第17話 恋の情熱
「この『ゴンドラの唄』は、ツルゲーネフの原作にはない、芸術座の劇オリジナルの歌らしいですね。ヒロインのエレーナが恋人とヴェネツィアで船を待っている場面で、いのち短し……と歌うのです」
恵美子がそう解説すると、ロシア生まれのスーニャが「ワタシ、ロシア人ダケド、ソレ観タコトナイ……。劇、見タイナァ……」と独り言を言った。しかし、
「え、恵美子さん。何で日本人のあなたがロシアの戯曲に詳しいのですか? それに、三重県のド田舎にいたのに、芸術座の舞台の内容を詳しく知っているみたいですし……。ハッ⁉ もしかして、あなたも神ですか? 色んな国の言葉が分かっちゃう学問の神様とか、千里眼で遠く離れたものが見える凄い神様とか……!」
「そんなわけないじゃないですか、望子さん……。日本語訳された『ツルゲーネフ全集』で、『その前夜』とか『初恋』だとかツルゲーネフの作品は一通り読んだことがあるのですよ。それに、芸術座の舞台の脚本も出版されているから、劇を観たことがない私でも内容は知ることができます」
「……もしかして、恵美子さんって文学とかものすごーく詳しかったり?」
「ええ。女学生だった頃は、たくさんの小説や詩集を学友たちと一緒に読んでいたものですわ」
(本当、
この時代の女学生には文学少女が多かった。教科で一番人気があったのは国語だったし、男子学生よりも読書熱心だったらしい。文学作品や少女小説などを中心に少女たちは創作物に親しみ、豊かな感性を育てていったのである。恵美子もそんな文学少女の一人だったのだ。
「……こほん。物語の主人公であるエレーナは貴族の令嬢ですが、ブルガリア独立運動に身を投じる青年インサーロフに恋をします。エレーナは貴族という立場でありながら、家族を捨て、故郷を捨て、愛するインサーロフと共にブルガリアへと旅立つのです。でも、インサーロフは旅の途中のイタリアで病死……短い命を恋と理想のために燃やし尽くしたのでした。エレーナが『ゴンドラの唄』を歌うのは、インサーロフが死ぬ直前のことです。
人の命なんて短いもの。明日、突然死んでしまうことだってある。今日という青春は二度と戻っては来ない。だったら、命の炎が燃え尽きるまで、必死に恋をしよう……。この歌にはそんなメッセージがあるのだと私は思います。
……和樹さん。私のために、あなたはそこまでの情熱を抱いてくださいますか?」
恵美子に急にそう問われて、和樹は「え……」とうろたえた。優柔不断な彼がそんな重大な問いに即答できるはずもなく、口をもごもごさせるばかりである。
「和樹さん、ちゃんと答えてください」
恵美子が普段の彼女からは考えられないほど真剣な声音でそう促すと、和樹もようやく絞り出すような声で「た……たぶん無理や……」と言った。
「ごめん……。恵美子さんのことは好きやけれど……。君と結婚するために親戚の反対意見を振り切ることができない僕なんかに、そんなことできるはずがない」
そんな和樹の返答に対して恵美子は怒ることなく、わずかに寂しさを宿した微笑を浮かべた。
「実は、私も同じなのです。和樹さんのこと、嫌いではありません。ですが、この気持ちが恋なのかというと……。私も、あなたのために自分の命の全てを捧げる覚悟はできないと思います。ごく平凡な、親と親が決めた結婚だったら、それが当たり前なのでしょうが……。
でも……でもですよ。人間の青春が一瞬で終わる儚いものだとしたら、エレーナとインサーロフみたいに命の炎を燃やし尽くすような恋がしてみたいと思いませんか? 和樹さんにも、きっと親戚の反対を押し切ってでも結婚したいと思えるような女性がこの世界のどこかにいるはずですよ。そう考えたら、私たちは運命の相手ではないのかなって……。お互いに過去を引きずって立ち止まっているよりは、前を向いて歩いたほうが幸せになれるのではないでしょうか?
ツルゲーネフは『初恋』という作品で、身も心も捧げ尽くすのが恋だと書いています。私たちも、きっと、そんな自分の全てを捧げられる想い人を見つけられるはずですわ。私はそう信じています。だから、和樹さん。明日の月日があるかも分からない短い青春をお互いに無駄にしないようにしましょう。私のことは忘れて、恋の情熱を捧げられる人をどうか探してください」
恵美子は優しげにそう言うと、再び『ゴンドラの唄』の歌詞の四番目を口ずさんだ。
いのち短し 恋せよ少女
黒髪の色
心のほのお 消えぬ間に
今日はふたたび 来ぬものを
歌い終えると、恵美子はニッコリと愛嬌にあふれた笑みを和樹に向けるのであった。
「恵美子さん……。ごめんな、ありがとう。君のことは忘れられへんし、ずっと後悔し続けるやろうけれど……。君を幸せにできなかった分、誰かを必ず幸せにしてみせるよ。たぶん……きっと……おそらく……がんばれる」
「うふふ。また優柔不断になっていますよ、和樹さん」
「う、うう……。すぐにはこの性格は直らへんわ。強くならなあかんなぁ……」
和樹は顔を真っ赤にして、頭をポリポリとかいた。
「私は東京で元気にしているから心配しないで、って両親に伝えておいてください。私、
恵美子がそう告げると、いつの間にかそばにいた
「はい! 加奈子
とても愛らしい、満面の笑みだ。恵美子が世の中に絶望して自殺する心配はもうないだろう。カフェーいなりの人々はそう思い、ホッと胸を撫で下ろすのであった。
(これで、一件落着だな。あいつ、頭すっからかんかと思ったら、俺が言った「くよくよせずに前を向け」という言葉をちゃんと覚えてくれていたのか。
それにしても、文学少女だったとはな……。あいつに俺の小説を見せたら……い、いや、やめておこう。文学に詳しくない姉さんにもボロクソ言われたのに、文学少女になんか読ませたら……)
なんか、おっそろしい顔で葛藤しているようである。小説家が人に読まれるのを恐がっていて、どうする! 作家にはメンタルも大事なんだぞ⁉
「ふっふっふっ~。今回は、縁結びはできませんでしたが、偉大なウケモチノカミ様の
望子が一人で笑っていたが、奇行に奇行を重ねた彼女の発言を聞いている人間は誰一人としていないのであった……。
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