第35話 三時二十分前

「損傷をスキャンしろ」

「脳だけです。しかし、心停止後時間が経ちすぎています。蘇生は不可能です」

「脳だけだな。上等だ」

 私は恐ろしいことを考えていた。だが効率の点からみて、そうするのが最も適正だと判断したのだ。この場では、私の決定が全てなのだ。いままでもずっとそうしてきたではないか、と私は思った。だが、この私とはいったい誰なのだろう? 毛の無い体、げっそりと痩せた顔。昨夜? そう昨夜までの私の記憶は、今のこの自信と、決断力に溢れた私とは、相容れないではないか。何処からだ? 何処から私は私になった…

「アルビヤさん。どうするんです。ここには二つの変死体がある。状況はかんばしくありません。しかも、もうすぐ三時です。企画七課の連中がタンク使用申請を出しています」

「間に合うか… 多比地君。ウルトラCをやるよ」


そのころ応接室では―

「あと二十分で三時ですね」

 室田はうわ言のように呟いた。無意識に目をやった腕時計。そのガラス面は黒水晶を薄くスライスした切子細工である。おかげで、文字盤はトンネル内でサングラスをかけた時にようにしか見えなかったが、揺らめく針の指し示す数字が、透明な闇に紛れてみえるこの時計で図る時間が、もっとも現実に近いような気がしていた。

「珍しい時計ですね。たしか、その12の代わりにはめ込んであるのは草水晶ですね」

「はは。博識でいらっしゃる。なに、昔語りの記念品ですよ。時間に支配される生活をしておりますと、実用一辺倒の時計はどうもね。こいつは、クゥォーツ時計です。だが、動力はぜんまいです。使用している素材が全て水晶なのに、肝心の基礎振動発生部には、水晶を使用していない。私も、こういったオブジェクツに心酔していた時期があったのです」

「それは、空想技師集団の制作物なのですよ。ご存じでしたか?」

「それは、まあ… 何でもイフガメの工房が閉鎖した時に出た品物だと聞いておりましたが、空想技師集団というのは、技師という文字通り、アトリエを営んでいらっしゃった事もあったのですね」

 なんと和やかな会話だろう。衝撃的だった隊毛の宣告の後、室田は、必死で善後策を考えていた。崇め奉る本尊が不在である組織を詐欺だと責めるのが常識である。だが、本尊の不在とはすなわち、社自体がその本尊であるとの証拠にもなる。釜名見煙が不在としても、その名前は立派に流通してきたのである。そして、これからも…

 室田は腹を決めた。何も変わらないのだと。そして、秘密を明かした隊毛の本心を読み取ろうとしていた。理由は一つしかなさそうに思えた。つまり「共犯関係を結べ」という意思である。室田個人がこの詐欺に手を染めることになるのであれば、室田はこの話を反故にしただろう。だが、この歴史あるタイラカナル商事の決裁が、今回のプロジェクト遂行を命じていた。前提はもはや崩れているかに見える。だが、これまでも釜名見煙本人が、契約に立ち会った事は無かった。依頼は、「釜名見煙」という屋号を持った空想技師集団という団体を、プロデュースせよ。という事に尽きるのだ。何も変わらなかった。釜名見煙と呼びならわされている現象があるかぎり、それに携わる事の何処に罪があるというのか。そもそも、実態など始めから問題ではなかったのだと、室田は結論した。

 隊毛は、そんな室田の理論を知ってか知らずか、涼しい顔で工房の説明を続けている。室田は相槌を打ち、時折感嘆を差し挟みながら、思考は別の所へと移っていった。

 アルビヤのあの言葉だ。『自分は全てを知っている』そして、クライアントとして尋ねてくるのは真のクライアントでは無い、とも言っていた。あの青二才にどれだけの事が判るというのだろう。昨夜の行方不明の間に何があったというのか? 自分が或日野からアルビヤに変わっている事にすら気づけないぼんくらが、この室田ですら知らないカードを掴んでいるなどということがあり得るだろうか?

