第15話 恵美子の乙女心
「……あの野郎、もう我慢ならねぇ」
「おい、あんた。女を翻弄して何が楽しい。いい加減にしろよ。
人を五、六人は殺していそうな凶悪な人相の東吾に大喝され、和樹は「ひ、ひえぇぇ!」と叫びながら文字通り飛び上がった。仰向けに椅子から転がり落ち、
「こら! よしなさい、
「
「原稿料で食っていけない無名の小説家のくせに、なーに生意気言っているのさ。今のあんたはただのカフェーの
「う……ぐぅ……」
優柔不断男を説教してやろうと思ったのに、逆に姉に怒られて勢いを削がれてしまい、東吾(本名、
「で……でも、姉さんだって許せないだろ。女を裏切る男なんて最低じゃないか。俺は今でもあの男のことが……」
「あの男もこの男もないよ。いつまでも過ぎたことをぐだぐだ言うのはおよし。私はもう綺麗さっぱり忘れたんだ」
「……そんなわけ、あるはずがないだろ。嘘つき」
「ああん? 今、何か言ったかい?」
姉弟が言い合いを始め、すっかり放置されてしまった和樹は呆然と姉弟喧嘩を眺めている。見かねた市郎が姉弟の間に割って入り、「おいおい。今は恵美子ちゃんのことのほうが大事だろ? 姉弟喧嘩は後にしなって」と止めた。
「あっ……。そ、そうだった……」
声をそろえて全く同じ台詞を言う加奈子と東吾。顔はぜんぜん似ていないが、やはり血の繋がった姉弟である。息ピッタリだ。
「……へぇ~。あのゲロまず料理の厨房長、顔は凶悪犯みたいなのに『女を泣かす男は許さん!』とか歯の浮つくようなことを言う人間だったんですねぇ~。まあ、本人はあのおっかない顔で気弱な女子たちをいつも大泣きさせていますが」
「…………」
恵美子は望子の言葉に何の反応も示さず、いまだに無言で固まっている。元許嫁の誠意の無さを見てよほどショックだったのかも、と望子は思った。
「そんなに気落ちしないでくださいよぉ、恵美子さん。あんな頼りがいの無い男と結婚しなくてよかったと私は思いますよ?」
「…………」
「え……恵美子さん? まさか、また自殺しようとか考えていないでしょうね⁉ いけませんよ! 死ぬ時って、ものすごく辛いんですから! 特に、剣で体を真っ二つに切られた時なんかもう……!」
慌てた望子は、一番あり得無さそうな死に方をたとえ話にあげ、自殺を諌めようとした。恵美子は「何言ってんだ、こいつ」と思っていそうな呆れた顔をして、望子を横目で見つめる。
「食物神の私が何でも好きなごちそうを出してあげますから、自殺だけは思いとどまってください!」
「……心配しなくても私は死にませんよ。望子さんが素敵な旦那様との縁を結んでくださると約束してくださったので、それを頼みに生きていますから」
(それって、私がしくじったら自殺するってこと? せ、責任が重すぎて胃がきりきり痛むんですけどぉ~……)
恵美子は望子の心の動揺には気づかず、「死にはしませんが、私はただ……」と言った。
「私はただ、何ですか? あの優柔不断な男をぶん殴ってやりたいと? どうぞ、どうぞ。あんな奴、昨日の盗人みたいに好きなだけ痛めつけてやってください。私もスッキリします」
「私はそんな暴力的な女の子じゃありません! ひどい言いがかりはやめてください!」
(ええ~……。あなたみたいなデンジャラス乙女がそんなことを言いますぅ~?)
望子はそう思ったけれど、デンジャラス乙女にそんなことを言ったらデンジャラスなことになりそうなので、黙っておいた。
「そういう話ではありません。私はただ、私のせいで和樹さんが苦しんでいるのが可哀想だなって思って……」
恵美子の意外すぎる発言に、望子は「は、はい~?」と素っ頓狂な声を上げた。恵美子が自分のことを可哀想と言うのなら分かるが、なぜあんな優柔不断男が可哀想だと言うのか。
「え? え? あれだけ婚約を破談されたことを思いつめていたのに、あなたを裏切った張本人を可哀想だなんてお人よしすぎません? ぜんぜん恨んでいないのですか?」
「……全く恨んでいないと言うと嘘になります。『なぜ私を裏切ったの? 私よりも親戚の人たちのほうが大切だったの?』と今でも問いただしたい気持ちでいっぱいですし。でも、一度は私と将来の約束を……
「恵美子さん……」
「東吾さんたちが私のために
私は、この銀座で自分の幸せを探そうと思います。だから、和樹さんにも新しい幸せを見つけて欲しい。私のために、もう苦しまないで欲しい。……そのことを私の口から和樹さんに伝えなきゃとさっきから思っているのですが、情けないですね。今、あの人の前に出たらみっともなく泣き出しちゃいそうで……」
(口よりも先に手と足を出すデンジャラス乙女かと思ったら……意外と純情なところもあるんですね)
望子は、恵美子のことをちょっと可愛いと思った。
そう、恵美子は見た目も中身も可愛い女の子なのである。盗人に襲われたり、頭が馬の化け物と遭遇したり、危険な目にあわない限りは、父親直伝の「護身術」で暴れることはない。今まで不幸が重なって、望子は恵美子の乙女な部分を見ぬくことができなかったのである。
ただ、恵美子は本人が言う通りの「不幸体質」なので、これからも危険な目にあい続ける運命にあるのだが……。
「分かりました、恵美子さん。あなたの気持ち、食物神兼縁結びの神であるこのウケモチノカミがあの優柔不断男に伝えてあげましょう。あなたが考案してくれた『銀座いなりの
「……え?」
恵美子が驚いて望子を見ると、望子は無い胸をえっへんと反らし、
「こういう時こそ、神様にお任せですよ!」
と宣言するのであった。
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