第41話『鍵穴』

 綾奈先輩の意識が一生戻らないことがあまりにもショックなのか。それとも、いつかは戻るとどこか信じているのか。はたまた、先輩と恋人になることができたことの嬉しさなのか。家に帰ってからも涙は一切出なかった。

 ただ、先輩のことを誰かに話さないと心が潰れてしまいそうで。なので、夜になってから美琴ちゃんの家に行き、今日起きたことを全て話した。

 ちなみに、夏実ちゃんとあかりちゃんには、綾奈先輩の恋人になったことと、入院して眠り続けていることをメッセージで伝えた。もちろん、サキュバスのことは伏せて。

 すると、2人から恋人になれたことを祝福され、綾奈先輩にはお大事という返信が届いた。


「なるほど。そういうことがあったんだね。恋人という関係になれたのは良かったけれど、だからこそ今の状況はより辛いよね……」

「うん。目が覚めるのを待つだけならまだしも、一生覚めることがない可能性があるって分かると、何とも言えない気持ちになって……」

「そっか……」


 すると、美琴ちゃんは私のことをぎゅっと抱きしめてくる。


「きっと大丈夫だよ。神崎先輩は絶対に意識を取り戻すって」

「……担当の先生でさえ絶対に戻るって言わなかったんだよ?」

「医療に絶対はないみたいだからね。あたしだって絶対って言った根拠はない。でもさ、絶対に目が覚めるって信じるくらいはいいじゃないか。その想いが通じるかもしれないし。目覚めたら信じた分、喜びも大きくなると思うからさ」

「……そうかもね」


 ただ、実際に心臓が止まったり、病床で眠ったりしているときの綾奈先輩を見た後だと、美琴ちゃんのように絶対に目が覚めると信じることはまだできない。もちろん、目が覚めてほしいと思っているけど。

 それから少しの間、美琴ちゃんの胸の中に頭を埋めた。美琴ちゃんの温もりを感じる中、恋人になって初めてのキスをしたときの綾奈先輩の体はとても熱かったなと思うのであった。




 6月24日、日曜日。

 今日はどんよりと曇っている。もし、綾奈先輩への面会が許可されたら、先輩のご家族や会長さんとお見舞いに行くことになっているので、できれば昨日のような強い雨は振らないでほしい。

 こんなにも気持ちの重い日曜日は初めてかもしれない。食欲もあまりなく、朝食がなかなか喉を通らなかった。



 午前10時過ぎ。

 香奈ちゃんから『病院からお姉ちゃんの面会が許可されました』とメッセージが来たので、綾奈先輩のご家族や会長さんと花宮総合病院の受付で待ち合わせすることに。

 病院の近くにお花屋さんがあるので、行く途中でガーベラのフラワーアレンジを買った。綾奈先輩は意識を取り戻していないけど、それでも病室にお花があれば少しは違うんじゃないかと思って。

 病院の受付に行くと、そこには既に綾奈先輩のご家族と会長さんがいた。


「お待たせしました」

「おはよう、百合ちゃん」

「おはようございます、百合さん。綺麗なお花ですね」

「近くのお花屋さんで買ったの。ガーベラっていうお花なんだ。彩りも鮮やかでいいかなって。希望っていう花言葉もあるの。それに、こういうフラワーアレンジなら、毎日コップ1杯くらいのお水をあげればいいんだよ」

「へえ、そうなんですね!」

「さすがは園芸部ね、百合ちゃん」

「白瀬さん、綾奈のためにありがとう。素敵なお花ね。きっと綾奈も喜ぶと思うわ」


 本当は綾奈先輩の好きな百合の花を持っていきたかったけど、匂いが強いから止めておいた。あとで、樋田先生に大丈夫かどうか聞いてみようかな。


「じゃあ、白瀬さんも来たから、手続きをして病室へと行こう」


 私達は面会の手続きを済ませて、綾奈先輩が入院している807号室へと向かう。

 静かで消毒液のような臭いが仄かに感じられる。この独特な雰囲気はひさしぶりだった。記憶通りなら、最後にお見舞いに行ったのは幼稚園の頃、父方の祖父のところへ行ったことかな。

 しかし、祖父はそれから程なくして亡くなった。なので、こういった雰囲気にいい思い出はない。むしろ、綾奈先輩が祖父のように病床の上で亡くなってしまうんじゃないかと心配になる。

 807号室に行くと、眠っている綾奈先輩のことを見守る樋田先生がいた。


「樋田先生、おはようございます。綾奈の容態が安定したことで、さっそく、面会に来ました」

「おはようございます。予想通り、一晩経って娘さんの容態は安定しました。あとは意識が回復するのを待つだけですね。昨日も言ったように、いつ回復するかははっきりとは分かりませんが。ただ、娘さんはサキュバス体質を持っています。そこに意識を早く回復させる可能性があるかもしれません。それについて私も探ってみたいと思います」


 そうか、綾奈先輩はサキュバス体質という普通の人とは違うものを持っているんだ。普通の人なら効果のないことでも、綾奈先輩なら意識を回復させる鍵になるかもしれないやり方があるかもしれない。

 ベッドの近くにある小さな机にガーベラのフラワーアレンジを置く。これで少しは病室が明るい雰囲気になったかなと思う。


「白瀬さん、それは病院の近くにあるお花屋さんで買ったんですか?」

「はい。先輩は意識を取り戻していないんですけど、それでも病室にお花があれば違うかなと思いまして」

「……そうですか。ガーベラは人気でいくつかの病室で見ますよ」

「そうなんですね。あと、訊きたいことがあるんですけど、綾奈先輩の好きな白百合の花を持ってきても大丈夫ですか? 百合の花は匂いが強いですから、今日は持ってこなかったんです」

