろう。発作の時、この部位に刺激をあたえると、男性は興奮の無いままに果ててしまう。それは情けないものだろうよ。だがこの部分をいじるのは非常に難しい。だから発作の方を抑えるために、分離脳術式を採用したのだ。だが、幸か不幸か、この手術の際、だと私は考えているが、脳の中核に瑕が入っているね。つまり、この脳の持ち主は、四六時中勃起しつづけていたということになる」

「この脳を持つものは、冷静無比というよりも、感情的でありしかも激しやすく、常に下品なふるまいで周囲を不快にさせていながら、技術的は完璧だったと」

「そして、ゲイだ」

「では、この脳は院長のものではなくて…」

 田比地はサングラスを外した。だが、つい先ほどまで視野の中で回転していた脳の3D映像が紫色の残像となって、凝視したアルビヤの額のあたりでくるくると回った。

「泌尿器科医 千曲湛衛門 の脳だ。そして、脳の持ち主だということは、つまり?」

「俺が運んできたフリーズドライの身元だということですね」

 アルビヤはにっこりと笑った。その笑いは状況を緩和するどころではなく、田比地を崖っぷちへ追いやったのである。

「院長は、どこにいるのだろうね?」

「は、はい。もう一度、二点固定CTデータを洗ってみます」

 田比地は、口の周りのあんこを拭うのも忘れて「凪」から飛び出していった。アルビヤは、ほっとため息をついて茶屋の娘を呼んだ。娘は、よく訓練された微笑で、アルビヤにむかって腰をかがめた。が、その瞬間、アルビヤは彼女の唇に吸い付いた。

 娘は、あまりのことに袂をばたばたとさせたが、やがてぐったりとなって、アルビヤの膝へと倒れこんだ。彼女の顔のすぐ横には、なんと、ズボンを突き破るほどの勢いでいきり立つモノがあった。

「奇妙な感じだ。クソっ。何か始めやがったな。クソッ」

 アルビヤは、早くも腰を縦に振りながら、山の斜面を、森の中へと下っていった。もちろん、娘を肩にかついだままで。

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