第7話 私の姿
ようやく家に戻り時計を見ると、深夜の三時を回っていました。
画廊を出て滅茶苦茶に走っていると見覚えのあるガス灯の通りにぶつかり、それは会社へ通うバスの経路だったのです。深夜両脇の商店はみなシャッターを下ろしており、私が歩くとガタガタを揺れました。それが大変に大きな音に聞こえました。自分自身の靴音もそうでした。大きすぎる革靴を履いて歩きつづけるのはとても疲れましたし、なによりもこの靴音が自分の物には聞こえないのです。
両腕が酷く重く感じられ、つい上着のポケットに手を入れたとき、指先にふれたコインの感触ほど、私を有頂天にさせたものはありませんでした。自動販売機が不機嫌に唸っているのも、無愛想に缶を突き落とす冷たい音も、この時ばかりは気になりませんでした。
体中に水分が行き渡り、漸く一息ついてみると、深夜の洒落た散歩にでも出ているような気さえしました。先ほど前の事はみな、この散歩の途中の止めど無い空想であったかような、そんな気分でした。
本当にそうならどんなに良かったでしょう。
わたしは明らかに体型に合わない服を身につけていたのですし、下腹部にはあの冷たい感触がはっきりと残っているのです。なによりも、首筋の痛みは誤魔化しようの無い事実として、私に、思い出す事を強要していました。
明日、いえ、もうあと数時間後には、私は再びあの画廊に足を運ばねばならなかったのです。クライアントとの打ち合わせをすっぽかしたら、そのあと一生社会に復帰する機会を失ってしまうような気がするのです。これも幼い頃の教育の賜物でしょうか。
ぼんやりと服を脱ぎ、シャワーを浴びようとしたそのとき、私の目の前には白くて丸い物が立ちはだかっていました。「亡霊だ」と思いました。
その姿が、鏡に映る自分だと気づいたのは、そのすぐ後でした。
私は「疑念」や「不審」などという抽象的な意識では、立ち向かいようもない羽目に陥っていたのだという事を自覚したのです。
私の姿。
それは今朝会社に出る間際に髭をあたったときとは、全く違っていました。透き通るような白い肌。髪も眉も睫毛すらないのっぺりとした顔。いえ顔だけではないのです。全身が白く、そして一本の体毛もないのでした。
私はあわてて風呂場を飛び出して、もう一度時計を確認しました。
三時四十七分。
朝八時三十二分のバスに乗って出社しなければならない私は、髪と肌の色について何ら有効な対策を講じることも出来ません。カツラは間に合わない。化粧道具も無い。いつもの服を着て、帽子をかぶるくらいの事が出きるだけでした。
風呂場に戻った私は、「覚悟を決めよう」そう幾度も繰り返しながら、体を洗いました。洗って落ちる色ではないというのは、一目でわかっていたのです。肌の上から塗りたくった色ではないのです。まるで、皮膚を漂白したかような生地の色なのです。それでも私は中断することが出来なくなっていました。白い肌がぶつぶつになり、やがて血が滲み始めて、皮のめくれるような痛みを感じた時、それまで自分が必死で腕を擦っていたのだということに気づいたくらいでした。
昨日はどうしたの?
きっとそう尋ねられるでしょう。すっかり変わってしまった私の容姿には触れずに、黄間締君や、未伊那さんはきっと、そう尋ねるに決まっている。
何と答えればいいのでしょう?
お茶を飲んだ後、私は卒倒したのです。私は医務室へ運ばれたはずです。そしてもしかしたら病院へ搬送されたのかもしれません。もしかしたら、意識を取り戻さないままの私は、入院扱いになっているのかもしれません。それなら、会社を休めます。 しかし、どこの病院でしょう? もしかしたら、私は脱走患者なのでしょうか? 警察に届けられているのかもしれません。すっかり白くなった私は、結局昨夜の出来事を話さないわけにはいかなくなるでしょう。同僚にか、医者にか、それとも警察にか…
誰が信じてくれるものですか!
やはり、警察へ…。いえ、駄目です。私は殺人の現場に立ち会っているのでした。こんな白い顔で、荒唐無稽な事実を話したら、私はいっぺんに犯人扱いでしょう。
「会社でお茶を飲んで気づいたら、私は釜名見煙氏の最新作品ナンバー18として、キオラ画廊に展示されていて、観客にさんざん慰み者にされた挙句、平喇香鳴という女性に贋作だと決め付けられ、画廊主の骸骨煎藻は、彼女に刺されました。その後で何かが風のように走り出して、彼女の顔を奪って行ったのです。本当です」
こんな話しか出来ないのですから…
濡れた体を乾かして、自分の服を着てもなんだかしっくりとしません。この体のせいです。ベッドに入ると、布団の匂いが気になってしかたがありません。自分の匂いではないのです。
何故こんな目にあうのでしょう。私はこの格好の事はもはやどうしようもないことだと諦めようと思いました。眠れない私は、凹みの深さも角度も全然会わない枕に頭痛すら感じながら、せめて何が起こったのかを探る方法を考えようとしました。
私があの場所にいくまでの経緯を知っていた筈の骸骨煎藻は死んでしまいました。そして、その犯人だった平喇香鳴も顔を無くして悶絶しました。私の無実を、いえむしろ被害者だったのだという証人は、あのつむじ風しかいないのです。しかし、手がかりが何もないではありませんか。私は自分の無実を証明できないのです。そして、殺人現場にいて、その理由を説明できない者が疑われるのは火を見るより明らかです。「空想技師集団主宰釜名見煙新作披露パーティー席上で起きた殺人事件」
会社方面からも私の名前が捜査線上に浮かび上がるのは必至です。
しかし! 私は、はたと思い当たりました。
私を作品ナンバー18とが同一であると知っていた人間が果たしているでしょうか。一介の広告代理店勤務の私が、現代美術の牽引車たる釜名見煙氏の最新作だと気づいた人など、いるはずがない。だったら、あの夜、私があそこにいたと証言する人間なんて誰もいないことになる。その場にいなかった人間が、そこで起こった事件に関係があるなどと考える刑事もいないでしょう。私はようやく一息つくことができました。枕のへこみがほどよくなって、あと数時間の眠りを享受できそうだと思ったのです。
その夢見心地の下、ふと自分の後ろ姿を見て、私がようやくたどり着いた一安心の場所も、全くの張りぼてだったと気づくまでは……
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