第5話 巡り会いの街

 恵美子えみこの話を聞き終えた市郎いちろうは、


「なるほど……。最近よく聞く話だ」


 と苦々しい表情で言い、コーヒーをすすった。加奈子かなこも「つまらない迷信のせいで、かわいそうにねぇ……」と気の毒そうに恵美子を見つめている。

 東吾とうごは相変わらずのしかめっ面なので何を考えているか不明だが、いつも持ち歩いている小さな手帖を取り出して何やら書き記していた。


 今は大正十三年(一九二四)の八月。ちょうど、十八年前の丙午ひのえうま年(明治三十九年)に生まれた女性が年頃の娘になっている時期だ。新聞記者の市郎は、「丙午生まれの少女が、縁談が破談になったことを嘆いて自殺した」というニュースをいくつも耳にしている。


「まったく……。どれだけ外面そとづらを西洋化しても、中身が江戸時代の人間のままじゃ、文明開化の意味がないぜ。こんなにも可愛らしい娘さんを嫁にもらいたくないだぁ? なんてもったいないことをする奴らだ」


「そやろ? そやろ? 世の中、理不尽やわ!」


 自分語りをしている間にまたもや感情が昂ってきた恵美子は、方言丸出しで叫んだ。


「ようやく憧れの東京に来たと思ったのに、有り金を全部盗まれてしまうし……。本当に私は不幸な女や! うわぁぁぁん!」


「お、おいおい。そんなに泣くなって。人間、生きていたらいいことはいくらでも……」


「私はこれからどうしたらええのぉ~? 私の明日はどこなん? 神様に教えてもらいたいわぁ~! びえぇぇぇん!」


 恵美子は、烈火のごとく再び泣き出した。これには市郎も参ってしまい、どう慰めたものかと困り顔になる。


 ちなみに、恵美子が「神様に教えてもらいたいわぁ~!」とわめいている横で、望子もちこは客からチップをまたもらって「ぐへへぇ~。銭や、銭や~」と怪しげに笑っていた。おい、呼んでるぞ、自称神様。




            *   *   *




 その後、恵美子は常連客で賑わうようになる夜の時間帯まで、さらにやけ食いをした。恵美子の常人とは思えない鉄の胃袋のせいで本当に食材の一部が尽きてしまい、東吾は慌てて近くの食料品店まで買いに走ることになってしまったのである。


「真庭さぁ~ん。お会計がとんでもない金額になっちゃいましたよぉ~?」


「ああ、別に構わないよ、モチちゃん。取材の必要経費として新聞社に払ってもらうから」


 市郎が冗談か本気か分からないようなことを言ってガハハハと笑うと、東吾が厨房から顔を出して「おいおい。それ、不正じゃないのか?」と言った。


「頼むから、新聞記者が経費横領の容疑で新聞に載らないでくれよな。あんたはうちの大事な常連客なんだから……」


「大丈夫、大丈夫。俺は見聞きしたことはなーんでも面白い記事にできる天才だからさ。ちゃんと今回の件も世のため人のためになる新聞記事を書くよ。そうしたら、経費に入れても問題ないだろ?」


「家出娘に飯をおごっただけで、面白い記事が書けるのか?」


「任せておきなって。……それより、恵美子ちゃんは泊まる場所はあるのか? いくら一文なしだからといって、年頃の娘さんが野宿するのは物騒だぜ」


「恵美子さんは、しばらくうちの家で預かることになったから、安心してくださぁ~い。私の父はお弁当屋さんだから、食いしん坊の恵美子さんにはちょうどいいですしぃ。うふふ」


 望子がウィンクをして、やたらと媚び媚びした口調でそう言った。望子は男性客にはいつもこんな感じなのである。


 神を名乗っているのに父親が弁当屋なのかよ、と恵美子は思ったが、泣くのに忙しい彼女はツッコミを入れる気力などなかった。


「ぐすっ、ひくっ……。私の明日はどこにあるんやろ……」


「はぁ~……。まだ泣いているのかよ、この家出娘は。あのなぁ、自分の明日がどこにあるのか知りたかったら、涙を拭いて前を向け。うつむいて泣いていても、自分が進むべき道は見つからないぞ。少し人生に挫折したからって、くよくよするな」


