第32話 室田と隊毛

 ンリドルホスピタルの騒動は、室田営業統括部長兼営業課長代理の耳にも入っていた。上司というものは、全てを知らなければならないのだ。たとえ、口出し出来ないことであったとしても「知っていたが任せたのだ」といえる立場に自分を置いておかなければ、我慢がならないのである。

 もちろん、アルビヤのスパイ大作戦ばりの指示内容も、勤怠管理部メインフレームの無届け使用も、役員の中では室田一人が知っている事柄であった。室田が役員への報告義務を怠っているとの責めを負う羽目に陥るという事は、火を見るよりも明らかであった。

 だが、誰でも、自分の立場を危うくする事などしたくはない。室田が黙っているのには、それなりのメリットがあると判断しているからであった。

「跳ね返り者の部下を巧く使うのも、上司の手腕というわけだ」

 室田は廊下を颯爽と歩きながら、自分の右手を前に突き出し、まるで老眼鏡を忘れたまま、手鏡を覗き込んでいるかのような顔をした。

「アルビヤめ。この私と対等に取引できるなどと思い上がりおって。自分の優位はただ、今回の仕事という情報網の上でのみ通用するものに過ぎないのだという事も分からない青二才が。ふふふ。だが、奴をこの仕事に回した俺の手腕もなかなかのものだ。これまで目立った働きの無かったあいつが、これだけの仕事をしてくれている。俺の為にな」

 廊下に響く靴音が深く重々しいものに変わった。来客ゾーンへ入ったからだ。ここには、応接室で待つクライアントに対して、信頼とステイタスとを印象付けるのに効果的な靴音を響かせる、特別な床材が仕込まれている。重厚に響く足音が次第に近づくにつれて、クライアントの胸中には緊張が生じる。そしてその緊張はストレスとなり、扉が開くのを待ちわびるようになっていく。廊下は十分に長い。そしてドアノブが回転する時に、一瞬、顔を挙げてそちらを凝視するクライアントの瞳を、金色の光が正確に射抜くように、設計されている。扉が音もなく開いたとき、明るい廊下を後光として纏った担当者が、天孫降臨のごとく登場するという演出だ。

「お待たせしました。タイラカナル商事総合図案株式会社へようこそ」

 室田は芳醇なアルトの音域でそう告げると、隙のない足さばきでソファーにかける。

「あいかわらず、時間に正確ですね」

 そう言ったクライアントの顔は、陶器のように白く、これまでの仕掛けにも全く動じる素振りを見せずに端正なままだ。瞳はサングラスに隠れている。目の前の、肝の座ったクライアントには、こんな、こけおどしなど通用しない。

「恐縮です。隊毛頭象様。さっそくですが、進捗状況をお知らせします」


 おお。室田営業統括部長兼営業課長代理が面会するクライアントとは、やはりあの隊毛頭象だったのだ。アルビヤ達の追跡をよそに、室田は今、今回の事件の鍵を握る隊毛本人と、社内で会合を始めようとしていたのである。


「いよいよ今夜ですが、順調に進展していますか?」

「は、はい。細かい調整は必要ですけれども、大筋では計画の通りに進んでおりますな」

 隊毛の眉に不快の皺が刻まれる。室田は慌てて付け加える。

「しかし、影響は全くありません。許容誤差の範囲です。ただ、人を動かすというのは、チェスのようにはまいりませんからね」

「そんな事は判っていますよ。問題なのは、貴方独りが、いいですか。貴方独りだけがこの仕事の全貌を理解していてくれさえすれば良いということです。あなたには、それだけの掌握力があると思っていたからこそ、私はこのタイラカナル商事に依頼したわけですからね。つまり、貴方個人に依頼をしているということを、よくご理解いただきたい」

「そ、それはもう。今夜の披露宴は、万全です。どうかご安心を…」

 隊毛は背広の内ポケットからシガレットケースを取り出した。室田はすかさず卓上ライターを差し出す。シュボという音とともに、青白い炎が二人の間に現れた。


「私のほうでも、いくつかの問題がありました」

 と隊毛が顔色一つかえずに話し始めた。

「そもそも、こちらへの依頼の当初から、我々の行動は逐一筒抜けになっていたといわざるを得ない。あの、或日野君ねえ。貴方、彼にはいったいどこまで、今回の内容を話していらっしゃるのですか? 彼の行動にはどうも解せないところがあるのだが」

