第37話 黄間締俊都
夏个Xという奇妙な物体に遭遇した黄間締君は、そのあとも車の中で一人へらへら笑っていたのです。
全ての登場人物の時計を三時に合わせようという試みも、あっちへいったり、こっちへいったり、複雑なことこの上ないのですが、ついでに、黄間締君の動向に少し目をこらしてみましょう。
黄間締クンの異常は、すぐに室田に知らされる筈でした。直属の上司だったのですからね。救急車を呼ぶかどうかの判断は、室田が稟議を提出し、しかるべき決定機関が裁定を下すわけです。「人の命がかかった一刻を争う時に、そんな悠長な事をするのか!」という善意の声が聞こえてくるようです。
しかし、社内で起こった傷病は、労災か否かでいつももめるのです。救急車を呼ぶと、当然病院へ搬送され、そこで診断を受けます。その結果は記録されるのです。会社にとって都合のよくない事実も明るみに出る可能性があります。もちろん、こういった非人間的意思が介在するなどということは表沙汰にはされていません。でも、「社員の、仕事と関わりのない社外通信は、これを禁止する。」という文章は、ちゃんと社則にのっているのです。とはいっても正確には、勤務規定第8条私語第4項緊急非難的私語に関する規定付節34号緊急連絡の伝達経路などといった規定書のそこここにちりばめられているのでした。
社則は遵守しなければならない。それぞれの項について、○○を援用する。○○に準ずるただしその場合は○○を○○と読みかえるものとする。例外規定内の例外規定が適用されざる場合などと、めまぐるしくたらいまわしされていく間に、怪我人を見つけたら速やかに応急処置をほどこして検疫班に連絡をとるべきであるので、その義務を負う直属の上司に連絡がとれるまでは、一切、手をつけてはならないのだという事を念頭におきつつ、傷病者に付き従っている間に、本来の仕事をおろそかにすれば、勤務からの逸脱行為として勤怠管理に記録されるのだ、という事が分かってきます。
黄間締クンの場合、その異常を発見したのは駐車場の管理人でした。管理人は外注なので、まずは総務担当へ連絡を入れます。
「○○さんはいるだかね。社員さんが一人車の中でへらへら笑ってるだが」
「誰がへらへらしてるって? 駐車票があるだろ。黄間締? 知らないな。総務の人間じゃないんじゃないの? きまり? 待ってろよ係長探してくるからな」
「係長。じつは駐車場の田畑さんから、うちの社員が一人車の中でへらへら笑っているって連絡が入ったんですが」
「所属は?」
「分かりませんが、名前は黄間締とかいうらしいです」
「部外者じゃないのか?」
「いえ。駐車票は正規のものだったらしいです」
「そう田畑さんが言ったのか?」
「いえ。でもあの駐車場のゲートは正規の駐車票じゃないと開きませんから…」
「車市君。それでは警備資格認定試験に、君を推薦するわけにはいかないな。いいか。あのゲートは正規の駐車票でなくては開かない。よろしい。そして君は、本日、ゲートへの不正アクセスがあったという連絡を、おそらく受けていないのだろう。だからして、本日駐車場へ偽造した駐車票で入庫した車は一台も無いと、判断したわけだな」
「は、はい。そのとおりです」
「うん。で問題だが。君との問答で判明したのはだな、駐車票が本物だ。ということだけではないのかね!」
「あ。で、でも、しかしこの場合…」
「しかしもかかしも無い。警備資格担当者というのは、全てが青ランプならば、のほほんとこの世の春を楽しんでいればいいというものではない。黄色や赤になれば警備のプロでなくても異常だと分かる。君は警備担当のプロになろうと勉強しているのだろう? 青だからって本当に何の異常も無いのか。常に気をつけていなければならない。しかも、駐車場で、…何といったっけ、そいつ」
「あの、黄間締です」
「そう生真面目とかいう、ええとこれは男か女か?」
「男、だと思います」
「何だ、それも確認してないのか。全く… まあいい。明らかに、これは異常、とまではいかないが、奇妙な出来事だ。そうだな」
「はい」
「警備の仕事ってのは何だ? 異常が起きたら走りだすのか? 奇妙、程度のことならば、ぼんやりと椅子に座っていればいいのか? 異常が起きるまで、よく分かる警備資格担当試験という参考書に、赤いフィルムを載せて、読んでいればいいのかね、おい! 平常から異常へ移行するのだって一瞬なんだ。今回のは、それがゆっくりとしているだけなのだと、何故分からないのだ! 平常が奇妙になった。これを放っておいたらどうなると思う?」
「はい。異常になります」
「違う! 異常となる可能性が高い。のだ」
「申し訳ありませんでした。ただちに現場へ直行いたし、状況の把握に勤めたいと思います」
「あ、いいいい。お前はもういい。ここでのんびりと三時のお茶の準備でもしていたまえ」
「そ、そんな。私のミスですから」
「私のミス? 偉そうだな。君は自分がミスしたことにすら気付けなかったんだぞ。私が指摘してやっと分かったような事を、自分で気づいたかのように主張する。そういうのは大嫌いでね。で、…何てやつだって?」
「は。黄間締です」
「そうそう。男か女か分からず、社員か部外者か分からないやつが黄間締というふざけた名前の社員の駐車票を正規の方法で装着した車のなかで、へらへら笑っているっていうんだろ」
