第15話 ンリドルホスピタル
いきなり、左こめかみに激しい衝撃を受けた後、私は気を失っていたのだという事に気付きました。その寸前、扉の閉まる音と誰かの叫び声とが同時に響いて、一瞬で消えました。タイヤの軋む音がそれに続いたようでしたが、定かではありません。私は寝起きが悪いのです。
ねじれたり、倒れ込んで来たりする視界を何とか立てなおして外を見ると、どうやら車は、噴水の前に横付けになっているようでした。フロントガラス一杯に射し込んでくる陽光に私は初夏を感じ、窓を全開にしました。丁度時間となったのか、大小四基の噴水が盛大に水を吹き上げ、その飛沫が車の中に降り注いで、私の白い肌の上で弾けます。
首筋がひりひりしました。バックミラーを傾けて見てみると、ワイシャツの襟から露出した部分から顎にかけて真っ赤になっていて、そこが酷いかみそり負けのように痛むのです。同様の痛みは、両方の手首にもありました。カフスから露出した部分から親指の付け根のあたりまでが、塗装業者がマスキングをしたかのように、真っ直ぐな境界で紅白に分かれているのです。痛むのは、赤い方でした。私はどのくらいの間気を失っていて、その間に何があったのでしょうか?
私が頼りにしていた隊毛氏の姿はどこにもありません。引き千切れそうな痛みをこらえながら、私は首をぐるぐると回して、辺りの様子を確認してみました。しかし、フロントガラスにはびっしりと水滴が貼り付いていて、外を見通すことが出来ませんでした。ガラスの斜面上の飛沫は、落下し、上昇し、横切り、放物線を描いたりしながら、次第に、ただ一つの巨大な水滴に成長してやろうという本能に満ちているように見えました。
運転席側から見えるのは、古風なレンガ積みの車寄せでした。なるほど。と私は思いました。ここは「ンリドルホスピタル」なのです。
レンがは巨大な溶鉱炉のように熱を帯びて輝いていました。この時期に、この陽気は異常です。いくら、「汗ばむ陽気」とはいっても、この国においては、物の喩え以上のものではなかったはずなのです。少なくとも、去年までは……
私の毛の無い体からは、止め処なく汗が滴り落ちていました。シートに染み出すほどの汗をかきながら、上着を脱ぐのにかかった労力といったら、ずり下げる途中で丸まった海水パンツを、立ったままで脱ぐのに匹敵していたのです。。
「さて、行くべきか、行かざるべきか。それが問題だ」
両方の手に顔を埋めて、私は思案しました。隊毛氏とはぐれる事だけは避けなければなりません。ともかく、この車は隊毛氏の持ちものであり、足なのです。よしんば、私を捨てることがあったとしても、この足を捨てるわけにはいなかいはずです。
しかし、車中はサウナ状態でした。このままここで帰りを待って、異常気象だというニュースの、最初の犠牲者として全国に紹介されるのは願い下げです。
と、突然、頭の天辺を、錐で付きとおされたかのような痛みが走りました。私は自分の身体のどこにこんなばね仕掛けがあったのかと思うほどの激しさで、背中を後ろにそらせ、飛びあがった拍子に、坊主の頭を天井へ擦りつけてしまい、点のような痛みの周辺に、焼け付くような痛みを付け加えてしまったのでした。
「熱い、痛い、痛い、熱い、いたあつあついたいたたああつううああ」
まあ、言葉では表現できません。
恐る恐る自分の頭を撫でてみても、何も突き刺さってはいないし、傷口もなさそうでした。ただ、じりじりとした痛みだけが、ほんの一点に燻っているのです。
なんだったのだろう? おずおずと辺りを見渡しながら、私は昨日から私の周囲に張り巡らされているらしい陰謀を、始めて実感し、慄きました。
「ここで、ここで、待っていようっと」
私はそう決めました。ここは私が住んでいた町でした。でも今はもう、知らない町になってしまったのです。いいえ、変わったのは私の方なのかもしれません。いや、「しれません」どころではなく、確かに私は変貌してしまったのでした。
今、一人のエトランゼとして、未知の悪意に満ちたこの町をうろつくのは危険極まりないではありませんか。
私はシートを倒して、真夏の砂丘を空想しながら、隊毛氏の帰りを待つことにしたのです。
誰かが病院から出て行き、誰かが入っていきました。サイレンのドップラー効果を味わいもしました。噴水は沈黙しています。きっと時報代わりに水を吹き上げるシステムなのでしょう。
背後でクラクションが鳴ったのは、今は真夏で、ここは海水浴場なんだという空想に慣れてきた矢先でした。
車寄せの破風の前に停車したままのこの車が邪魔なのです。しかし、キーは隊毛氏が持っていっており、私は免許を持っていませんでした。クラクションは鳴り止みません。ハンドル脇のボードを外し、配線をつないでエンジンをかける実習を受けたことはありますが、今はそんなことはしたくありませんでした。そんなわけで、私は無視しているしかありません。海水浴場前の道が大渋滞するのはよくあることです。わたしは折角上手く行きかけていた空想の世界に戻ろうとしました。
波音。焼きとうもろこし。人々の歓声。鉄板焼きそば。波しぶき。イカ焼き。溺れる。溺れる。溺れる。
何時の間にか、私は眠ってしまって、海辺の夢をみていたようでした。塩辛い水を嫌というほど飲み、呼吸はできず、もう駄目だと思って目が覚めたのでしたが、それと同時に、私はあのクラクションの意味を理解しました。
あれは、この車が邪魔だったわけではなく、私を起こそうとしていたのでした。ガラスには手の跡が無数についています。きっとみんな、ドンドン叩いていたのでしょうが、もはや車に近づくことすら危険な状況でした。
なぜ、私は砂浜で氷イチゴを食べられなかったのかも理解しました。溺れてしまったのかも、分かりました。つまり、車の中には煙がもうもうと立ち込めていて、私は涙を流し、むせていたのです。車の天井がじりじりと焦げていきました。水滴とは全く逆に、焦げは、一途に広がることしか考えていないようでした。黄色味を帯びた太い煙が私を燻しているのです。私はとうとうこの荒野に降り立たねばならなくなりました。
何故炎上したのかは分かりません。そして、窓… 窓はいつ閉められたのでしょうか? これも陰謀なのでしょうか? 理由は分かりませんが、狙われているのは、私だったのです。
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