第2話 奇抜なメモ

 私は、気もそぞろで部署に戻りました。課長補佐はまだデスクには戻っていません。そういえば、渡り廊下に辞令が張り出されていたような気がします。突然の異動は珍しいことではありません。部内の者は平然と仕事を続けていました。けれども、私は一体何をすればいいのでしょう。明日には、「空想技師集団」の担当者がここに来るのです。一体、誰が何を期待して来るのか、それすらも私には分からないのです。

 力なく机についた私の前に、電話のメモらしきものが残されていました。その筆跡は、同僚の黄間締クンの物でした。彼はペン習字初段の腕前を持っていて、その達筆ぶりは取引先への贈答関係文書の全てを任されて、特別技能手当てを受給している程なのです。私は彼の、貫之式の崩し方は苦手でしたが、それが文字だという先入観を捨ててみれば、なるほど上手いものだななどと思ったりもしましたので、一目で彼が書いたメモだという事は分かるのです。

 内容はすこぶる簡潔で、「十二三五 煙様 明日打ち合わせキオラ画廊 変更八三八」と読めました。

 しかし、その意味となると、理解に苦しまざるを得ません。私の机に残されていて、打ち合わせの必要のありそうなものといったら、「空想技師集団」関係のものだけです。それを明日朝八時三十八分にキオラ画廊で行いたいという事なのだというのは分かります。

 問題は、キオラ画廊が一体何処にあるのかという事と、このメモを書き残した黄間締クンが何故、これほど取り乱していて、驚愕、憎悪すら感じていたのかという事なのです。

 何故、私に黄間締クンの心理状態が見ぬけたのでしょう。

 それは、第一には、私達の部署には各自の机の上に一台ずつ電話があり、それと一緒に統一した規格のメモ用紙が備え付けられているのですが、このメモはその用紙には書かれていなかったという点です。

 電話を取って、メモの必要があるかどうかを冷静に、いや普段通りに判断できさえすれば習慣的に、手はメモ用紙に伸びるものです。しかし、彼はそうしなかった。

 何故か?

 黄間締クンは手を伸ばすことが出来なかったからです。これは相手の話し方に彼を抑圧する何かがあり、この慣習的な行為すら制止させてしまったか、ひどく難解な論理でメモという単純化を許さなかったため、彼もメモという手馴れた方法を断念せざるを得なかったのかの何れかと考えられるでしょう。

 私は一度何かを考え始めると、誰かに制止されるか、義務感に苛まれるかしない限り、その思考を離れることが出来なくなる質でした。現在、私をこの思考の迷宮から連れ出してくれるものは、何もありません。課長補佐は留守だし、他の連中は自分の仕事にかかりきりだし、私の義務である仕事とは、このメモを解読することの他には無かったからです。だから、まだまだ考えは巡ります。それは、黄間締クンの人柄にまで及びました。

 黄間締クンはいたって温厚な性格で、私とは同期の入社です。つきあいはあまり深くはありませんが、恨んだり恨まれたりする原因にも思い当たりません。仕事には真剣に取り組みますし、人の足を引っ張ってまで、勤怠管理システム対策に媚びを売ったりするほど、嫌らしくも無いのです。

 そういえば、このメモには、「変更」と書かれています。しかも私の机の電話が鳴ったという事は、課長補佐が空想技師集団と既に打ち合わせの予定をしており、担当者が私になるという事まで伝えた上で、私をないがしろにしていたという事になるのではないでしょうか?

 もう疑いようがありません。つまり、黄間締クンは、そんな卑劣な、いいえ酷い事をする人では無いということを言いたいのです。仕事に私情を挟むのがいかに無益な事であるか、彼も良く知っているのです。

 たかが、ちょっと内容を聞き返した私が、忘年会の余興を一つ内緒にしたからといって、仕事に支障の出るような妨害をする意味。そう。意味が無いばかりじゃない。査定にすら響きかねない業務情報の隠匿を犯すなんて、信じられない。課長補佐はだから補佐なんだ。いいえ。今はそんな事を言っている場合ではありませんでした。

 黄間締クンの性格や勤務態度、私との関係を総括的に判断して、彼がこういう形のメモを残さざるを得なかった訳が、私にはどうしても腑に落ちませんでした。

 つまり、用件をメモ用紙にでは無く、特殊金属製の棒を尖らしたような物を使用して、机の天板をいっぱいに引っかいて、残さねばならなかった意味、についてです。

 こんな事をすれば、いくら昼休みだからとはいえ、金属同士を引っかく、あの嫌らしい音が、部屋中に響き渡ったことでしょう。庶務の未伊那クンなどは、きっとああいう音がたまらなく苦手な筈です。そう。黄間締クンが彼女を不快にさせるような方法をわざわざ採用した訳ですから、いよいよもって、このメモには内容以上に重大な秘密が隠されているという事になるのです。

 ペン立て、カッターシート。月間サイクリング。季刊美術の手帳。ルーペ。スケール。そんな細々したものを片付けて、私は改めてこのメモを見つめました。そしてこれを引っかき傷としてではなく、文字として捕らえようと努力しているうちに、どうやら黄間締クンの心理状態の詳細が浮かび上がってきたのです。

 学生の頃、筆跡鑑定の通信講座を受けていたのが役に立ったのです。当時は、タバコの灰から銘柄を当てる講習だとか、毒のある山野草クラブ、ぬかるみにおける自転車の進行方向とタイヤの鑑定同好会などに首を突っ込んで、両親へのささやかな反抗を試みていたのですが、まさかこんなところで法廷鑑定人登録を修めたこの資格が役に立つとは思いませんでした。

 初動の調子、横線の角度、線の震え、言葉の選び方も重要です。点、丸、角、止めの癖などを詳細に分析した結果が、取り乱し、驚愕し、憎悪すら抱いているという物だったのです。でも、こんな結果は認めたくありません。黄間締クンを侮辱してしまったような胸のつかえが、私に次の方法をとらせようとしました。

 何でも、独断の一方的な見方で物事を決めては行けないという教育を私は受けてきました。密偵技法の指導書によれば、ああ、これも私が修得した能力の一つですが、「天網恢恢祖にしてもらさず」「壁に耳有り障子に眼有り」「プライバシーは存在しない」などの単元で勉強した通り、目撃者の証言を得る事が心理の真理に近づく次の段階のように思われます。

 しかし、他の人達をこんなことに巻き込んでも大丈夫でしょうか。このことは私の仕事としてシステムは認証してくれるでしょうか。

 とはいえ、他にすべきことは何もないのです。私は消耗品請求伝票を電送し、水色のファイルを手に入れました。そして、「空想技師集団関係綴り」というタイトルを付けると、そのファイルを小脇にかかえて、周辺部への聞き込みを開始したのです。

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