雨の日のクロちゃん
「おかーさん、クロちゃん知らない?」
わたしがそう言うと台所からお母さんの声が聞こえた。
「そういえば朝に出ていったきり見てないわねえ」
「おかしいなあ。こんな日にどこ行っちゃったのかしら?」
わたしは窓の外を見た。真っ黒な空から雨がザアザア降っていた。窓ガラスに手を押し当てるとひんやりした冷たさが体の芯まで伝わってきた。
クロちゃんはうちのネコだけど外ネコだからご飯を食べるとだいたい外に遊びに行ってしまう。でも今日はお昼にも帰ってこなかったし、いつもなら夕ご飯を食べにニャアニャア鳴きながら玄関の前まで来ている時刻だ。
それに今日は朝から雨が降り続いていた。どこか屋根のあるところで丸まっていれば良いのだけれど、もし道に迷って雨に打たれていたとしたら……。
冷たくこごえるクロちゃんを想像すると胸がザワザワと波立った。
お母さんは台所でトントンと包丁を鳴らしていた。お鍋からは温かな匂いが立ちのぼっていた。
クロちゃんも心配だけれどお腹も空いた。わたしは台所に駆け込んだ。
「おかーさん、今夜のご飯はなあに?」
「今晩はサチ子ちゃんの大好きなビーフシチューよ」
お母さんは振り返らずにトントン包丁を鳴らしながら言った。
わあい! ビーフシチューはわたしの大好物だ。
クロちゃんも早く帰ってくればいいのに。ビーフシチューは食べられなくても美味しいネコ缶と温かな寝床がある。
わたしはまた窓のそばまで行ってみた。窓はくもっていたけれど、さっきわたしが手をつけたところだけくっきりと手形がついていて、手形にそって水が流れていた。手形をすかして見るとうすぐらい庭には大きな水たまりが出来ていた。
二階の勉強部屋に上がる頃になってもまだクロちゃんは帰ってこなかった。
わたしはビーフシチューを満腹に食べたのでイスではなくてベッドに寝ころがった。食べてすぐ横になるとウシになるとお母さんは言うけれど、今のわたしはお腹のふくれたタヌキだと思った。あおむけになってお腹をたたくとポンという音がした。
なにかの気配を感じてわたしはあおむけのまま首をそらせた。すると窓の外に小さな黄色い光がふたつ並んでいるのが見えた。
クロちゃんだ!
わたしは満腹なのも忘れて飛び上がった。窓のそばへ駆け寄るとやっぱり光っているのはクロちゃんの目だと分かった。
「おかーさん! クロちゃん帰ってきた!」
雨が吹きこむのもかまわずにわたしは窓を開けた。クロちゃんは動かなかった。
しばし奇妙なちんもくが訪れた。クロちゃんは動かなかったし、お母さんの声も聞こえなかった。
何かへんだな。そう思って首をかしげたわたしはアッと声をあげた。
この勉強部屋にベランダは付いていなかった。そして、窓の外の手すりにはどこにもクロちゃんの飛び乗れるような足場は無いはずだった。
真っ暗な夜に雨がザアザア降っていて、そのなかにクロちゃんの目がギラギラと光っていた。
まばたきをすることもできずにいたわたしはやがてもう一つとても大事なことに気が付いた。
わたしはてっきりクロちゃんが手すりに乗っかっているのだと思っていた。夜だから暗くて体が見えなくて目だけが光って見えるのだと。
そうではなかった。
クロちゃんははっきりと目だけだった。そこにはギラギラと光る目が二つ、顔も体も持たずに空中に浮かんでいた。
「おかーさん!」
わたしはさけんだ。けれど、階下からは誰の声も聞こえてこなかった。
わたしはあわてて窓を閉めてカーテンもひいてしまった。そして、電気も消さずに布団の中に潜り込んだ。
にぎやかなスズメの鳴き声で目を覚ました。
わたしは足音をしのばせて下へおりると昨晩見たことをこわごわお母さんに話した。まるで他の誰にも知られてはいけない秘密を打ち明けるみたいに。
するとお母さんはこともなげに答えた。
「昨日は雨だったでしょう。だから流れちゃったんじゃないかしら」
「流れちゃった?」
「そうよ。だってネコは水みたいなものじゃないの」
お母さんは玉子焼きの切れはしをポンと口に放り込んだ。
わたしはそれ以上何も言えないまま台所をはなれた。
お茶の間にはさんさんと陽が差し込んでいた。昨日の雨がウソのようだった。縁側では朝食を食べ終えたクロちゃんがゴロンと横になっていて毛づくろいをしていた。
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