第2話 マイク飛ぶ
「いやあ、無理だよぉ……」
ステージから客席を見下ろした亀ちゃんは、その光景に思わず深いため息をついた。
祭りのイベント会場には、近隣の市町村から大勢の人波が押し寄せてきており、見渡す限りお客さんでいっぱいだった。そのさらに遠くには臨時の駐車場があり大量の車が所狭しと規則正しく停まっている。
会場は近くを流れる川沿いの広大な土地だった。とはいえ河川敷ではなく、堤防の外側の土地を使っているが、それが不自然に広すぎるようにも見える。わざわざ祭りのために土地を開け放っているかのようだった。
近隣の市町村から集まったご当地グルメの屋台が勢ぞろいしていたり、芸能人がゲストに呼ばれていることもあって、祭りは大盛況の満員御礼状態だった。屋台それぞれに長い行列が出来ているし、芸能人目当てのファンたちはうちわやグッズ等を持って出番を待っている。普段亀ちゃんが出演するような、小さなライブハウスでのアイドルライブの観客とは比べ物にならない数と客層だった。
お客さんの全員がステージに見入っているわけではないし、まして亀ちゃんを知っている人など一部のアイドルファンを除けば皆無に等しい。要するにアウェーなのである。そう思うと会場にいるお客さんが敵意を持っているかのような錯覚を起こしてしまう亀ちゃんだった。
しかし今日の亀ちゃんの任務は、アイドルに全く興味のない人もファンになってくれるようなステージにしなくてはならないものらしい。強司が言うには。
いざ出演の出番が回ってきて、ステージに上がってみたものの、足がすくんで動けなくなるのだった。いつもの弱気と人見知りが存分に発揮されている。だからこそ深いため息がとまらないのだ。
思わずステージ袖を見る亀ちゃん。その先には強司と葵衣の姿がある。強司は何ごとか叫んでいるが、会場の喧騒にかき消されて何を言っているのか分からない。葵衣は人差し指をトンボに向けるようにグルグル回している。
再び客席を見る亀ちゃん。会場はなかなか進行しない事態に少しざわついている様子だった。棒立ちでこわばった亀ちゃんは遠くを見つめる。
遠くの空は厚い雲に覆われているが、祭りの会場だけは晴れ間が差している。接近しつつある台風の前線の影響とやらで、前日は雨が降り、祭りの開催が危ぶまれたが、夜には雨は上がり、祭りは決行となった。ただ今晩に予定されている花火大会は、今後の台風の影響次第では中止の恐れがあるとアナウンスされている。川は濁って増水しているし、上空の雲の流れは早い。
「あ、あの亀澤ゆか里です。亀ちゃんと呼んでください」
ようやく亀ちゃんが重い口を開いた。自信なさげな様子で客席を見渡すと、真剣に亀ちゃんを見ているのはわずかで、あまり関心がない様子だった。
「緑ヶ山高校から来ました。今日は歌とダンスを披露します。緑ヶ山高校アイドル研究部のテーマソングで"はっちゃけ人生"です」
浮かない表情の亀ちゃんとはうらはらに、軽快で底抜けに明るい曲が流れ出す。
"はっちゃけ人生"はアップテンポの曲調に元気なメロディが特徴の曲だ。歌詞もお気楽な能天気なもので、とにかく聞いて楽しい、歌って踊って楽しい曲なのである。細かいことなど気にせず、明るくはしゃごうよ、という歌である。
しかし亀ちゃんの表情はとにかく固い。緊張の面持ちが貼りついたように顔を覆ってしまい、まったくもってはっちゃけていない。歌は声が震え、ダンスも固さが取れずリズムがズレている。
冴えないステージに客席からは白けたムードが漂い始めた。時刻はお昼前。みんな食事に夢中になっているように見える。
亀ちゃんはこの雰囲気をどうにかしないといけないと思っていた。思っていたが、どうしたらいいのか分からずにいた。しかし今の亀ちゃんにはそんな余裕などなかった。テンポの速い曲についていくだけで精一杯だったからだ。
余計なことを考えながらダンスをしていた亀ちゃんの手から、あろうことかマイクがすっぽ抜けてしまった。
亀ちゃんの手から逃げたマイクは宙高く舞い上がり、放物線を描いてステージに落下した。固いもの同士がぶつかり合う耳障りな騒音が、雷のように会場に鳴り響いた。そのとたん会場にいた全員がステージにくぎ付けになった。そこにはろう人形のように固まってしまった亀ちゃんが真っ青になっていた。
静まり返った会場には"はっちゃけ人生"の伴奏が流れていた。
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