第36話 夏个静ノ

 夏个静ノは、白衣を輝かせて歩いていた。薄暗い廊下の蛍光灯の明かりだけで、ここまでの反射がおこる白衣とは、一体どんな素材で織られているのだろう。白は染み一つない神々しさで彼女をぼうと隈取り、影一つない白い虚無として、どんどん歩いていった。狭苦しい防火区画を越えると、本館通路の脇へ出る。植え込みのなかを光が動いていく。ああ、だがその眩しいのをこらえてよく見れば、静ノの美しい顔がいく筋もの引っかき傷に破れ、かすかに片方を引きずっているのが見て取れるだろう。だがその表情は慈愛に満ち、信仰上の確信とでもいうべき絶対の自信がうかがえるのである。そして今、彼女は口許に笑みさえ湛え、入社証を持たないままで、タイラカナル商事のメインエントランスへの、回転扉を通過した。

 ツマミのように二つ並んでいる受付ブースの受付嬢は、一瞬目が眩んだ。そして豊かな薔薇の香りを嗅いだという。時間は、2時28分。そう。夏个静ノが社内へ入ったのは、アルビヤと多々場がイルカチャンの中に遺体を発見し、また室田が隊毛の話に愕然としていた時の事であった。


 話は僅かばかり逆上る。以下にまだまだ続く予定の挿話は、全て午後3時以前に同時多発した事柄である。もちろん、この時間内に世の中では多くの事柄が同時多発していただろう。その中から作者は、タイラカナル商事、釜名見煙に関連する人々の動向だけを拾い集めたのである。彼らは互いにそれらの事態が進行している事を知らないはずだが、極秘に諜報している可能性は否定できない。隊毛には隊毛の、アルビヤにはアルビヤの、室田には室田の使い魔がいることでもあるし、世界はネットでリアルタイムに接続されている。

 今のところ、この客観的第三者の立場に立つ私に関する詮索はご勘弁いただくとして、しばし、この午後三時以前の群像劇をご鑑賞いただこう。そう、まずは引き続き、夏个静ノの時計を、午後三時近辺まで進めてみることとしよう。


 部外者の侵入に対するセキュリティーは万全だった筈なのに、静ノは平然と、帰社した営業部員達の間を縫って歩いていった。くたくたに疲れていながら、それを冗談のようにしか面前に出さないよう訓練されている営業部員達は、静ノの放つ光にあてられると、しばし会話を途切らせ、呆然と彼女を見送っていたが、光から離れると、途端に彼女の事など忘れてしまったかのように元の会話に戻るのだった。受付嬢の二人は、もとより彼女の存在に気づいていないかのように、戻ってきた営業部員の中に知らない顔がいないかを確認するのに忙しかった。

 エレベーターが開き、静ノは連絡通路の前に立っていた。彼女は辺りに誰もいないことを確認し、ちょっと首を傾げると、そのまま、傾きかけた日差しがオレンジに反映するガラス張りの連絡通路を、綱渡りのように渡っていった。


 厚生部前には、先程アルビヤに外に出ているように言われた看護婦が二人、今日の夕食のメニューは何か? とか、最近接した社員の中でアルビヤが一番魅力的だとか、そうではないとかという話に興じていた。

 静ノは立ち止まり、眉を潜めると、ゆっくりと薄手のゴム手袋を装着し始めた。看護婦達も話を中断して目の前に現れた第三の白衣の女に、緑色の瞳を向けた。

「あなた誰? 新しい看護婦が着任するなんて聞いてなかったけれど…」

 一人がそう言った。いや、言おうとしたのだったが、途中でその声は途切れた。途切れた事を、話している本人が気づいたかどうかは、微妙なところだ。静ノはそれほど素早く、一人の看護婦の眼球と鼓膜と舌とを抜き取っていたからだ。もう一方はその早業に声も出なかった。いや、静ノの行った技はそれだけではなった。立ち尽くすもう一人の看護婦は、直腸に冷たい嫌な感触を感じて、身動きが取れなかったのである。

「順番なのよ。あなたがこうなっていたかもしれないけど、どっちが良かったかは分からない。もう三時になるんですものね」

 静ノはそう言うと、静かに注射器のピストンを押した。一人の看護婦が、痛みもないままに、視界と音と言葉とを奪われて、床に座り込んでおろおろしているすぐ隣で、800CCものグリセリンその他を調合した液体を直腸に送り込まれた看護婦は悶絶していた。

