第3話 お茶
まず、室内をぐるりと見渡しました。庶務の未伊那君。課長補佐秘書の瑞名君。経理の地媚君。が在室していました。申告板を見ると、営業の黄間締君と、技術主任の田比地さんが代理店との打ち合わせで直帰予定。課長補佐は左遷。課長は長期入院中。営業主任は、新入りの多々場君を連れて得意先回りをしているらしく、これも直帰予定。あとアシスタントの数名はバカンス中という事になっている。
考えてみれば、今日ほどこの部屋が静かなのは珍しく、若い女性三人の中に私が一人だけ所作無気に座っているだけというのは、悪くない待遇なのでした。
しかし、今はこの書置き(そう。メモなんて簡単なものではありませんでした。)についての調査をしなくてはなりません。事をあまりおおごとにしたくない為、私はまず未伊那君に近寄りました。
「未伊那君。今日の昼休み、黄間締君帰ってきてたんだね」
未伊那君は短い髪を跳ね上げて私を睨みました。彼女はボール紙で小さな人形を沢山作っている最中だったのです。それは神経を集中させなくては出来ない細やかな仕事でした。ボール紙はクライアントからの支給品なので、一体失敗しただけでもクレームが来るのです。
私は適当にお茶を濁してその場を離れました。自分の仕事は他人の仕事を妨害するだけの後ろ盾が無かったのですし、彼女の鋏が特に念入りに砥がれていたのに、慄いたためでもあります。
次は経理の地媚君です。彼女はたいてい室内にいて休み時間にもほとんど自分の椅子に腰掛けています。
「地媚君」
彼女は銀縁の眼鏡をかけていて、長い髪をお下げにして、腕当てをしています。顔は小さな卵型で細いあごに薄い唇が品良く納まっています。肌は透き通らんばかりの白さの上にきめが細かく、吸い付くように艶やかです。
私は一度だけ、眼鏡をはずした彼女の素顔を見た事があります。脆く危うい彼女の姿に、私は思わず手を差し伸べたくなったことを告白しなくてはならないでしょう。 電卓を無慈悲に叩く彼女からは想像もできないか弱さを垣間見たときから、私は彼女を愛していました。しかし、今はそんな事は関係のない事です。
「地媚君」
私はもう一度、そっと囁きましたが、彼女の耳たぶがみるみる紅潮してゆくのを見ているうちに、話すべきことを忘れました。
「あの、今日の…」
へどもどしている私を、真っ直ぐに見据えた彼女の尖った鼻。彼女はどうやら私とは口をききたくない様子なのです。ええ。愛しているからそれくらいは分かります。 しかし、何故でしょう?
言葉を続けることができなくなった私は、何もかも忘れて彼女の顔を、ただ見ていました。すると彼女の口から以下のような驚くべき報告がなされたのです。
「課長補佐の左遷は、あなたのせいなんです。あなたが先方に連絡を入れないものだから、上から圧力がかかったのがそもそもの原因だと、先ほど出入りの業者の方からうかがいました。あなたは、仕事の上であの方にどれほどお世話になったのかをわきまえていらっしゃいますか。あんなに素晴らしい人格者でいらっしゃるあのお方が、イフガメなんかに飛ばされてしまって、本当にお気の毒です。私はあなたと関わり合いになりたくなんかありません。けれど仕事は仕事と割り切るだけの冷静さまでは失いたくないと思っています。それで、ご用件はなんでしょうか?」
どこまでも冷たい言葉が私の心を凍りつかせました。そんなこととは知らなかったのです。知らなかったではすまされない事もあるでしょう。しかし、それは課長補佐のミスなのです。そのことを彼女に説明し、懇願し…。しかし、どう言ったらいいのでしょうか。私に何が言えるでしょう。
結局、地媚君からは有益なことは何一つ聞き出せないまま机に戻り、私は頭を抱えるしかありません。問題が増えてしまったのです。仕事の事、課長補佐の事、地媚君との事。何から手をつければいいのでしょうか。
「お茶が入りました」
秘書の瑞名君がお茶を持ってきてくれたのです。この課には、時間外に休憩する習慣はありませんでした。しかし、気持ちにメリハリをつけるために、お茶だけはいつでも飲んでいい事になっています。大抵は、手のすいたアシスタントが淹れてくれるのですが、今日は誰もいないので秘書の瑞名君が、私の様子を気にかけてくれて、自主的に淹れてくれたのでしょう。
「ありがとう」
と言って私は熱くて濃いお茶を飲みました。その途端に、私は真っ白な闇に包まれました。額に強い衝撃を感じたのを最後に、私は完全に意識を失っていたのです。
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