「めめめ滅相もない。彼にはただ「空想技師集団」の告知用パンフレットを作ってもらいたいと、それだけのことしか命令してはいないのですよ。あなたのところに行ってから、釜名見煙氏にえらく執着しはじめたようですが。なに、知恵熱みたいなものでしょう」

 隊毛は、白く長い指を唇の前で組み合わせて、思案するようにうつむくと、しばらく何か考えていたが、再び、まるで独り言のように続けた。

「いづれにせよ、今回の計画は彼なくてしてはありえない。暴走は貴方の手腕で抑えてもらわねばならないだろうが、肝心なのは、何も知らせない事です。貴方にはお分かりのはずだ。今回のプログラムは、細部にいたるまで釜名見煙の作品に隷属しているのだということを。釜名見が作品発表にこれほどのブランクを設けたのは、それが非常に緻密でなくてはならず、かつ全ての流動性を包括したものであったためです。作品の全貌を想定しうるのは、釜名見煙本人のみでなくてはならず、それに携われるのは、この全貌をあらかじめ知らない不特定多数の市民でなければならない。いいですか。今回の作品は、これまでの釜名見作品のなかのどれよりもラジカルであり、また見えにくいものなのです。以前の釜名見ならば、作品は作品としての体裁を保っていた。製作者とそれを感受する者とは明確に区別されていた。無論、路上劇や訪問劇のような一般参加型の芸術作品は、今までにもあった。だが、それらはみな、企画者と、巻き込まれる者。という区別がなされていたのです。釜名見煙は今回の作品を「作品」として認知しうる者があるかどうかについて、疑問視している。それは作品という個体なり、空間なりが規定されていないからです。無論、ナンバー18と呼ばれる彫刻は存在する。だが、それは真の作品を発動させるための起爆剤にすぎないのです」

「はあ。しかし、するとアルビノに与えられた役割というものと、それが彼に及ぼす影響についても、先生は予測しておられたとういことになるのではないでしょうか。ならば、彼の行動を見張るような真似をせずとも、彼の好奇心のままに動かしてやることこそ、先生の意思に沿うのではないかとも思うのですが」

 隊毛は組み合わせていた手を広げて顔を覆った。そして肩を大きく上げ下げし、小さく舌打ちをした。

「正直言って、私は釜名見煙という作家の才能を、それほど高くは評価しておりません」

「と、おっしゃいますと? いや、しかしそれは…」

 この言葉には室田は二の句を告げなかった。釜名見煙の右腕として、これまで数々の製作に携わってきた隊毛頭象の、衝撃的な告白だったからだ。いや、それは営業用の動揺だったのかもしれない。そもそも室田は、「釜名見」のネームバリューのみを欲していただけなのだから。そしてそのことは、隊毛にも分かっていた。隊毛はネクタイ緩め、サングラスをちょっと持ち上げると、唇の端を持ち上げて見せた。

「素晴らしいリアクションですね。貴方の才能には感服しますよ。だが、私と貴方の間で、そんな儀礼的感情は必要ありません。お互いにビジネスの話をしているのですから」

「は、はあ。恐縮です」

「昨夜、プレパーティーが行われたのはご存知ですか?」

「い、いえ。初耳です。だが、契約では序幕から展示終了までの一切を我々にお任せくださるとのことではなかったですか?」

「ですから、我々はそのパーティーを潰したのですよ。贋作だ、ということにしてね」

 室田は、腰のあたりがもぞもぞし始めていた。長年の経験から、話題がどうもきな臭い方向に進みつつあることを予感したからだった。

 かつて、この感覚のあった後には必ずトラブルが、それも会社全体を巻き込みかねない大きなトラブルが引き越されてきたのだ。だが、そうした苦境を、持ち前の洞察力と腹芸で乗り越えるたびに、室田はポストを上げてきたのであった。今回も尻込みするわけにはいかないと、室田はソファーに座りなおしたのだった。

 いよいよ、今回の計画、いや計略の青図が語られ時がきたのだ。背広のポケットに忍ばせたボタンをそっと押して、室田は隊毛を見つめた。今後一切の会話は室田のデスクにある端末に記録され、後ほどこまやかな感情の一切が分析されるのである。


「動き始めたようです」

 目の前のソファーで仮眠をとっていたアルビヤにむかって、地媚さん(型端末)が呼びかけた。アルビヤは眠ってなどいなかったかのようにソファーから静かに下り、カウンターに向かった。そして、地媚さん(型端末)からヘッドセットを受け取り、そこから聞こえてくる会話に全神経を集中した。

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