第17話 僕は嫌だ!

 ぶーーーーーーん。とモーターの唸る音が聞こえてきます。壁の中に非常に太い配水管があるらしく、時折、水流とともに、何か固形物が巻き込まれて落ちて行く音も、くぐもって聞こえます。

 私は起き上がろうとしました。そして、身体が全く動かないことに、気付きました。

 足先から頭のてっぺんまで、順番に力を入れてみたり、各関節を曲げたり伸ばしたりしてみようと努力してみたりしながら、私は、自分がどんな姿で緊縛されているのかを想像せずにはいられませんでした。

 両方の腕は、胸の上で交差して、右手は左の、左手は右の肩甲骨の窪みに突っ込まれています。首は、胸にひっつかんばかりに、後頭部から押さえつけられていて、無理やり首を伸ばそうとすると、なぜか股間がひきつれました。何か、太いバンドのようなものが、股間と頭とに巻きつけられているようです。そのバンドは交差した腕の下を通っていて、身体とは完全に密着しているのです。足は、正座をしている時のように、膝を曲げられていて、尻がどっかりと固定していました。足の指先はかすかに動くのですが、その動きは、何と、肩甲骨に突っ込まれている手の指先に連動しているのです。要所要所にまきついた細紐と、急所を隠すかのようなバンドの他に、私はなにも身につけてはいないようでした。

 「また全裸だ。もうたくさんだ」

 正直、そう思いました。正座をして、目一杯膝を開いた上体で、ベッドにあお向けになっている姿勢がどれほど破廉恥なことか。あの父ですら、緊縛されるときは麻袋みたいな服を着て、その服に付属している皮のベルトが使われていたというのに、私の扱われ方はそれ以下だと思うと、腹が立ってきました。

 と、室内にぼんやりと明かりが点りました。今時、よくあったな。と思われるような裸電球が、琺瑯引きのランプシェードを白く浮かびあがらせています。ぱちぱちという音とたてて、蛾が電球にぶつかり、鱗粉を撒き散らし始めました。

 「なんだ。こんなところでも、虫は光にぶつかって身を焦がして尽きていくんだな」

 そう思うと、なんだかこの火蛾が、私の唯一の味方のような気もしてきます。 全てが異常だと思いました。でも、この蛾は、昔、花火大会をしていた小学校のナイター照明設備の下にいたときと、同じことをしているのです。こうやって、光に向かってくる虫のいる世界は、とにかく、私の住んでいた世界と地続きなのです。だから、きっと戻ることも出来るはずだ。そう思いました。

 「負けるもんか」

 と、私は呟きました。いえ、呟こうとしたのです。が、何と言うことでしょう。私は声すらも緊縛されていたのです。声が出ないのです。あの時と同じだと、恐怖に身がすくみました。いや、実際には身をすくめるゆとりはなかったので、精神的に身がすくんだのですが、とにかく、姿勢は違いこそすれ、この状況はまさに昨夜の繰り返しではないでしょうか。

 私はまた、衆目にさらされ慰みものになるのでしょうか。忌まわしいこのゴム毬。そう、この口の中一杯に膨らんでいるいやに弾力のいい毬のせいで、私は唾液を飲むことすらできなかったのです。力いっぱい顎を閉じれば、上下の歯を合わせることができました。でも、毬はつねに舌と上あごとの間でパンパンに膨らんでいるのです。この首の角度なので、唾液は下の前歯の裏側あたりにどんどん溜まっていきます。いずれ、私は涎を垂らさねば呼吸もできなくなるでしょう。

 それに、排泄もしないといけなくなるでしょう。食事は、どうなるのでしょう。

 そういえば、私はいつから、物を食べていないのでしょう。全く空腹を感じないので忘れていました。昨日の昼、会社の中庭で食べた弁当が、最後の食事だったはずです。

 何かがおかしい。そんな気がします。では排泄は… と考えて、私は気絶する前のことを思い出してしまいました。

 あの看護婦は私の排泄物を間近で、大量に、頭から、被ってしまったのではないでしょうか。彼女もまた犠牲者なのです。私は激しい羞恥と後悔とに苛まれ、彼女に謝罪せずにはいられない気持ちでいっぱいになりました。

 しかし、彼女は私に会ってくれるでしょうか?

