第4話 恵美子、己の不幸を語る

 さらに一時間後。


「お嬢ちゃん、よく食うねぇ……」


 東京みやび新聞の記者・真庭まにわ市郎いちろうは、呆れと感心、半々の気持ちがこもった声をもらし、正面に座る恵美子をまじまじと見つめていた。


 天も裂けよ地も割れよとばかりにギャンギャン泣き続けていた恵美子をピタリと泣き止ませたのは、この中年のおっさんである。加奈子と望子が全くもって泣き止む気配がない恵美子に頭を悩ませていると、一部始終を見ていた客の市郎が、


「お嬢ちゃん、何があっても死にたいとか言っちゃいけないぜ。そんな悲観的な気持ちになるのは腹が減っているせいに違いない。おじさんがおごってあげるから元気出せよ。好きなだけ食べていいからさ」


 と、声をかけたのだ。


「いいんですか⁉」


 恵美子は、市郎の誘いに食らいついた。そして、お店のメニューを片っ端から注文し、ごちそうにかぶりついた。


 たった一時間で、カレーライス三皿、オムレツ三皿、コロッケ十個、ビフテキ三皿、ハムエッグ八皿、五個入りサンドウィッチ四皿、ドーナッツ十五個、アイスクリーム十二杯をペロリと平らげ、ようやく満足したのか「けぷぅ~」と動物みたいなうなり声を上げてお腹をさすっている。


「ここのお店の料理が美味しくて、ついつい食べ過ぎてしまいました。えへへ」


 鼻にアイスをつけたまま笑う少女の無邪気さに、市郎も苦笑するしかない。


 カフェーいなりは、つい三か月前まではクソ不味い料理ばかりで、ひじょーに不評だった。しかし、ある日突然、一流の洋食屋顔負けの美味しい西洋料理を客に出すようになって、店の売り上げも倍増したのである。


「真庭さん、もう勘弁してくれ。これから常連客たちが来る時間帯なのに、食材が足りなくなってきた……」


 一人の若い厨夫コックが厨房から出てきて、渋面で市郎にそう訴えた。


 この青年、美男子と言っていいぐらいには顔が整っているが、常に眉間にしわを寄せて怒ったような顔をしているため、店の女給たちからは「あのおっかない顔、美人な加奈子さんの弟さんとは思えないわ。どちらかというと、武蔵坊むさしぼう弁慶べんけいの弟と言われたほうが納得できそう」と陰口を叩かれていた。


「俺に言うなよ、とう君。この子が食べるのをやめないんだから、仕方ないじゃねぇか」


「あなたのお金で食べているんだから、少しは遠慮しろと言えばいいでしょう」


「最初に、好きなだけ食べていいよと言っちまったんだ。それなのに前言を撤回できるもんか。こちとら江戸っ子だぞ」


「えっ、真庭さん、東京の人でしたっけぇ~?」


 望子もちこがおかわりのコーヒーを市郎の前に置きながらそう尋ねると、市郎は「いや、岡山県」と言って舌を出し、望子にチップを手渡した。もう四十代半ばになるのにお茶目なおっさんである。


 お茶目と言えば、神様(?)のくせして人間からチップをもらって「うへへ、うへへ。銭や、銭や……」と不気味に笑っている望子もある意味ではお茶目さん……いや、ただの不審者か。


「それにしても、上京して早々、スリに有り金を全部盗られちまうとは運のない子だぜ」


「本当、かわいそうに。東京にはスリが多いからねぇ。でも、あいつらは田舎から上京してきたばかりのお上りさんはあんまり狙わないって、真庭さんがだいぶ前に新聞の記事で書いていなかったかい?」


 市郎の隣のテーブルに座っている加奈子かなこが、ほつれ髪を指でいじりながら言った。市郎は加奈子のさりげない色っぽさに一瞬ドキリとし、ちょっと声を上擦らせて「ああ、加奈子さんの言う通りさ」と答える。


「お上りさんは、スリに警戒して厳重にふところの奥深くに財布を隠し持っている人が多いからな。どちらかというと、東京に住み慣れた人間のほうが油断していてスリにやられる傾向があることは調査済みだ。……でも、この子はよっぽどボーっとしていたんだろうなぁ」


