第34話 土師無明

 勤怠管理部を出て厚生部へ向かう途中で、私は二人と合流した。田比地君の手には合成牛革のトラベルバックがしっかりと握り締められている。これから行う作業について、私は彼らに説明することを躊躇していた。なぜならそれは神の技だからであった。

「あ、未伊名さん」

 連絡通路の向こうから、タイトミニをぴったりと腰に貼り付けた未伊名深夷耶がヒールを響かせて歩いてきていた。なるほど、彼女は連日の細かな作業のため憔悴し、壮絶な色気すら漂わせている。手にした小さな手提げ袋には、ボーリングの球でも入っているのかと思われるほど、体が傾いていた。田比地は彼女から目をそらしたが、多々場はにこにこしながら彼女に声をかける。

「終わったんですか仕事?」

「いえ。材料が足りなかったから、もらってきたのよ。あ、アルビノさん。ごくろうさま」

「たいへんだな」

「仕事ですから」

 では、と言って未伊名は、このひと時の会話が存在していなかったかのように歩いていった。

「田比地。あの手提げ袋をスキャンしろ」

「アルビヤさん。一体何が…」

「包帯です。三巻の未使用の包帯。それだけです」

 包帯? 私はその場に立ち止まった。傍らで多々場が憮然としている。私はその新米の頬を両手で挟み込み、じっと眼を見た。

「多々場君。君は課に戻って、未伊耶君があの包帯を何に使うのかを見ておいてくれ。それから、瑞名君に頼んでおいた物を一緒に分析するんだ。我々が戻るまで、課から出てはならん。室田が戻ったら、私と多比地は外出中だと伝えてくれ」

「そ、そんな事が必要ですか? それに居場所を偽るなんてこと、社内で出来るはずがないでしょう。だいたい、この社の勤怠管理システムは…」

「多々場君。君が私に、この会社のシステムをご教授してくれるというのかい? 君の今後の働きが、我々のプロジェクトに道をつけるのだよ。失敗を取り戻させてやるにはどうすればよいか、私は考えているんだけどね…」

 多々場君は青い顔でうなずくしかなかったでしょう。私を恐れているのかもしれません。私自身ですら、今の私を恐れつつあったのですから。

「いくぞ! 多比地君。イルカチャンを使う」

「了解」

 多比地は鞄をポンとたたいて後に続いた。二人を見送る多々場を、傾き始めた太陽が熱く射抜いた。


 そのころ応接室では―

 「登録商標とは? まだ分かりません。釜名見煙というのは一体何なのです?」

 室田は唖然としていた。理解は出来る。だがそんな事がありうるのだと信じることが出来なかったのである。隊毛は二本目のタバコを取り出した。まるで、室田の狼狽を観察しているかのような、冷たい目をしていた。

 室田という男を掌握するには、まず「会社」という鎧を脱がせなくてはならない。室田自身が判断できるだけの話をしていたのでは、会社という価値規範から切り離す事は不可能だ。室田にとって、「判断」とは業績に貢献するか否かを判断することに他ならない。そういう男を、隊毛は掃いて捨てる程見てきた。また、こうした価値規範が息づいている間は、こちらの思惑を遂行する際に、どんな齟齬を引き起こすか知れないのだということも、隊毛には分かっていた。卑賤な会社、ひいては個人の社内地位などを基準とするようなこの壮大な精度の悪い歯車を、このプロジェクトにかませるわけにはいかないのだ。

 隊毛はあえて、極秘情報を室田に提供することで、絶大なる信頼を信じ込ませつつ、今かかわっているプロジェクトが、室田個人の脳髄などでは、到底把握することが不可能なほど、入り組んでいて、巨大で、精密なものであると信じ込ませて、室田自身の価値規範をズラす作戦に出たのである。

 もしこれが詐欺なら、室田は会社に膨大な欠損を与えた張本人となり、破滅する。だからこそ室田は、隊毛の青図にのっとって、この詐欺に加担し続け、成功させなければならない義務を負うのである。自らの保全のための本能は、利益追求よりも強いものである。もはや、この計画から足を洗うことは出来ない。室田をここまで深みにはまらせることができたのは、「釜名見煙」のネームバリューであった。


「釜名見煙。本人の肖像もあります。作品と共にコメントも紹介される。年譜もある。それらはすべて、空想技師集団が製作したものです。この世の中に、普遍の個人など存在しない。人は時と共に変化していく。いいですか。体ですら三ヶ月周期で細胞の新陳代謝がおこなわれる。思想にいたっては、日常の些細な刺激のすべてが、脳細胞に何らかの変革を与えていく。昨日と同じ自分などいない。明日も自分が自分であるという保証は無い。個人の証明とはつまり年譜として記憶にとどめられるだけなのです」

「理屈でわあ、そうですがあ。現実にですですねえ、私は昨日もその前も私として生きているうっ。私が私でなくなるなるなどどどどということは無いのでええすよ。私を私と認める他者もいいいる。他者にとって私が記憶の私であったとしてもですですねええ。その記憶がその記憶が私を私と私の私を私の認識することが出来るということはあ、私私私という存在ががが不不変だということに他ならないいいい。そりゃ、変化はするでしょうがあ。私という範囲を逸脱しての変革などありえないのでーす」

「室田さん、冷静になりなさい。私はアイデンティティーの問題については相当に探求してきた者です。そして私を構成する最低限の部品というのはですね、遺伝子のみでしたよ。それだけが不変だ。それだけが変わらない。が、人は一体、他人を認識する上で、いちいち、遺伝子の解析をしているのですか? 印象。思い込み。常識的判断。違いますか? 個人の特定に頭を悩ましているのはどこも同じでしょう。指紋、声紋、網膜パターン、塩基配列。本人と本人と特定するための科学的方法が、その難しさ、あいまいさを既に、露呈させているのですよ。そして、釜名見煙はこの人間最大のブラックボックスの真っ只中にいる、のです」