 そう思っていると、私の股間が卒然と屹立しはじめたのです。バンド、私の頭と股間とに回されたバンドは、その部分だけくりぬかれているのだということに、私は気づきました。重ね重ね破廉恥な着衣です。私は自分のおかれている状況と、その状況にもかかわらず機能しているものとの落差に、あきれていました。しかし、すぐにこの穴の意味はもっと別の恐ろしい目的のためのものなのかもしれないと、思いついたのです。

 昨夜も、私はこの部分を蹂躙されました。そしてまたこのバンドは、まさに弄ぶのに都合のよい形で私を固定しているのです。何故、こんなときに、と、私は自分を罵倒しました。目をあけると、いままさに最高点に達しようかというほどに屹立し終えているものが、目と鼻のさきに見えました。

 でも、それは見なれているものとは少し感じが違いました。どこが違うのかとまじまじと見つめていると、それは少しだけ萎えたようでした。まず、私は自分の身体の粘膜部分まで、白くなっていたのだということを、発見しました。きっと、唇も白いのだろうと思います。でも、変化は色だけでなくむしろ全体的な形にあるように見えました。

 その変化は、つまり、「皮」でした。いつのまにか、私は割礼されていたのです。痛みもなにもないまま。私は既に存分に弄ばれた後だったのだと思いました。

「今度はなんだ。畜生。隊毛は何をやっているんだ」

 隊毛頭象は一体どうしたのでしょうか。

 そうです。彼はこの病院に飛び込んで来たはずです。私の知らないところで、隊毛氏とあのタクシー運転手とは、壮絶な戦いを繰り広げているのかもしれない。もしかしたら、私を拉致したのは、あの運転手の仲間なのではないだろうか。

 私はようやく自分が考えるべき本筋に戻れたと思いました。私達は、この病院に釜名見煙を尋ねてきたのでした。

「では彼は一体どこにいるのだろう。あっ! 今はまだその続きなのだろうか?」

 今回も私は気絶していたのです。また衣服を無くしているのです。そして記憶もないのです。車が炎上してから、一体どれだけの時間が過ぎたのか、それを確かめるすべは何も無いのです。腹は減っていない。髭の感触は、何も無い。爪の伸び具合は、はっきり確認できない。もしも、全てが終わってしまった後で、忘れ去られているのだとしたら、私はこのまま朽ちていくのを待っているだけなのでしょうか。

「僕は嫌だ!」

 私は発作的にもがきました。ベッドと私とは固定されていなかったのです。少なくとも、このベッドからは逃れられる。私はそう思いました。この姿勢のままで、ベッドを離れることは、屈辱以外の何ものでもないでしょう。それでも、ここでこのまま粉になって消えて行く蛾を見ながら朽ちていくのはたまりません。

 ベッドが激しく軋みます。また、壁の中をなにかが転がり落ちて行く音が聞こえました。もう少し。私は身体を横向きにすることに成功し、もう半回転でベッドから落ちるというところまで漕ぎつけたのです。ベッドと床との高さは、私に一瞬のためらいを起こさせました。はがれかけた床タイルからは剥き出しのコンクリートが覗いています。

「落ちたら痛いだろうな」

 この一瞬のためらいの時でした。部屋の扉が開いたのです。私は息をつめました。

「もうすぐみなさまおみえです」

 看護婦らしい女性の声がしました。それから固い靴音が近づいてくる音も聞こえました。

「あら、寝相が悪いんですね。驚異的なくらいに」

 彼女はいつのまにかベッドサイドに立っていました。そして私を抱えるようにしてあお向けの姿勢に治しました。彼女の目の前に屹立したものが露わになりました。彼女は私に覆い被さるようにシーツをなおしています。彼女の顔は、とくに何の感情ももたず、私の聳えるもののすぐ上を低空で旋回しました

「また、陵辱の時がはじまるのか…」

 私は観念して、次に私を弄ぶ連中をみてやりました。白衣の一群です。そして、かいがいしく私のベッドを治している看護婦は、さきほどの彼女ではありませんか!

 彼女は、私をみても何の屈託も無い様子で、いやむしろ嬉々としているように見えます。

「彼女はおこっていないのだろうか。もう許してくれたのだろうか」

「ここに煙がいるんだな」

「どうだかね。この目で見ないと信じられないわ」

 聞き覚えのある声が、白衣の背後から聞こえて、私は反射的にそちらへ目をやりました。薄闇の中で発光する白衣のむこうにみえる顔は、紛れも無い隊毛頭象と、そしてもう一人の女性でした。見たことの無い顔です。

「あら。体力が落ちているようですわ。先生」

 看護婦がそう言っています。さきほどまであれほど元気に屹立していたものが、その女の姿を見た瞬間に、一気に萎えたのです。

「どっかで会ったことがあるな。あの女の人は。しかし…」

 白衣がベッドを取り囲み、隊毛氏とその女も私の足先に立ちました。私は目を閉じてじっとしているしかありませんでした。

「では、確認からはじめましょうか」

 年かさらしい白衣がそう、宣言したのと同時に私の口からは涎が流れ始めました。

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