 市郎が、見るからに世間知らずそうな恵美子を見つめると、恵美子はムッとした表情になり、「ボーっとしていたわけではありません!」と訴えた。


「憧れの東京にやって来て、ついつい浮かれて、注意力が散漫になっていただけです!」


「それをボーっとしていたと言うんだろ……」


 強面こわおもての青年――稲藤いなふじ東吾が呆れ顔でそう言った。むむぅ、と恵美子は唸る。


「お嬢ちゃん。腹がいっぱいになったところで、そろそろ身の上を話してくれないかね? お故郷くにはたぶん三重県だろうが、なんで若い娘が身一つで東京にやって来たんだい。家出か?」


「ええっ⁉ おじ様は、私の出身地が分かるのですか? まだ何も話していないのに……」


「お嬢ちゃん、さっき泣いていた時に言葉がなまっていただろ? 俺は若い頃から各地の新聞社を渡り歩いて来たからな。おおかたの人間は訛り言葉でどこの出身か分かるんだよ」


「そうなのですか。新聞記者さんって凄いのですね。……おじ様のおっしゃる通り、私の故郷は三重県の鈴鹿山脈のふもとにある農村です。親が土地をたくさん持っている大地主だったので、名古屋の女学校にも行かせてもらい、十五歳までは楽しい学校生活を送っていたのですが……」


 うつむきながらそう言うと、恵美子は我が身に起きた不幸をぽつぽつと語りだしたのである。




            *   *   *




 笑美えみ恵美子は、親が田舎の金持ちだったおかげで、子供時代は何不自由なく気楽に暮らしていた。


 でも、恵美子の両親にはある懸念があった。それは、自分たちの娘が明治三十九年(一九〇六)――丙午ひのえうま年の生まれだということである。


「丙午生まれの女は、気性激しく、夫を早死にさせる」


 などという迷信が世間にはあり、娘がこの迷信のせいで嫁に行き遅れたらどうしようと気に病んでいたのだ。


「のんびりしていたらダメだ。恵美子も法的に結婚ができる年齢になったことだし、名古屋の女学校から呼び戻して、急いで結婚相手を探そう」


 というわけで、十五歳の時に恵美子は隣村の金持ちの青年とお見合いをしたのだ。その青年は「僕はそんな迷信は信じないので、気にする必要はありません」と言ってくれた。


 結婚のために学校を退学するのはこの時代の少女にとってよくあることなので、恵美子も異論はない。ただ、憧れの東京には一度でいいから行ってみたかった、という小さな未練があっただけだ。


 丙午生まれなのに思ったよりも早くに旦那様が見つかって、自分は幸せ者なのだろう。良いご縁に巡り合わせてくださった神様に感謝しなければ……。


 そう思っていた時期が、恵美子にもあった。でも、いざ結婚せんとして学校に退学届を提出した直後、


「すみません。やはり、結婚できません……」


 と、婚約者が言ってきたのである。

 話によると、恵美子が丙午生まれだと聞いた彼の親戚たちが猛反対し、迷信深くはなくても気が弱い彼は押し切られて、「じ、じゃあ、断ってきます」と返答してしまったのだという。


 こうして、わざわざ学校を退学したのに、恵美子の縁談はあっけなく破談になってしまった。その後も両親は必死になって結婚相手を探したが、迷信深い人間が多い田舎のことなので、丙午生まれの娘を嫁に迎えようとする者はなかなか見つからなかった。見合い相手が恵美子を気に入ってくれても、江戸時代生まれの祖父母がしゃしゃり出てきて破談になるということが何度もあったのだ。


「三年で破談になること十二回……。もう嫌や! 丙午生まれの私はどうせ結婚できやんもん! 叔母さんからもらった縁結びのお守りも効かへんだし、私は神様に見捨てられてしもたんや! To be or not to be, that is the question(生か死か、それが問題やん)……。こうなったら、東京で豪遊して鬱憤うっぷんを晴らし、気が済んだらこの世とおさらばしてやる!」


 丙午生まれであることを悲観した恵美子はやけくそになり、家出した。そして、子供の頃からの憧れだった東京に単身やって来たのであった。

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