第6話 銀座の夜は儚く

 深夜のカフェーいなりは、活況を呈していた。


 望子もちこの勤務時間が終わるまで待たされている恵美子えみこは、コーヒーをちびちび飲みながら、店の隅のテーブルから店内を観察する。


(大阪のカフェーに行ったことがある親戚のおじさんが「カフェーというところはエロスを売りにしとるんやなぁ~。ただコーヒーを飲みに行っただけやのに、女給さんに誘惑されてしもて驚いたわぁ~!」って言っとったけど……。銀座のカフェーはそんなサービスはしとらんのかな?)


 望子たち女給目当てに来店した男たちは、彼女たちと友達のように和気あいあいとお喋りしたら満足し、チップを渡していた。


 恵美子には知りようもないことだが、女給のエロサービスを売りにする店が銀座でキノコみたいににょきにょき繁殖するのは、大阪のカフェーが進出してくる昭和初期ごろからである。エロサービスをやっている店が皆無だったというわけではないが、少なくともカフェーいなりはそういうお店ではなかった。(中には女給たちによからぬ下心を抱いている不届きな輩もいるだろうが……)。


「モチちゃん。あんたは明日早番だし、もう帰っていいよ。恵美子ちゃんのこと、よろしく頼むね」


 深夜の十一時を過ぎたころ、加奈子かなこが望子にそう言った。


「はぁい、分かりましたぁ~。……じゃあ、私の家に帰りましょうか、恵美子さん」


 知らぬ間にうとうとと眠っていた恵美子は望子に肩を揺すられ、「はっ⁉」と覚醒した。じゅるり、とよだれを手で拭う。


「ふわぁ~……お家? 望子さんのお家って、あのぼろい神社ではないのですか?」


「あはははは。恵美子さんったら、寝ぼけてるんですかぁ~? ……(小声で)あなたが私の家を破壊したんでしょーが! ほこらを壊した責任はちゃーんと取ってもらいますからね⁉ さもないと、神罰を下しますよ⁉」


「む、むむむ。一文なしの傷心乙女に神様が脅すなんてあんまりです。それに、私が悪漢たちに襲われそうになっている時にその場にいた神様のあなたが助けてくださったら、あんな大惨事にはならなかったのではないのですか? 神が困っている人間を見捨てて、責任を取れと言われても……」


「うぐっ……。わ、私は戦闘向きの神じゃないんですぅ~。とってもか弱いんですぅ~。……と、とにかく、今夜は知り合いの家に厄介になるから、さっさと行きますよ⁉ いちおう、そこが明智望子という人間の少女の住所という設定になっているんです」


「設定って……」


 神様の知り合いということは、やっぱり神様なのだろうか。でも、神様がカフェーの女給をしたり、弁当屋をしたり、ちょっとわけが分からない。帝都では神様も労働しなければ生きていけないのだろうか……。


 恵美子はそんな疑問を抱いたが、下手なことを聞いたら祠を壊したことをまた責められそうな気がしたので、あまり深く追求するのはやめておくことにした。


「……あれ? 私が寝ている間にお客さんがずいぶんと減ったのですね」


「店じまいが十一時半ですし、十一時三十二分の南千住・赤坂見附行きの終電を皮切りにどんどん終電になっていきますからね。昨年の震災以来、銀座の夜は儚い夢のように早く終わるのですよ」


(震災……。ちょうど一年前、関東で大地震があったんやったな。そういえば、昼間に銀座の街を歩いた時、バラック建築のお店をたくさん見たわ。まだ一年しか経ってへんもんな。完全に復興するには時間がかかるんやろな……)


 恵美子は心の中でそう呟きながら東吾とうごの言葉を思い出していた。


 ――泣いているだけじゃ人間は挫折から立ち直れないんだ。そのことを銀座で生きている俺たちはよく知っている。一年前の九月、俺たちは震災で……。


 今ここで愛想よく接客している女給たちも、和やかに食事をしている客たちも、もちろんこの店のオーナーの加奈子と弟の東吾も、この一年で想像を絶する苦労をしてきたはずだ。それなのに今こうして同じ空間で笑い合い、短い夜のひとときを共有しているのは、彼ら彼女らが逆境に負けない強さを持っているからなのだろうと恵美子は思った。


丙午ひのえうま生まれを悲観して家出なんてした私は、ここにいる人たちに比べたら弱い人間なのかも……)