「あ、ああ。そうでしたか。先生のテーゼのお話でしたか。それなら分かります。創作者が創作したもののテーゼに相応しくない存在の仕方をしているのはおかしいと、私も以前から考えていたのです。公の顔とプライベートとを使い分け、一方では革新的な宣言をしていながら、相変わらず家では、『やっぱり男の子がいいな』とか言っているのは、噴飯ものですからね」

「室田さん。あなたにはまだお分かりでない。釜名見がこの、他者の特定個人の認識パラドクスに取り組むには、釜名見煙個人が存在していてはならない。そうでなければ、貴方が今言ったような、公私の隔たりを招くことになるとは、思われませんか?」

「だだだっだが、そんんな取り組み事態が矛盾するのではないいいいですか。釜名見煙は認知されされされている。もう何十年も現代美術最後の巨匠として君臨しつづづづづっづけているのですよ。その一切が不在の芸術家から生じたああなどということ… まさか…」

 隊毛はにっこりと微笑んだ。室田の顔は青ざめていた。どうやら、釜名見不在の理論が飲み込めたのだ。しかし、では今から自分がやろうとしていることは一体何なのだろう。釜名見煙最新作の披露宴。そこでは煙のスピーチだって組まれているし、三日間にわたるワークショップも企画されている。内外の識者を集めて、哲学、医学、文学、絵画、彫刻、映画、社会学、などの講演会も催される。

「だ、大丈夫なのですか。今回のプロジェクトは…」

「もちろんです。ですからこうしてご相談に伺っているわけですから。是非成功させましょう。これで釜名見の評価は不動のものとなるでしょう。もちろん。その冠スポンサーとなるタイラカナル商事さんもね」


 そのころ厚生部受付では―

「ちょっと早いが休憩してくれていいよ。メンテナンスに入るからね」

 私は受付嬢にそう告げると、室内に入った。あら、アルビヤさん。やっぱり具合でもお悪いの? とさっき見送ってくれた看護婦が秋波を送ってくる。

「いや。さっき入ったときにね。かすかなノイズを感じたので。これが正式な書類。まあ、君達は『凪』で、今夜のパーティーに着ていく服の相談でもしているんだね」

「あら。パーティー? どこであるの?」

「秘密パーティーなんだ。社内じゃちょっと言えないな。回線空けといてくれれば連絡するよ」

「いいわ。待ってるから。IDはねえ…」

 田比地は、このやりとりを苦々しげに見ていた。女が絡むとろくなことは無いと考えているからだ。

 「すべてのスパイ作戦において、」と田比地は思う。「純粋無垢の第三者なんてものは無い。それが親しげな女ときたらまず敵対勢力の草だと思え」

 部屋にはアルビヤと田比地の二人きりとなった。アルビヤは地媚さん(型端末)に直接指示を出した。

「少し容量を食うと思うが。こっちのやることを独立回路でバックアップしてくれ。ROMを残さないように頼むよ」

 非合法の匂いだ。田比地は嬉々としてオペレーションを立ち上げた。

「一番向こうのを頼む。ナンバー05のはずだが」

 先ほど自分が入ったのは04のタンクだった。タンクは使われるたびに、隣室の洗浄ユニットへ回されるから、今は03がその位置にあるはずなのである。だがそんな些細な確認ですら時として重大な事実を明らかにすることがある。

「01ですねこいつは。05じゃありありません。ナンバーは01、洗浄済みです」

「記録を調べろ。私の後誰が入った?」

 私は幾分慌てていた。昼休みに誰かが使ったのかもしれない。それならばいい。だが、この施設の利用は勤務時間内にも可能なことになっている。誰が、休み時間を削ってまで、これを使うものか。勤務時間に使えるものを。

「記録ではアルビヤさんだけですね。しかし、朝、04がここにあったってことは今日誰かが01を使ったって事ですね」

「そのとおりだな。誰かが01に入り、洗浄ローテションする。と奥から04.03.02のタンクが並ぶことになる。そして、私は04入るように指示された」

「普通は02ですね。そうしないと、使ってない02.03を洗浄しなきゃならなくなるでしょう。さっきの看護婦、新入りですか?」

「いや。だが私が入った時には、あの看護婦もあの受付嬢もいなかった。別人だったんだ…」

 私は01を開けた。予感はあった。01内部にはすえた匂いが充満し、バッドは血に染まっていたのである。

「な、なんですか。こりゃ」

 横たわっていたのは男だった。私はその顔を見知っていた。頭からおびただしい出血があったことは、顔の半分を隠すほどに盛り上がって凝血した血の枕で知れた。鈍器で殴られた痕だろう。側頭部が陥没していて、血の池と化している。

 多比地は青くなって嘔吐しそうになった。

「吐くなら、流しへ行け。ここにこんなものがあったという痕跡を残してはならん」

 よろよろと歩いていく多比地に背をむけ、私は男をごろりと転がした。真っ赤な顔が微笑んでいた。

 現代能面師、土師無明。最後の作品のつもりだろうか? 凝血には彼のプロフィールがくっきりと刻印されていた。その懐に差し挟まれた手の先から何かがのぞいていた。私は多比地に気取られないように注意を払いながら、そっとそれを取り出した。それは、くたりとしなびた平喇香鳴の顔だったのである。あの画廊での一夜以来見失っていた顔が、今、私の手元にあった。

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