第40話 喫茶「凪」

 タイラカナル商事が社員の憩いの場として設置したカフェテリアは、「やはらぎ塔」と呼ばれる別館の4階の、ほぼ一フロアを占めている。エレベータを降りると、かすかにせせらぎの音が聞こえ、人工的に合成されたフィトンチッドとマイナスイオンとが社員の心臓と肺とを清浄にしてくれる。短い廊下のつきあたり、白い格子扉がいつでも開かれており、その上部には郷愁をさそうブルーのネオン管で適度に崩された文字で「喫茶 凪」のサインが掲げられている。

 刻々と変化する仕事に引きずりまわされ、さらに義務を累積されていく社員達は、勤怠管理システムが解除されたこのオアシスでのひと時を、無上の喜びとしていた。

 業務を行う全ての部署は、机椅子の配置はおろか、ごみ箱や刑事物の一にいたるまで厳然と定められた能率グリッドシステムにより一ミリ足りとも動かすことを禁じられている。おのおのの業務に必要な動線が、最も効率よくとれるように、備品は床に固定されているのである。

 曰く、角は可能な限り直角に曲がること。などの就業規則とあいまって、作業効率は最高の水準に保たれていたが、働く人々はまるで、マッドマウスのように角を曲がることを余儀なくされた。それはスクエアの時空であった。角の支配する時空であった。

 そこからの休息を目的としたこの「凪」は、だから一切の角を排除した設計になっていた。いやそれだけではない。一目では、いかなる反復も見受けられず、ソファーやテーブル、観葉植物などは、来るたびに配置換えをされていた。

 常に、新鮮な安らぎを提供できなければ、リフレッシュ効果は望めない。というコンセプトを厳守するためである。つまり、このやわらかで、押し付けがましくなく、十分な空間の中の、どこに紛れても構わないという自由さも、リフレッシュ効率を最上に保つシステムの賜物なのであり、もろもろの配置もf/1揺らぎグリッドシステムにのっとったものなのである。

 だが、業務中の、あまりにも高圧的で非人間的なグリッドの支配を受け続けている社員達に、この「凪」のグリッドシステムを見抜くことは出来なかった。だからこそ、この「喫茶 凪」は社員の憩いの場となりうるのだった。

 しかし、ここも会社の一部であり休憩時間も業務の一部であるとすれば、当然、規則は存在する。それは就業規則に対して、就憩規則というものである。

 ああ。一体この憩い場を台無しにするどんな事細かな規則があるというのだろう。一挙手一投足が描く放物線のブレまでも監視し矯正しようとする勤怠管理システムに疲れた社員達は、さらにこの広い砂浜と、せせらぎ上の川床と、高原の白樺を備えた究極のオアシスの中にいながら、それを味わい尽くすことは出来ないのであろうか?

 就憩規則。

 憩う事を強制し、憩う為に必要なあらゆる細部を網羅した規則。しかし、上部はそんな規則の存在が矛盾するということを理解できるだけの知能を持っていたのである。F/1揺らぎグリッドを開発したブレインが、それを台無しにするようなしゃちほこばった規則を押し付けるなどといった不味い方法を許すはずはなかった。

 安心されよ。就憩規則とはただ一つだけなのである。

「仕事に関する一切の発言を禁止する」

 エレベーターから出てくる、肩をいからせ、ぎこちなく歩く社員の列は、ネオンサインを見上げることもせず真っ直ぐに格子戸を潜り抜けていく。ぞろぞろと一直線に等間隔で連なる列は、「凪」に入った途端に見えなくなる。そう。まるで氷柱が一瞬にして蒸発してしまうかのように、社員達は広いフロアの思い思いのスペースへと紛れていく。

 孤独を楽しむもの、思索に打ち込むもの、丸い卓球台で体を動かすもの、人生ゲームの続きをするもの、ヌードデッサンの続きをするために、前回のイーゼルの位置を示すバミリを探しているもの、フリークライミングを始める者。誰も、この部屋にどんな備品がどれだけ設置されているのかを知らない。リフレッシュに必要な器具などは、申請すれば必ず設置してもらえ、社員は全て無料で使用できる。無論、「喫茶」としての機能も充実しており、アルコールまで飲むことが出来る。(もっとも業務開始時に血中アルコール濃度が規定を超えていたら罰則が適用されるので、アルコール分解剤も準備されている。これはあまりうまいものではない)

 人見知りする者の為には、セルフサービスの用意もあるが、多くはウエイトレスに注文して、テーブルまで運んでもらうことを選ぶ。同じ部課でまとまるグループはむしろ少なかった。どうしても仕事の話になってしまいがちだからであろう。