 そう考え、恵美子はちょっぴり落ちこむのであった。




            *   *   *




 店を出た恵美子と望子は、イルミネーションが妖しく明滅する夜の街を歩き、望子の「知り合い」が経営しているという南紺屋町みなみこうやまち(現在の銀座一丁目三~六番地)の弁当屋を目指した。


 夜の銀座を歩く人々は、紳士風の男も、女給らしき若い女も、無言で足早に帰路に着こうとしている。千鳥足で歩く酔っ払いのおじさんと肩と肩がぶつかったが、おじさんは「おお、これはすみません」と謝りながら恵美子ではなく店の看板に頭を下げていた。


「……ちまたをゆく男よ、女よ。街樹がいじゅを吹く風も、街の上の空も この若者の悲哀かなしみにかかはりなし」


「何です、それ?」


竹久たけひさ夢二ゆめじの詩ですよ。この詩が今の私の心情にぴったりだったから口ずさんだだけです。この街ですれ違う誰も、私の悲しみなんて知らないのだろうなぁ……て」


「は? 竹久ナントカさんって、美人画を描いている人ですよね?」


「いや、あの人は素敵な詩もたくさん……まあ、いいです。それにしても、店じまいの準備をしているお店ばかりですね。何だか、すぐに終わってしまう祭みたいで寂しいなぁ……」


 恵美子は通りかかったカフェー店を窓の外からのぞきこみながらそう呟く。銀座に乱立しているカフェー店の多くが、カフェーいなりと同じく閉店の準備をしていた。


「電車が終夜動いている大阪とは違って、みなさん終電に乗りこもうと慌てて店を出て行きますからねぇ~。日付をまたいで営業しているお店はなかなかないのですよ。……南金六町(現在の銀座八丁目東側)のカフェー・プランタンぐらいでしょうか」


「神様のくせして人間界に詳しいのですね」


「くせして⁉ 今、神に向かって『くせして』と言いました⁉ あ、あなた、いくら信仰心が薄れてきた二十世紀生まれの若者世代でもそれはあんまりではありませんか⁉ もうちょっと私を敬ってください。私はとーっても偉いのですよ?」


(……いや、私は十代の娘にしては信心深いほうやけれど。望子さんったら言動がいちいち小物っぽいから全く敬う気になれないんやってば……。そもそも、本当に神様なんやろか? 口からアイスクリームを吐き出す特異体質の人間なんじゃ……)


 疑いたくなる気持ちは分かるが、そんな特異体質の人間はたぶんいない。


 二人がああだこうだ言い合って歩いている内に、カフェーなどの飲食店がだんだん少なってきた。弓町(現在の銀座二丁目三~五番地)の大きな印刷会社や黒岩くろいわ涙香るいこうが創業した新聞社・萬朝報社よろずちょうほうしゃ、電灯広告社などの建物の前を通り過ぎ、ようやく南紺屋町に入った。そして、麻雀クラブの建物の前で立ち話している酔っ払いたちの卑猥な誘いを無視してしばらく歩くと、「弁当屋・ひこ」という看板を掲げた店にたどり着いた。もう真夜中なので、すっかり戸締りしてある。


「おーい、彦馬ぁ~。私ですぅ~。中に入れてくださぁ~い」


 望子が乱暴に戸を叩くと、店の中から「おお! これは、これは、ウケモチノカミ様! こんな時間にどうなさったのですか⁉ ブヒヒーン」という甲高い男の声が聞こえてきた。


「……ブヒヒーン?」


 またもや、みょーちくりんな人が登場しそうな予感……。恵美子は全力で身構えた。


 お店から出て来たのは、ひょろりと背が高くて馬面うまづら――というか本物の馬そのもの――の男だった。


 顔が馬で体が人。この化け物の姿に恵美子は見覚えがあった。地獄のありさまを描いた絵本に出てきた獄卒の馬頭めずという鬼だ。


「ぎ……ぎやぁぁぁ‼ 地獄の鬼やぁぁぁ‼」


 恵美子は絶叫すると、はかまから健康的な太ももが見えるまで足を高々と上げ、馬人間を蹴り飛ばした。


「ブヒヒヒーン⁉」


 馬人間は悲鳴(というか、いななき声?)を上げながら吹っ飛び、屋内の壁に激突。泡を吹いて倒れ、そのままピクリとも動かなくなった。

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