第6話 白い月

 誰かが囁く声がします。

「冗談じゃない。これは釜名見煙先生の最新作に間違い有りません。言いがかりも甚だしいですな。いかに、あの平喇香鳴先生とはいえ、今回ばかりは見こみ違いですよ」

 これは、骸骨煎藻の声です。私は、自分の体が、戒めを解かれて横たえられていることに気づきました。私が一生懸命物事の道理を繋ぎ合わせようと考えている間に、現実の方は次の展開へと移っていたのです。しかし、いつの間に…

 語り手であるこの私が、既に二度も、不本意な切断をこうむってしまって、皆様にはますます訳がわからない話となっていることでしょう。

 しかし、分からないものは仕方が無いのです。

 とにかく、辺りは薄暗く静かでした。ということは、私の目も得体の知れない光の闇(とでもいうより他ない状態)から解放されているのでしょう。声のする方へそろそろと首を動かしてみましょう。さほど広くは無い一室は、不定形の影に圧迫されていて足の踏み場も無いほどです。高窓から微かに差し込むのは、月光でしょうか。一体あれからどれほどの時間が過ぎ去ったのでしょう。そして、ここは何処なのでしょうか。


「ふふん。5分と43秒。あの作品がショートするまでにそれだけの時間がかかったわ。その計測の間も、私はあの受像機と後部接点とを綿密に調査したのよ、骸骨さん。私を誰だと思って? 美術界の重鎮、骸骨煎藻さんなら、これがどういう意味かお分かりになるわよね」

「うーん。たしかにあんたは、釜名見煙の評論で現在の地位を獲得したお方だ。しかし、それ以上にその美貌が役に立ったという噂もある」

「どちらも正解ね。その私が言っているの。これは釜名見ではないと。あの『空想技師集団』主宰、釜名見煙ではあり得ないと、そう断じているの。こんな物を発表したことが報じられたら、釜名見の評価は地に落ちるわ。もちろん、そう仕向けるのは私の本意ではないけれどね」

「一体、何を考えているんだ。お嬢さん」

 私が膝と額をくっつけるようにして横たえられている場所から二人までの距離は、約3m。私は注意深く体を点検し、首が相当痛む事と、下腹部に疼痛を感じる事、あとは全身虚弱肉体疲労といった症状がある他は、まあ、合格点をつけました。

 それにしても、やはり『釜名見煙』があの『煙』だったのです。私は現代美術には興味が無かったから、知らなかったのでしょう。課長補佐は私の無学さにあきれ果てていたのかもしれないなと、少し反省しました。

 「空想技師集団」というのは、なるほど現代芸術家のアトリエには妥当なのかもしれません。それに、今回の仕事はこの画廊に出品される彼の新作発表の一環として企画されていたのでしょう。それが私自身だということを除けば、なるほど納得できる話ではあります。

「私はね、先ごろ釜名見の贋作が多く出回っている事に我慢ならない人間の一人なの。作品が贋作であることが、ではなく、それを真作だと語る人間達が、許せないのよ。それに金を払う人間達も下等だと思うの。あなたもね。骸骨さん」

 彼女、平喇香鳴という、おそらくは美術評論家がそう言ったとき、その手の内に、月明かりを反射する鏡のようなものが握られているのが見えました。骸骨煎藻は気づいていない様子で、そこいらへんの包み、ああ、先ほど「不定形の影のようだ」と言ったのは、どうも梱包した美術品のようです、を、一つ一つ検分しています。

「でも、今度のことについてはあなたも確信犯のようね。善意の第三者を気取るのはご勝手ですけど、贋作には厳しく対処する、というのがこの世界の掟だということまで、知らなかったで通すことはできなくてよ」

 彼女の背中がゆらぎました。歪んだ鏡を見ているように、背骨が大きく湾曲して、それからぐねぐねと彼女の腕が伸びていったのです。いえ、そう見えただけかもしれません。でもその直後、骸骨煎藻は、どうと崩れ落ちていました。私の4m先に、小山のような影がぴくりともせず横たわっているのです。

 私は咄嗟に、次は自分の身が危ないということを悟りました。

 私のことを贋作だと、平喇香鳴は断じたのです。そして彼女は贋作を絶対に、許さないのですから。

 私は覚悟を決めました。そして今の私の筋肉に最大可能な跳躍距離を2m半として、彼女が近寄るのを待ちうけたのです。

 その時でした。私の背後から、無数の不定形の影の間を縫うようにして、何かが発射されたのです。真っ黒なその背中は、どうやら人間らしき形をしていて、右手にははんだごてを、左手にはラジオペンチを携えていました。

 その疾風怒濤の人間弾丸は、私と彼女との間を通過しました。そう、ただ通り過ぎて行ったのです。

 突然のことで、彼女はただ呆然とその姿を見送っている様子です。私はそっと立ちあがり、彼女に声をかけました。二人に共通の、未知の第三者を導入する事で、私と彼女との間に協定関係が成立しそうだと思ったからです。

「もしもし。驚かないで下さい。私は自分がなぜここにいるのか分からないのです。釜名見煙という名前も今朝、ああもしかしたらもっと前かもしれないのですが、始めて聞いたのです。私は人間です。贋作じゃありません。どうか、気を静めて話を聞かせてくださいませんか」

 しかし、答えはありませんでした。彼女は放心しているのだと思いました。私はそっと彼女の前に回りこみ、もう一度声をかけようとしました。彼女の目をみて…

 

 上方からの月光が、彼女の短い前髪を憂いのような影に代えて額に落ちていました。その下にあるのは、空虚な眼窟が二つだけだでした。縦長の鼻腔、ずらりとそろった健康な歯とピンク色(月明かりの下で、それは紫色にみえたのですが、)の歯茎がむき出しで、尖った顎の先端からつーっと一筋、血が滴っているのでした。

 平喇香鳴には、顔という物が無かったのです。

 あの時放たれた人間弾丸、あれが、瞬きする間も無い程あっけなく、彼女の顔を剥いでいった。そう考えるより他ありません。私は二つの死体の間で茫然自失しました。恐ろしい寒気を感じ、立っていられないほど震え始めました。足の裏や背中から忍び寄る冷気は尋常ではありません。ここは美術倉庫でしょう。空調は人間用には設定されてはいないのです。そして、私は素っ裸でした。

 それほど寒いのに、私は汗をかいていました。覚えず私は額に手を当てました。そして自分が丸坊主になっていることを知らされたのです。いろいろ撫で回してみると、体中が剃毛されていて、しかも全身は真っ白に塗られているのが分かりました。 これは一体、誰なのでしょう? 到底、私とは思えませんでした。しかも先刻あれほど弄ばれた私の性器は、怒涛のごとく天をつき、臍に擦り寄っているのです。真っ白な柱が、私を見上げているのです。

 私はここから逃げ出さなくてはなりません。しかし、この姿ではすぐにつかまってしまうでしょう。自分の服を探している時間はありません。私は迷わず骸骨煎藻の服を剥ぎ取り、帽子を奪い、この忌まわしい肌を隠そうと思いました。しかし、ズボンがはけないのです。あの天を睨んだ奴が邪魔をするのです。もう、手段を選ぶという気は失せていました。

 最も迅速に処理する方法を私は一つしか知りません。だから平喇香鳴が握り締めていたナイフを取り上げ、彼女のズボンの一部を割いて、処理すべき方法で処理をするのに、何の躊躇もありませんでした。

 冷たく、適度に狭いその部分は、まさにあつらえ向きだったのです。こうして骸骨の衣装をつけた私は白い月の下へと踊りだし、後も見ないで逃げ出したのでした。

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