「そ、そのとおりです」
「あ、もしもし、水原部長お願いします。あ、もしもし。部長。お忙しいところ申し訳ございません。じつは今、部下から奇妙な報告を受けまして、まずお伝えしておこうかと。はい。いろいろと私どもからでは見えずらい現象でございまして、部長からならば見通しの立つ問題なのではないかと。は。恐縮でございます。駐車場11−4Bを管轄しております管理人から、私の部署へ連絡が入りましてその内容が、男か女か分からず、社員か部外者か分からないやつが黄間締というふざけた名前の社員の駐車票を正規の方法で装着した車のなかで、へらへら笑っているっていうというものでして。は。要領を得ない? ごもっともでございます。今のところ手掛かりはこの黄間締という駐車票だけでございまして。実害も今のところは。はい。は、営業二課? なるほど。さすがわが社随一の… は。ではそちらで。は。ではこちらは? はい田畑と申すものですが、免職に? はいでは早速。ええ。はい恐縮でございます。では失礼いたします」
チン。
「係長…」
「あ、君、来月から転勤だ」
というようなやりとりがあって、黄間締君の異常は営業部に伝わったのです。しかし、ここでさらなる情報の停滞がおこるのです。
営業部からの連絡先は営業部長補佐工辞基我陣だったのです。営業部の人事に関しては掲示板にて告知済だったのですが、どこの世界にもそうした案内を見ない人はいるものです。また電子的には変更されていても、心情的には、そうドライに割り切れないのが人と人との間柄ではないでしょうか。
水原部長というのはタイラカナル商事の古株の一人で、工辞基我陣と共に創設時入社の同期でした。工辞基は自分の去就について水原部長には話していなかったのでしょう。またそんな時間も無かったのかもしれません。水原部長にしてみれば、営業二課といえば同期の工辞基、という頭がありましたから、当然今回の件の照会も彼の名前で発送してしまうことになったのです。
その照会するのは、この会社のサーバーです。存在しない宛先の場合はすみやかに発信者へ文書を返送するのですが、今、このサーバを事実上統御しているのは、勤怠管理部の地媚さん(型端末)でした。地媚さん(型端末)は、通常作業として、各社員の勤怠管理評定プログラムを実行しながら、厚生部で奮闘するアルビヤからの割り込み処理に、残リソースを割いていました。社内の通信はすべて、ここを通過していましたが、それ以上の作業をするだけのキャパシティーはありませんでした。それで、昨日イフガメへ出向となった者宛ての照会文書は、そのままイフガメ支店へ電送されたのです。
ところで、その頃、工辞基我陣は飛行機でこちらへ戻りつつありました。飛行中の通信は禁じられていましたから、黄間締君の異常は、イフガメから工辞基我陣の携帯端末の留守番サービスヘ保存され、その遍歴を終了してしまったのです。
「あの、誰もこねえだが」
「何? 営業二課の連中は何をしてるんだ」
「通行帯の真ん中で止まってるもんで、かーなり渋滞してきとるだがね」
「分かった。緊急事態だな。こっちで指揮を取る。至急誰か向かわせる」
「係長… あの私が」
「おお。まだいたのか。アールグレイじゃない。オレンジペコだといったろう。まあいい。今、手が空いているのはお前だけだからな。今度はちゃんと処理してこい。
その1 車の撤去。
その2 中の奴の状態のチェック。厚生部の健康管理課へでも連れていけ。
その3 渋滞の緩和のための措置だ。
分かったな」
「は、はい。すぐに」
「俺はちょっと営業二課へ連絡しておく」
こうして、やっと人員が動くことになったのです。
今回は第一連絡経路の途絶という、いわば緊急事態なので、危機管理対策委員会の臨時閣議決定が行われ、行動伝達等に超社則的運用が許可されたのです。このような緊急伝達も、もちろんサーバを経由します。これは通常の信号ではないので、地媚さん(型端末)も敏感に反応し、すぐにアルビヤへ連絡をいれました。
厚生部のアルビヤの携帯端末に応答したのは多比地君でした。
「はい。今イルカチャンの中で応答出来ない。代理で私が連絡を受けるよう指示されている。何? 分かった。エマに先を越されるな。二課へ室田声紋で伝達。黄間締クンの身柄を営業二課に確保、隠蔽すること。以上」
通信を終えた田比地君の目前で、奇妙な物体がくるくると回っていました。それはどこからどうみても脳みそでした。
緑色のラインできっちりとくるまれた人間の脳が、様々な部分をぼうと光らせながらくるくると回っているのです。
「アルビヤさん。間に合いますか。時間が…」
田比地君はちらりと時計に目をやりました。まもなく三時になろうとしています。
おっと、この部署だけ少し先走りすぎたようです。この部屋の前にはあの平喇香鳴(現 夏个静ノ)が聞き耳を立てています。
応接室では、室田と隊毛が緊迫した話し合いが一段落ついたところです。
思いがけず、この社内での連絡経路などに寄り道して肝心の、黄間締クンの行く末を忘れていました。
次はそのあたりから、もう一度振り返ってみましょう。
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