 もうすぐ三時である。大勢の社員がここにやってくるだろう。その時、最大限の屈辱的失態を見咎められるかもしれないという羞恥に苛まれながらも、そこを動く事ができないという責め苦に、看護婦は冷たい汗を吹き出させてじっと俯いて歯を食いしばっているしかなかった。


 二人の看護婦を尻目に、静ノは受付カウンターのモニターに室内の様子を映し出した。二人の男の背中が忙しげにタンクを行き来している。一瞬、タンクの内部が映し出され、そこに静ノは知っている男の亡骸を見た。

「土師…」

 その時、看護婦の忍耐が途切れ、悪臭が通路に満ちた。鼻だけは正常だったもう一人の看護婦が、その臭いから逃れようと汚物の中を這っていた。そして全てを放出しきって解放された看護婦は、その中でへらへらと笑っている。

 夏个静ノは、モニターをさらに見つめた。そして次にアルビヤが写った時、彼女は満面に笑みを浮かべたのである。

「見つけた」と呟いて…


 さて、その頃、地下駐車場の外来者スペースに止まっていた一台のワゴンの扉がゆっくりと開いた。そして何かがペタリと床上に落下した。それは何とも形容しがたい物体だった。

 くったりとした極彩色の、水を切っていない生ゴミを詰め込んだ透明のゴミ袋、とでも譬えればいいだろうか。さらに驚いたことには、そのゴミ袋はぶるぶると震えながら通路を這っていくのである。床にはベトベトした汁が尾を引いている。

 ペチャリ、ペチャリと全体を捩じりながらその物は社内へ通ずる連絡通路へ向かっているようだった。

 とそこへ一台の車がタイヤを軋ませて侵入してきた。ヘッドライトに照らしだされたその生ゴミ袋は、いつのまにか人間の形を整えつつあった。そして、髪の毛らしきものの生えた、頭らしきものには、生卵に醤油を垂らしたような目玉らしきものさえ発生しつつあったのである。

 運転者の顔が驚愕に歪む。甲高いブレーキ音が地下駐車場に響く。が、時すでに遅し。人間らしき形を備え始めていた生ごみ袋は、車に突っ込まれて折れ曲がり、上半分はフロントガラス一杯に広がり、巻き込まれた下半分はびろりと伸びてリアバンパーの上にまくれ上がった。だが次の瞬間には、その得体の知れない袋はページを捲られたかのように消えていた。残されたのは、シートに深々と体を埋めて、首を振りつづける運転者だけであった。

 警備員が、続出するトラブルに悪態を付くことも忘れて、駆け寄ってきた。

「どうしましたか。黄間締さん。何かありましたか?」

 それは、出先から戻った黄間締君だったようである。あのアルビノの机にメモを刻み込んだ張本人がやっと帰社したのである。だが、何ということだろうか。もはや黄間締君の目に理性の輝きは宿っていなかったのであった。


 察しの良い読者なら、この袋が何者かはお分かりのことと思う。と同時に、先程その動向を追っていた夏个静ノの正体も明らかであろう。

 そう。そのワゴンは、隊毛が、ンリドルホスピタルからタイラカナル商事への移動に用いたもので、さらに二人の女性が同乗していた。一人は、虜となった夏个静ノ。そしてもう一人は平喇香鳴。そして、静ノはその白衣の下の肌が全く透き通っていた事を読者は覚えておらえるだろうか。そして香鳴は未だに、顔を無くしたままであった事を。

 もし、残された一人が、先程の生ゴミ袋に収束していたのだとしたら、香鳴の体があのように突然透き通る事は考えにくい。むしろ、顔を持たない香鳴が、何らかの方法で、静ノの顔を奪ったのだと考えるほうが妥当だろう。ならば、静ノからは、とうとう皮膚と視認できる組織が、全て失われたという事になる。

 つまり、あの生ゴミ袋は、社会とのインターフェースを失った静ノであり、静ノとして厚生部の看護婦の魂を奪ったのが、香鳴なのである。では、香鳴は何の目的で(恐らく隊毛の言いつけを破って)一人、社内に侵入したのであろうか。いや、そもそも静ノと香鳴との間で、何があったのであろうか。なぜ、香鳴は、顔と、スキルを同時に奪うことができたのであろうか。

 それを知るには、さらに時間を逆上らねばならない。

 それぞれの時計を三時付近まで進めようとした企ては、最初から頓挫しつつあるようだ。私は、いつ午後三時の鐘を聞く事が出来るだろうか。皆様にいつ、午後三時以降に起こる急展開を披露することが出来るだろうか。

 なんということだろう。まだ或日野君が奇妙な展示作品となってから、一日足らずしか経過していないのである……



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