 一日のうちで、この「凪」でしか顔を会わさない人々との連帯は、会社に三十いくつかあるクラブ、同好会、の集まりとはまた別のコミュニティーを作っていた。不思議なことに、ここでの関係を外に持ち出す人は少ない。

「暇なときの友達が本当の友達だ」

 という言葉がカウンターに掲げられているが、あまりにも達筆に崩されているので、読めるものはいなかった。

 タイラカナル商事厚生部やはらぎ塔「喫茶 凪」はだいたいこのような所である。 そこに今、アルビヤと田比地が入ってきた。二人はまずサウナへと向かった。

 蒸気に蒸されながら、アルビヤは先程感じた「自分がスポンジのようになってその細かな穴の一粒一粒から、もはや、かさかさに乾いていたはずの体内の最後の一滴まで、水分その他を吸い取られる快感」を反芻していた。

 蒸気には、ユーカリやコリアンダー、桜チップにカモミールといった成分が含まれており、さらに備長炭で精製された深層水をオリンピック発祥地からリレーされてきた火種で沸かしたものだった。薬効は、ストレスの分解、精神の弛緩、及び筋肉の弛緩、瞳孔の拡散、喉の渇き、動悸息切れ目眩不整脈幻覚幻聴…

「アルビヤさんおれ限界っす」

 と多比地がサウナを飛び出して、氷河を自然解凍させたプールへ飛び込んだ。極端に太くて色白の壮年の男女が、サウナとプールの中程にあるウッドデッキにしつらえられた温泉風の風呂で輪を作っている。多比地が、はさみ飛びの要領で、暖かな湯気の幕を通り抜ける瞬間、風呂でにこにことしていた老婆の五人までもが、一斉に、それも一瞬だけ、仰向けになったという情景は、そののち長く、語り継がれることになったが、そのことは、さしあたり今の問題には関係がない挿話である。

 アルビヤはゆっくりと立ち上がった。ふやけていたはずの指先は火傷をおったようにひび割れ、唇からも血が滲んでいる。眼球は糊付けされたように動かず、呼吸するたびに炎が行き来するかのような苦痛が襲ってくる。

 アルビヤは、自分の肌をじっと見つめながら、なごやかなウッドデッキの輪を迂回して、プールへ向かった。燃え乾いたアルビヤの脚が湯に触れると、湯は一瞬で蒸発し、嫌な匂いを放った。

「この感じは悪くない。全く、悪くない」

 アルビヤは、そう口走る自分の声が、まるで別人のもののようだと思った。

「さっきだ」

 アルビヤは、自分に触れる全ての水分を、嫌な匂いを発する高温の蒸気へとかえながら、ゆっくりとプールへ進んでいく。その毛のない脛をじっと見つめる老人達の中には、アルビヤに何がおこりつつあるのかを正確に予測出来る者も少なからずいたが、その認識は適正な言葉には結びつかず、平穏なカオスの中へと、片端から埋没していくばかりだった。


 その頃、室田六郎はバナナの木の下でトロピカルドリンクを持て余していた。

 トロピカルドリンクを最後に飲んだのは、大学生のころ「研究室の連中と合宿なんだ」と親に偽って恋人と二人きりで出掛けたイフガメの砂浜のパラソルの下以来のことだった。

 喫茶「凪」は、無論、毎日利用していた。しかし、今日ほど昔の事が思い返される事は無かった。何故自分がこんなに感傷的になっているのか、室田は考えまいとしながらも、答えを導き出そうという誘惑に打ち勝てずにいた。目の前で冷し飴を飲んでいる隊毛が、濃く深いサングラスの奥で、いかなる策謀を巡らせているのかを探り出すべき時だという事を承知していながら、今は、それを禁じられていた。今、決定的な事を言われたら、あの頃の彼女のように頷いてしまうかもしれないと思うと、室田は全くウブな彼女の唇の震えそのままに、不安になってくるのだった。

 喫茶 「凪」では仕事の話は厳禁である。それは隊毛にも伝えてあった。だから不意打ちの心配は無いはずだったが、尖った顎、尖った鼻、狭い前頭部、しなやかな指先の全てが、「お前だ。全てお前の責任になるのだ」と断罪しているかのように見えてくるのだ。

 隊毛は背筋をのばしたまま、この広大な「凪」に視線を巡らせるわけでもなく、ラッパ型のコップの縁に挟み込まれたパイナップルの背を、珍しい生き物でも見つけたかのように凝視している風だった。薄い唇の端が持ち上がっているのは、おそらく微笑んでいるのだろうと、室田はちらちらと隊毛を盗み見ながら考えていた。そして、当時、彼女が自分のことを、きっとこうやって見ていたのに違いないと思うと、なぜだか、復讐されているような気分になり、その復讐が、自分を救ってくれているようなカタルシスすら感じるのだった。

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