第15話 恵美子の乙女心

「……あの野郎、もう我慢ならねぇ」


 和樹かずきの優柔不断についに怒りを爆発させたのは、東吾とうごだった。猛然と立ち上がり、赤鬼みたいにおっかない顔はさらに五割り増し、ドスンドスーンという効果音が聞こえてくるような大股歩きで和樹のテーブル席に歩み寄ったのである。


「おい、あんた。女を翻弄して何が楽しい。いい加減にしろよ。恵美子えみこはあんたと結婚するために女学校を退学したんだぞ。本当だったら、あと二年は女学校で友達と青春を謳歌おうかすることができたのに……。あいつはあんたと結婚するためにそれだけのことをしたんだ。それが、なんだ、あんたは。親戚のジジババに口やかましく言われるのが嫌で、あんたの言葉を信じて待っていた女の子を簡単に見捨てやがって……! しかも、そのことを反省して彼女に謝罪しに来たのかと思ったら、まーだ自分のことばかり考えてやがる。俺は、女と一度交わした約束を破る野郎は大嫌いだ!」


 人を五、六人は殺していそうな凶悪な人相の東吾に大喝され、和樹は「ひ、ひえぇぇ!」と叫びながら文字通り飛び上がった。仰向けに椅子から転がり落ち、したたかに頭を打つ。


「こら! よしなさい、権太ごんた! あんたに怒鳴られたら、気が弱い人間は心臓が止まって死んじまうよ!」


 加奈子かなこが叱ると、東吾は顔を赤らめて「ほ、本名で呼ぶなってば! 俺、その名前嫌いなんだよ! 昔、小学校の同級生が飼っていた犬と同じ名前だし!」と抗議した。


筆名ペンネームで呼んでくれって、いつも言っているじゃないか」


「原稿料で食っていけない無名の小説家のくせに、なーに生意気言っているのさ。今のあんたはただのカフェーの厨夫コックなんだから、お客さんを怒鳴らない! いいね?」


「う……ぐぅ……」


 優柔不断男を説教してやろうと思ったのに、逆に姉に怒られて勢いを削がれてしまい、東吾(本名、稲藤いなふじ権太)は唸り声を上げた。ぐうの音も出ないとはこのことである。


「で……でも、姉さんだって許せないだろ。女を裏切る男なんて最低じゃないか。俺は今でもあの男のことが……」


「あの男もこの男もないよ。いつまでも過ぎたことをぐだぐだ言うのはおよし。私はもう綺麗さっぱり忘れたんだ」


「……そんなわけ、あるはずがないだろ。嘘つき」


「ああん? 今、何か言ったかい?」


 姉弟が言い合いを始め、すっかり放置されてしまった和樹は呆然と姉弟喧嘩を眺めている。見かねた市郎が姉弟の間に割って入り、「おいおい。今は恵美子ちゃんのことのほうが大事だろ? 姉弟喧嘩は後にしなって」と止めた。


「あっ……。そ、そうだった……」


 声をそろえて全く同じ台詞を言う加奈子と東吾。顔はぜんぜん似ていないが、やはり血の繋がった姉弟である。息ピッタリだ。


「……へぇ~。あのゲロまず料理の厨房長、顔は凶悪犯みたいなのに『女を泣かす男は許さん!』とか歯の浮つくようなことを言う人間だったんですねぇ~。まあ、本人はあのおっかない顔で気弱な女子たちをいつも大泣きさせていますが」


 望子もちこは小声でそう言い、プークスクスと笑った。食物神的には料理が下手なくせに偉そうな態度の東吾は気に食わないのだろう。


「…………」


 恵美子は望子の言葉に何の反応も示さず、いまだに無言で固まっている。元許嫁の誠意の無さを見てよほどショックだったのかも、と望子は思った。


「そんなに気落ちしないでくださいよぉ、恵美子さん。あんな頼りがいの無い男と結婚しなくてよかったと私は思いますよ?」


「…………」


「え……恵美子さん? まさか、また自殺しようとか考えていないでしょうね⁉ いけませんよ! 死ぬ時って、ものすごく辛いんですから! 特に、剣で体を真っ二つに切られた時なんかもう……!」


