第13話 新聞記事

「うわぁ~……スーニャちゃん、大変そう。とんだ優柔不断野郎ですね。あんな面倒くさい客、いくらチップをたくさんくれてもお得意さんにはしたくないなぁ」


 スーニャと男性客のやり取りを見ていた十九歳の女給が加奈子かなこにそう言い、加奈子も「大きな声でお客さんの悪口を言ったらダメだよ」と注意しつつも苦笑を浮かべていた。


 カフェーいなりのドアが勢いよく開いたのは、ちょうどそんな時であった。


「やぁ~、皆の衆。今日も蒸し暑いなぁ~!」


「アッ、真庭まにわサン。イラッシャイ、マセ」


 ようやく優柔不断な男性客から解放されたスーニャが席に案内すると、市郎いちろうはシャツのボタンを胸のあたりまでポチポチと外しながらドカッと座った。


「スーニャちゃん。冷コーヒーとアイスクリーム、お願い」


「ガッテンショウチノスケ」


 スーニャは今日一番の笑顔で応じる。他の女給たちはスーニャに先を越されたことを悔しがりつつも、つけ入る隙を虎視眈々と狙っていた。


 市郎は取り立てて美男ではないただのおっさんだが、月末にはカフェーいなりの「スペシャル」な客になる。新聞社から給料をもらったばかりの市郎はすごく気前がよくて、馴染みの女給以外にもけっこうな額のチップをくれるのだ。


 ちなみに、市郎の馴染みの女給は飯田いいだ小夜さよといい、カフェーいなり開業当時から働いている古株だ。ここ数日、熱中症で倒れてお店を休んでいる。


「ああ~! やっぱりカレーライスを注文すればよかったかなぁ~! サンドウィッチだけじゃお腹が空いてしまうかも知れへんわぁ~! 僕って、なんでこんなに優柔不断なんやろぉ~! あああああ!」


「……何だ、あいつ?」


 ぎゃあぎゃあとわめいている斜め後ろの席の若者を市郎はチラリと見て、スーニャに小声で言った。


「変ナ人」


「うん。それは見たら分かる」


「真庭さん、気にしないでおくれ。あんまり騒いで他のお客さんに迷惑をかけるようだったら、東吾とうごにつまみ出させるから」


 店の奥にいた加奈子が出て来て、ひそひそ声で市郎に言った。


「まっ、色んな人間と遭遇するのが銀座という街だからな。……それより、加奈子さん。今朝の東京みやび新聞は読んでくれたか?」


「いや、今朝は寝坊をしてしまったものだからバタバタしてしまってねぇ。新聞を読んでいる暇がなかったんですよ。何か面白い記事でも書かれたのですか?」


「昨日の家出娘に見せてやりたい記事があるんだ。ほら、これを見てくれ」


「…………?」


 加奈子は市郎の向かいの席に座り、市郎がテーブルに置いた東京みやび新聞を手に取った。いつもの癖で、ほつれ髪を指でいじっている。なぜ何気ない仕草なのに彼女がすると色っぽく感じるのだろう、と市郎は不思議に思った。


「何々……? 『丙午ひのえうま生まれの女が不吉というのは、真っ赤な嘘』? 真庭さん。あなた、あの子のことを記事にするとおっしゃっていましたけれど、もうお書きになったんですね」


「当たり前さ。やると言ったことは、すぐにやる。それが江戸っ子というもんだよ」


「まーた言ってる。真庭さんは岡山県出身でしょ?」


 クスクス笑いながら、加奈子は市郎が書いた記事を読み始めた。


『銀座である気の毒な娘と出会った。私が、木挽橋こびきばしから今にも身を投げそうなほど思いつめていたその娘を心配して声をかけると、彼女は丙午ひのえうま生まれを悲観して田舎から家出してきたのだという。私は自殺などおよしなさいと優しく諭し、懇意のカフェーに連れて行って彼女の事情を聞いた』