 東吾は、空の皿がうず高く積まれたテーブルに突っ伏して泣いている恵美子をそう叱り、さりげなくハンケチを恵美子の横に置いた。


「うえぇぇぇぇん‼」


「ぐっ……。う、うるさい。……俺だって泣いている奴に厳しいことは言いたくはないんだよ。でも、泣いているだけじゃ人間は挫折から立ち直れないんだ。そのことを銀座で生きている俺たちはよく知っている。一年前の九月、俺たちは震災で……」


「はいはい。ストップ、ストップ。辛気臭いお説教は恵美子ちゃんがもうちょっと落ち着いてからにしときなさいな。それに、泣くことも大切なことよ、東吾」


 そう言って東吾の言葉を遮ったのは、常連客の老紳士と世間話をしていたオーナーの加奈子かなこだった。


「姉さん……」


 ちょっと熱くなりかけていた東吾が姉の声で気持ちを鎮め、黙りこむ。すると、彼が黙ったのを見計らったかのように、店の奥に置かれている自動ピアノが、流行歌の『ゴンドラの唄』を奏で始めた。


 昼間にも蓄音機屋で聴いたその物哀しげなメロディーを耳にすると、恵美子はようやく顔を上げ、東吾のハンケチで涙を拭いた。そして、



  いのち短し 恋せよ少女おとめ

  あかき唇 せぬ間に



 と、囁くような声で歌うのであった。


 歌を口ずさむあどけない少女の表情を見て、加奈子は愛おしそうに微笑む。


「思いきり泣いたら、心が軽くなるわよ。だから、泣きたいだけ泣きな。腹の内に積りに積もった悲しみを涙で流しきってからでも遅くはないさ。再び歩き出すのは。……ちょっと立ち止まるぐらい、神様も許してくれるよ。きっとね」


「はい。……ぐすん」


 恵美子はハンケチでちーんと鼻をかむと(東吾が思いきり眉をしかめた)、自称神様の望子をチラリと見た。望子は、またお客からもらったチップを眺めて不気味に笑っていた。許すも何も、この神様は何も考えていないかも……と恵美子は思った。


「ねえ、恵美子ちゃん。まだ若いのに人生を諦めて自殺なんかしたら、せっかくこの世に生まれてきたのにもったいないわよ? そんな後ろ向きの考えは捨てて、ここでしばらく働いてみなさいな。銀座は巡り会いの街――色んな種類の人間と出会うことができる不思議な場所なんだ。星の数ほどの人間模様が見られて、多くの人間の価値観を知ることができる。だから、銀座で働いていたら、恵美子ちゃんが『私はこう生きたい!』と思うような人生観と出会えるかも知れないわよ。……あと、運が良かったら、素敵な殿方ともね」


「素敵な殿方……。でも、恋愛は不良のすることだって女学校の先生が……」


「あはは、ふっるくさいわねぇ。あんたもさっき口ずさんでいたじゃないか、『いのち短し 恋せよ少女おとめ』って。男女が出会えば恋に落ちるのが人の道理というものじゃないのさ。そんな旧時代的な教えは無視、無視! 新しい時代の女は恋をしなきゃダメよ? ただでさえ青春は短いんだからさ」


(なるほど。さすがは都会の美女や。考え方がハイカラやわぁ~)


 この時代、親同士が決めた結婚がほとんどで、自由恋愛をする若者は不良扱いされていた。そんな考えを古臭いと笑い飛ばせる加奈子という洋装の美女は、近頃よく聞くモダン・ガールなのだろう。


 恵美子は、憧れの眼差しで加奈子を見つめるのであった。

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