「なるほど。大部屋だったらご遠慮していただくところですけど、ここは個室ですし、綾奈ちゃんの好きな花ということですから特別に許可しましょう」

「ありがとうございます!」


 もし、若菜部長や莉緒先輩、由佳先生に許可をもらえたら、園芸部で育てている白百合の花を持っていこう。ダメなら、お花屋さんで売っている白百合の花を持っていくことにしよう。


「……そうだ。白瀬さん。あなたは綾奈ちゃんの恋人と言っていましたね」

「は、はい! 倒れる直前に恋人として付き合うことになりました」

「なるほど。そこで訊きたいのですが……あなたは綾奈ちゃんとキスしたことはありますか?」

「はい。気持ちを確かめ合った後に、綾奈先輩の方からキスしてきて。女性の分泌液を接種すると気持ちが落ち着いたり、元の姿に戻ったりするということを知っていたので、唾液を先輩の口に流し込みました。ただ、すぐに先輩の息がなくなってしまって……」

「そうですか。1日で容態が安定したのは、恋人の唾液を少量でも接種していたこともありそうですね」


 綾奈先輩のために少しでも役に立ったのなら嬉しい。ただ、もう少し多く唾液を接種させられれば、今みたいな状況にならなかったのかもしれない。そう思うと後悔の方が強くなる。


「分かりました。じゃあ、綾奈ちゃんにキスして唾液を接種させてみましょう。白瀬さんが言うように、綾奈ちゃんのサキュバス体質は特に親しい女性の分泌液を接種するのが効果的ですからね。それに、恋人の唾液を身体で覚えているかもしれませんし。唾液がいい薬になるかもしれない」

「そ、そうですね……」


 唾液を身体で覚えているって樋口先生が言うと、とても厭らしく聞こえてくる。ただ、先生の言うように私の唾液が薬になる可能性もあるんだから、綾奈先輩にキスしてみよう。みんなに見られていると思うと恥ずかしいけど。


「綾奈先輩」


 私は綾奈先輩にキスして、先輩の口の中に唾液を少し流れ込む。こうしていると綾奈先輩の唇からも温もりはしっかりと伝わってきて、先輩が生きているのだと実感できる。

 唇を離すと……やっぱり、起きる気配は全く見られない。キスする前と比べて変わったのは、私が唾液を流し込んだことで口元が湿っているだけで。


「さすがに、すぐに先輩の目が覚めることはないですよね」

「まだ一度だけですからね。もし、白瀬さんさえよければ、定期的に綾奈ちゃんに今のような形で唾液を接種させたいのですが」

「もちろんです。先輩の役に立てるのなら嬉しいですし」


 ただ、その方法が口移しであることが恥ずかしいけれど。


「ありがとうございます。もちろん、白瀬さんだけじゃなく、親友の愛花ちゃんの唾液も接種させるとより効果が望めそうだけれど……」

「えっ?」


 突然言われたからか会長さんは甲高い声を挙げ、段々と顔を赤くしていく。私のことをチラチラと見ている姿が可愛らしい。


「樋口先生の言うことは分かりますけど、わ、私はあくまでも親友ですから。ただ、もし百合ちゃんの唾液だけでは効果がなさそうだと分かったら、そのときは……考えます」

「ははっ、分かったよ」


 綾奈先輩や私に気遣ってなのか、会長さんは樋口先生の提案に頷くことはしなかった。事情が事情なので、会長さんが口づけをする形で先輩に唾液を接種させてもいいとは思っている。嫉妬しちゃうだろうけど。


「そういえば、綾奈先輩は意識を失っていますけど、その間にもサキュバス体質の影響ってあるんですか? 私、先輩の姿を見るといつもドキドキするのでよく分からなくて……」

「基本的にはずっとフェロモンは出ていますよ」

「そうなんですか。……ということは、樋口先生もその影響を?」

「多少は……そうですね。初めて診察したときは、小学生にしてはやけに色気のある子だなと思いました。今も色気のある女子高生だって思っています。しかし、それだけなので安心してください。まあ、私が20歳以上若かったら好きだって言っていたかもしれませんが。あと、綾奈ちゃんに関わる女性スタッフも、サキュバスの影響をあまり受けない人達を選んでいますから」

「そうなんですか。ありがとうございます」


 女性の性欲を引き出すサキュバス体質を持っているから、色々と配慮しないといけないことがあるんだな。女子高生なので、緊急のとき以外は……やっぱり女性スタッフの方がいいだろうし。


「先生、これからも綾奈のことをよろしくお願いします」

「はい、お父様」

「白瀬さんや愛花ちゃんも綾奈のお見舞いに来てくれると嬉しい」

「もちろんです、清司さん。期末試験前で生徒会の仕事もお休みになるので、来週も放課後に何日かお見舞いはしたいなと思っています。そのときはなるべく一緒に行くことにしようか、百合ちゃん」

「そう……ですね。綾奈先輩に唾液を接種させたいですし」


 そうすることで、少しでも先輩の意識を取り戻す可能性が広げられればいいな。

 それにしても、綾奈先輩は今、どんな夢を見ているのだろう。あんなに辛い想いをしたのだから、楽しい夢を見ていればいいなと思うのであった。

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