 慌てた望子は、一番あり得無さそうな死に方をたとえ話にあげ、自殺を諌めようとした。恵美子は「何言ってんだ、こいつ」と思っていそうな呆れた顔をして、望子を横目で見つめる。


「食物神の私が何でも好きなごちそうを出してあげますから、自殺だけは思いとどまってください!」


「……心配しなくても私は死にませんよ。望子さんが素敵な旦那様との縁を結んでくださると約束してくださったので、それを頼みに生きていますから」


(それって、私がしくじったら自殺するってこと? せ、責任が重すぎて胃がきりきり痛むんですけどぉ~……)


 恵美子は望子の心の動揺には気づかず、「死にはしませんが、私はただ……」と言った。


「私はただ、何ですか? あの優柔不断な男をぶん殴ってやりたいと? どうぞ、どうぞ。あんな奴、昨日の盗人みたいに好きなだけ痛めつけてやってください。私もスッキリします」


「私はそんな暴力的な女の子じゃありません! ひどい言いがかりはやめてください!」


(ええ~……。あなたみたいなデンジャラス乙女がそんなことを言いますぅ~?)


 望子はそう思ったけれど、デンジャラス乙女にそんなことを言ったらデンジャラスなことになりそうなので、黙っておいた。


「そういう話ではありません。私はただ、私のせいで和樹さんが苦しんでいるのが可哀想だなって思って……」


 恵美子の意外すぎる発言に、望子は「は、はい~?」と素っ頓狂な声を上げた。恵美子が自分のことを可哀想と言うのなら分かるが、なぜあんな優柔不断男が可哀想だと言うのか。


「え? え? あれだけ婚約を破談されたことを思いつめていたのに、あなたを裏切った張本人を可哀想だなんてお人よしすぎません? ぜんぜん恨んでいないのですか?」


「……全く恨んでいないと言うと嘘になります。『なぜ私を裏切ったの? 私よりも親戚の人たちのほうが大切だったの?』と今でも問いただしたい気持ちでいっぱいですし。でも、一度は私と将来の約束を……えにしを結んでいた殿方なんですもの。丙午ひのえうま生まれの私を妻に迎えたいと優しい笑顔で言ってくださった時の温かな思い出を大事にしたい、という気持ちも胸の中で同居しているんです。だから、あんなによってたかって責められているのを見るのは辛くって……」


「恵美子さん……」


「東吾さんたちが私のためにいきどおってくださるのはありがたいですが、あの人はみなさんが思っているほど最低な男の人ではないので……。心の中では、もっともっと私への罪悪感で苦しんでいるはずですから。その証拠に、私と破談になってからもう三年の月日が流れているのに、和樹さんはいまだにお嫁さんをもらっていないみたいですし。

 私は、この銀座で自分の幸せを探そうと思います。だから、和樹さんにも新しい幸せを見つけて欲しい。私のために、もう苦しまないで欲しい。……そのことを私の口から和樹さんに伝えなきゃとさっきから思っているのですが、情けないですね。今、あの人の前に出たらみっともなく泣き出しちゃいそうで……」


(口よりも先に手と足を出すデンジャラス乙女かと思ったら……意外と純情なところもあるんですね)


 望子は、恵美子のことをちょっと可愛いと思った。


 そう、恵美子は見た目も中身も可愛い女の子なのである。盗人に襲われたり、頭が馬の化け物と遭遇したり、危険な目にあわない限りは、父親直伝の「護身術」で暴れることはない。今まで不幸が重なって、望子は恵美子の乙女な部分を見ぬくことができなかったのである。


 ただ、恵美子は本人が言う通りの「不幸体質」なので、これからも危険な目にあい続ける運命にあるのだが……。


「分かりました、恵美子さん。あなたの気持ち、食物神兼縁結びの神であるこのウケモチノカミがあの優柔不断男に伝えてあげましょう。あなたが考案してくれた『銀座いなりの恋占こいうらお菓子』を使ってね!」


「……え?」


 恵美子が驚いて望子を見ると、望子は無い胸をえっへんと反らし、


「こういう時こそ、神様にお任せですよ!」


 と宣言するのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る