 ちょっと脚色入ってるじゃん、あの子をこの店に連れて来たのはモチちゃんなのに。加奈子は市郎のいつもの脚色癖に苦笑しつつ先を読み進める。


『なんと、丙午生まれの女は不吉だという理由で、許嫁に一方的に破談を告げられたそうだ。これを聞き、私はなんとまあ嘆かわしいことかと天を仰いだ。文明開化の明治を経て、いまや日本は欧米列強に負けるとも劣らぬ先進的な文明を手に入れた。そのつもりであった。しかし、せっかく手に入れた近代的な文明も、我々日本人がいまだに迷信の深き眠りの中にいたのなら、それは宝の持ち腐れに過ぎぬ。

 丙午生まれの娘が不吉だとされているのは、放火の罪で処刑された八百屋お七が丙午生まれだったから、という説が有力である。だが、八百屋お七が丙午生まれだというのは、お七の死後に書かれた創作物で語られているのみ。実際のお七が何年生まれであったかはハッキリ分からぬらしい。これは、知り合いの歴史学者に以前聞いたことだから、間違いない。

 つまり、迷信の根源となった話そのものが、でっちあげなのだ。そんなでっちあげを真に受けて、丙午生まれのうら若き乙女たちを不吉だの何だのと差別するのは、時代遅れ甚だしく、西洋人たちに鼻で笑われてしまうこと請け合いである。

 ああ、哀れな家出娘の彼女は今どこで何をしていることやら。一度は私が身投げを思いとどめてやったが、思いつめて投身自殺しておらねばいいが……』


 ちなみに、当の哀れな家出娘・恵美子は、厨房の掃除が終わり、今は東吾の不器用な包丁さばきを見て「そんな切り方では、一緒に指まで切ってしまいます!」と口やかましく指南していた。東吾の指がバラバラにちぎれないか心配で、自殺どころではないようである。


「……なるほどねぇ、さすがは真庭さんだわ。この記事を読んだら、丙午生まれの娘を忌避きひする人間がどれだけ愚かかよく分かりましたよ。ただ、あのお気楽大食いの田舎娘ちゃんがだいぶ脚色されて別人みたいになっていますね……」


「だってよぉ、正直に『その丙午生まれの娘は、カフェーでお店の食材が尽きるほどやけ食いしましたとさ。おあとがよろしいようで……』なんて書けねぇじゃんか。落語じゃないんだから」


「まあ、たしかに」


 加奈子と市郎がそんなことを言い合っていると、サンドウィッチを注文したことを悶々と後悔していた優柔不断な男性客が、


「丙午生まれ……? 大食いの娘……?」


 と、ピクッと反応した。


「あ……あの……。そ、その丙午生まれの娘というのは、笑美えみ恵美子という女性やないでしょうか?」


 恐るおそるといった様子で若者はそう言い、市郎と加奈子のテーブルにフラフラと歩み寄って来た。


「あんた……どこのドイツ人だい?」


 市郎が胡乱うろんな目つきで睨み、そうたずねると、加奈子が「ぶふっ!」と噴き出した。加奈子は大人の女性という印象に似合わず、しょうもない駄洒落だじゃれで笑ってしまう笑い上戸なのである。


 一方、たまたま市郎の駄洒落を耳にしてしまったスーニャは、何がそんなに面白いの……? と白けた顔で加奈子を見つめていた。


 優柔不断な若者などは、駄洒落とも気づかず、


「いえ、ドイツ生まれちゃいます。三重県の人間です」


 などと真顔で答えるのであった。


「……ちぇっ。俺の高尚な駄洒落が分からんとは、哀れな朴念仁ぼくねんじんめ」


「あなたは三重県の人なのかい。そういえば、恵美子ちゃんもそんな感じのなまりだねぇ」


 市郎と加奈子が順番にそう言うと、若者は「や……やっぱり、恵美子ちゃんが昨日ここに来とったんですか⁉」と大声を上げた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る