第16話 受付前

 ンリドルホスピタルには、近代的な改修が施されていました。車から転げ落ちるように降りて、目の前にある大きな銅の看板を見たときに、私は思い出したのです。そう、私がまだ母の手を頼っていた頃、ここへはよく通っていたのでした。ここには、父が入院していたのです。そして、恐ろしいことには、父は未だに入院しているはずなのです。私はかっちりとした輪郭線の内部の整然とした暗がりの中で、消毒薬の微粒子に晒されながら、はっきりとその事を思いだしていました。そうです。私はこの病院の事を、決して触れてはならない記憶として封印していたのでした。原因は父にあります。

 消毒室から外来受付に至る、青緑色の通路に響くスリッパを引きずる音に怯えながら、私は「受け付け」と書かれてある窓を叩きました。

 その窓は、カーテンに閉ざされています。そのカーテンには見覚えがありました。襞と襞とに巧みに隠された部分にあるかぎ裂きは、父がこしらえたものでした。何故これだけの近代設備を整えた病院が、このカーテン一枚を取りかえる手間を惜しんだのでしょう。返事は返ってきません。私は、角のタバコ屋で道を尋ねるような顔を作ってから、再びガラスを叩こうとしました。

「本日分の予約は終了しました。申し訳ございませんが…」

 背後から突然声が響いたので、私はぎょっとして振り向きました。あろうことか、驚愕の表情を曝してしまったのです。そこには新人らしい看護婦が息を呑んで立ち尽くしていました。私の表情と、肌の色を見て、すっかり動揺し、ステンレスのトレイを、カテーテルやグリセリンや太い注射器やうねうねとしたゴムチューブなどの機材ごと、床にばら撒いていました。間延びした金属音が、全く暢気な非常ベルのように待合室に反響しました。

「し、失礼しました。脅かすつもりは無かったのです。ただ…」

 私は、紳士的にそう詫びて、彼女の方へ歩み寄ろうとしました。すると、看護婦の身体がみるみる強張っていったのです。可憐な唇が、次第にオーの字型に広がっていくのも分かりました。このままあと半歩でも私が近づいたら、彼女は金切り声を上げて、パニックを引き起こすことでしょう。私にはそういう事が分かるのです。母親の顔色。教師の顔色。班長の顔色。自治会長の顔色。私をとりまく全ての人の顔色を読むことが、私の処世術でした。だから私は、慣性の法則も、運動に関するあらゆる方程式も度外視して、その半歩を踏みとどまったのでした。

 と、その時、私の心に引っかかっていたある疑念が、突如として大きく立ちはだかってきたのです。それは、隊毛頭象氏の顔色でした。

 初対面の時から、例のタクシー運転者の話の後、そして先程の車の中での獣じみた表情。そこには一筋で無い邪悪さが宿っていました。今、看護婦を見つめている私の脳裏には、隊毛氏に対する懸念が渦巻き始めていたのです。私がタクシー運転手の話をした時に見せた動揺は、ビジネスの仮面が外れた刹那を見破られないためだったのでしょう。隊毛氏があの運転手に抱いていたのは、義憤ではなく、同業者に対する敵対心に他ならず、私のための配慮など、どこにもなかったのでした。

 読顔術2段の資格を持ち、常にその能力に磨きをかけていたはずの私が、そのことをずっと無視してきたのは、隊毛氏だけが私の境遇を解きほぐし得ると思っていたからでしたが、これからは、彼を利用してやろうという冷酷さを忘れてはいけないのです。いついかなる時に、隊毛氏が牙をむくか、知れたものではないのです。それがなぜ、私に対してなのかなんてことは、一切、分からないのですけれど……

「あの、皮膚科は5階の第八練ですけれども…」

 おずおずと看護婦が言いました。「皮膚科か」と私はため息をつきました。初対面の看護婦が「皮膚科的治療」を求めているのだと思い込むほどに、私は異常な肌をしているのです。