 いや、アルビヤの不敵さが、今ではかえって不気味である。釜名見が存在するという証拠。そして存在しないという隊毛の言葉。客観的に見てどちらに信憑性があるだろう? 真のクライアント? では室田は知らない間に、やはり詐欺の片棒を担がされているというのだろうか? そして真のクライアントだとアルビヤが言い張るのは、実在する釜名見煙なのだろうか? 空想技師集団の利権、派閥争いに、自分はまんまと嵌められているとでもいうのだろうか?

 状況は複雑だった。物証では釜名見煙の存在は自明である。だがそれを認めることは、アルビヤの能力に屈伏する事である。だがアルビヤを完全に支配しているという室田の自負は、隊毛の言葉を疑う事を許さなかったのである。

 隊毛は、室田を目を細めて見ていた。まるで、相手のくつろいだ仮面を信じきって、警戒を解いているようにも見えるが、それは自分の思惑の通りに相手を動かしているときの満悦の表情なのであった。室田のように、派閥争いを汚く生き抜いてきた者には忠義などなく、損得で図れない倫理観などを持ち合わせていない。いよいよ、最後というときに、保身のためにパートナーを裏切る事は、そういう男の倫理観に何ら矛盾を起こさない。隊毛はそういう下賎な男を操る事に長けていた。

「こちらでもやはり三時休憩はとっていらっしゃるのでしょう?」

「も、もちろんですよ。政策に背くことはいたしません。休めといわれて休まないのは愚か者の仕業です」

「結構ですね。では、英国式にティーをしながら、現代美術について少しお話いたしましょうか」

「そうですね。なにしろ私はそっちの方面にはまるで疎いものですから。今回のようなお話がなければ一生、芸術とは縁の無い生活を送るところでした」

「ははは。一般の人には縁遠いと思われがちなのが、この世界ですからね。だが、たしか前任の、なんと言いましたか、工辞基さんでしたかね。あの人はなかなか造詣が深い方のようでしたね」

 工辞基我陣! 室田はこの名前に激しく動揺し、ここ数分間の穏やかな会話など結局ビジネス上の主導権を争う戦いの場に違いは無かったのだと、悔やんだ。自分が追い落としたはずの男の事を、なぜ隊毛が知っているのか。目の前で、ゆったりと座っているシャープな男は、一体どこまで知っているのだろう。室田は餌付けされたコヨーテのような顔で、そっと室田を盗み見た。室田は新しいタバコをくわえて、豪快に笑った。


 午後三時のお茶休憩の時間。奇しくも、室田と隊毛も、アルビヤと多比地も、この時間を区切りとして激しく活動している。そして、この時、隊毛が乗ってきたワゴンの中で、一人の女が昏倒し、もう一人の女が颯爽と車を降りた。

 ぴっちりとした白衣を身に纏った看護婦、夏个静ノである。すると、倒れているのは平喇香鳴であろうか。静ノは導かれるように真っ直ぐ、アルビヤ達の所へ向かっていた。

 そして、まだ誰も知らない事ではあったが、イフガメからの飛行機のタラップを、今まさに降り立ったのは誰あろう、工辞基我陣その人であった。

 午後三時に一体何がおこるのか!?


 営業二課で、資料の解析をしながら未伊那の挙動を見張っている多々場は、監視システムから顔を背けて、そっと欠伸をかみ殺していた。

 未伊那の仕事は感動的に進展していた。三巻の包帯は直方体の建物の模型らしいものにぐるぐると巻きつけられ、別の室内を模しているかのような模型には、今やボール紙細工の群集が、ごったがえしていたのである。

「もうすぐ休憩だけど、いつもどおり、コーヒー飲みにいってもいいのかな」

 多々場はそんな暢気な事を考えている。今、顔を上げて目を凝らせば、いつもよりも低空を飛んでいる数機のヘリコプターの機影を確認することが出来ただろう。

 何かが始まろうとしていた。それぞれの思惑で、始めようとしている事意外の、何かもっと大きな事が、起きようとしていたのである。

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