第14話 空想技術体系

 釜名見煙氏が入院しているという、≪ンリドルホスピタル≫へ向かう車中で、私は「純粋空想」について、質問しました。

 運転する隊毛氏は、時折ルームミラーやバックミラーに鋭い視線を投げかけながらも、上機嫌で答えてくれました。まだ、朝の10時前。今日という日は、まだ始まったばかりです。

 私は昨夜の事件を、今日1日で解決してやろうという、一大決心をしていました。それほど良い天気だったのです。昨夜の殺人も、真っ白な剃毛体にされてしまった事も、「いやあ、ちょっとした手違いなんですよ。あれ、パーティーの余興でしてね」といった具合に落着してしまうのではないかという、楽観的観測だって、バルーンのように浮かんできました。だから、私は昨夜の理不尽な出来事から、もうすっかり解放されたかのように、目下の興味の中心、「空想技術」の虜になっていたのでした。


 「空想に『純粋』という形容を施したということは、当然、『不純』空想というべきものが想定されていたわけですね?」

「その通りです。先生はこの世界で『純粋空想』という状況がいかに迫害されてきたかを、当初から訴えていらっしゃいました。それは、『空想技術体系』第7巻追記—純粋空想と黒猫—にまとめられています」

「黒猫ですか」

「黒猫です」

 車は駅前ロータリーの渋滞に捕まっていました。隊毛氏は車間距離のほとんどない状態で、頻繁に発信と停止を繰り返していましたが、口調には全く変化がありませんでした。隊毛氏のどこかのんびりとした物腰は、この車内を休日の朝の爽快さと、気だるさとで充たしています。

「空想というのは、先ほども申し上げたように、それ自体が非常に掴みにくいものです。したがって、様々な述語によって規定され、撤廃され、また確定され、廃止されるといった馬鹿げたことが繰り返されています。

 空想、想像、妄想、虚妄、空言、嘘、夢だとか、幻想だとか、まあ、様々な言葉が用いられ、そのいずれもが少しずつ重なりながら、各々別々の意味を表すという複雑な状況となってしまいました。

 しかし、これらは皆、同一の現象なのです。では、何故このような区別がなされねばならなかったのでしょうか。それは、この現象が引き起こす二次的な要素、またはその現象がみられる場所、時間などによる、その場凌ぎの名づけの結果だったのです」

 ロータリーをゆっくりと抜けて、スクランブル交差点を左折し、マロニエの並木道へと入りました。周囲には相変わらず車が連なっています。

 空は青く、雲はほどよい早さで流れ、木々は風にそよいできらめきを発し、まるで銀鱗が跳ねているかのようです。ほどなく、二つ目のロータリーの噴水を、今度は停車することなく左回りにまわって、進路を左にとりました。そこからは、合歓の並木が続いています。

「純粋空想という概念には二通りの意味があって、その一つが、これら入り乱れた用語を総称して「純粋空想」の名称で統一すべきだということです。本当はもっと詳細な定義付けがなされているのですが、今はこの程度でご勘弁いただきたい。そして、もう一つには、純粋な空想。つまり、空想自体が目的であり、手段ではありえないと宣言することでした」

「純粋の、空想ですか?」

「先生の言説は晦渋を極めます。全集中、第3巻の巻頭から第6巻7章37節付節789段10号の「空という事」までが、その白眉とされています」

「一体、どのような論なのでしょう。」

「私も恥ずかしながら、通読したことは無いのです。しかし、出版社が無断で、初回プレス限定150部にだけ添付した『釜名見煙「空想技術体系 全20巻」便覧』によると、先生は人間の欲望、いや、煩悩というべきでしょうか、それと密接に関わりながら空想の純粋さについて論じているらしいのです。

 宗教を空想大系と見做しつつ、各宗派がどの程度『純粋』空想に迫っていたのかを研究した後、精神異常と空想、夢と空想、先端科学と空想、天才と空想など、あらゆる二項対比を行い、そのいづれもが純粋空想を堕落に導いたのだという事を論証しているらしいのです」

「つまりこの世界の全てが、空想を堕落させている?」

「先生は、純粋空想そのものを説明するのではなく、反対概念を糾弾することで純粋空想を浮き彫りにしようとしたのです。純粋空想は言語による表現をも否定していますからね。

 そして、自分の作品によって純粋空想を物質化するという作業に打ち込み、十数年前に作品17を発表して以来、ンリドルホスビタルの個室に引きこもってしまいました。第三病棟の306号室。脳神経外科の病棟です」

「どこか、お悪くなさったのですか?」

「分かりません。決して面会に来るな。ここをマスコミに嗅ぎつかれてもいけない。とのお達しです。先日、面会の許可をいただいたばかりで、私も先生のご尊顔を拝するのは数十年ぶりなのです」

 その時、私達を凄まじい勢いで抜き去っていった車がありました。隊毛氏は途端に歯噛みをして、ギアを一速下げ、アクセルを踏み込みました。私は助手席のシートに押し付けられたまま、口を閉じることも出来ませんでした。かすかに開いた瞼から、ツートンの市松模様のタクシーが小さくなっていくのが見えました。

「つけられていた。迂闊だった」

「隊毛氏は、ステアリングにしがみつき、歯茎を剥き出してタクシーを追い始めました。あれは、今朝私を乗せたタクシーとよく似ていました。

 一体、この二人はどういう関係にあるのでしょうか。私はただ、涎を垂らしながら、重力に耐えることしかできなかったのです。

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