 それでも、私は彼女が冷静さを取り戻してくれたことに感謝し、早速要件を切り出そうと、彼女の方へ、先程躊躇した半歩を踏み出そうとしました。

「あの、そうではなくてですねえああああああああ。」

 足が! 私の足が鋼のように硬直して言う事を聞かないのです。これは陰謀ではない。そう思いながら私は大きく弧を描いて傍らのソファーに倒れ込んでいました。

 先程、半歩を躊躇したとき、私の身体はまだ受け付けの窓の方を剥いていたのです。そして、振り向いたのは首だけでした。看護婦がパニック寸前になって、私は踏み出そうとしていた足を半ば宙に浮かせたままで踏みとどまっていたのでした。それから沈思黙考していたのです。つまり、足が攣ったのです。首の筋を違えたのです。腰をひねったのです。みんな筋と筋肉の問題なのです。陰謀じゃない。けれども、事態は深刻なのです。

 しかし、この突発事故が、新人看護婦のプロ意識を燃立たせたようでした。

 彼女は私のかたわらに駆け寄ってきて、「だいじょうぶですか。だいじょうぶですか」と頬をぺちぺちと叩き、汗でぐっしょりになっている額に手を当て、首筋に触れ、触れた指先をじっと見つめてから、おびただしい汗に気付いてちょっとその匂いを嗅ぐと私をソファーに仰向けに横たえて、膝をそろえて深く屈曲させました。

「膝を抱えるようにしてください」

 その声は毅然としていて、私は自動的に膝を抱えていたのです。「職業」というのが「人間」をつくるんだなあ。などと場違いな感慨を覚えながら、そういえば、そろそろ出勤の時間だな、という思いが頭の片隅を掠めたときには、それがどれほど重要なことだったのかには、思い至りませんでした。というよりも、思い至る前に私の思考は、強制的に断ち切られていたのです。下腹部を昨夜の怪しい快感が突き抜けていったからです。

「ああああああああああはああああああああははははははああああああああはあああああああああああああははあああ」

 私はソファーに横たわって膝を抱えていたわけですが、その私の腰の向こうで、彼女のナースキャップがゆっくりと上下しているのが見えます。いつのまにか、ズボンと下着が膝の辺りにまでずり下げられています。カチャカチャという金属音がして、何か冷たい液体が剥き出しの尻にこぼれてきたような気がしました。

「はい。痛くないですからねえ」

 これまでと違う何か固くて冷たい物が直腸深くに連結し、そこから何かが溢れるように浸潤してきました。高級な食材になったような気がしました。腹が張ってきます。痛んできました。私は思わず看護婦の方へ向き直ろうとしました。が、ナースキャップは先程よりもさらに低い位置へと潜航し、じっと動かずにあります。何の音もしません。いえ、かすかにごろごろという音が私の体内で弾けているだけです。ナースキャップは、この音にじっと耳を傾けているような角度でありました。

「看護婦さん。もう無理ですよ。だいたい何をして… あ、もうちょっと駄目ですよ。一杯だって……」

 私は身悶えしました。看護婦は折り曲げた私の尻と膝との角度が作り出した空間に腰を据えると、しっかりと私の腰を抱え込みました。看護婦の手は両方とも私の腰に回っています。にもかかわらず、注入は続いているのです。

「他に誰かいるんですか。一体何を…」

 これも陰謀なのだと、私は思いました。いつのまにか注入は終了していました。もう、口から出てしまいそうな程です。私というのは、たったこれだけのものだったんだなと、悲しくなりました。腹痛は頂点に達しようとしています。先程までとは違う汗を全身にかいていました。彼女は相変わらず私の腰を押さえつつ、汗をふいてくれています。このまま噴出したら彼女の白衣を汚すことになります。わたしはこうなった原因を忘れて、彼女を守りたいと思いました。だいたい、ここは病院の外来の待合室のソファーの上なのです。こんなところで排出していいはずがないのですから。

「先生。吸収シートはこのフォーメーションでよろしいでしょうか?」

「いいはずがない!」

 そう叫んだのは私でした。遠くで看護婦の絶叫が聞こえました。薄れゆく意識の中では、取り返しのつかないことをしてしまったという後悔までもが、どこか自分から遠く、むしろ、最後まで頭に残っていたのは、「会社に電話しないと、無断欠勤になってしまう」という、へんに現実的な焦りだったのです。

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