見覚えのある骨

 それは見たことのない川だった。


 川の流れには淀みが無く、淵から覗き込めば川底に大小の石が洗われているのが見える。それほど水量が多くない。向こうには河原らしきものも望めるのでズボンの裾をたくし上げれば渡れないこともなさそうだ。

 そんな川だった。

 とはいえ、橋を渡るのに越したことはない。

 私は上流へ向かって歩いていた。

 

 どれほど歩いただろう。行く先に人の影を認めた。

 川に向かって腰を下ろし、手には竿が握られている。

 釣り人のようだった。


「釣れますか?」


 近づいた私は自然に口にしていた。


「さっぱりですねえ」


 釣り人もまた当たり前のように返した。


 釣り人は釣り竿から真っ直ぐ垂れた糸の先を見詰めたままであった。その先にあるであろう浮きの動きはここからでははっきりと確認できなかった。

 さっぱりと言いながら彼はそれもまた釣り人の礼儀とでもいうようにここから腰を上げようという素振りをちっとも見せなかった。

 私は彼の後ろに佇み、見えない糸の先を見ていた。


 川面を風が渡ってきて私の頬を冷ました。どこからか甲高い鳥の声も聞こえてきた。

 あれは何という鳥だろう?


「おっ」

 初めてのアタリが来た。釣り人は竿を引いた。

 その先に現れたのは黒く変色した枯れ木であった。


「おや残念」


 釣り人は枯れ枝を針から外すと川へ放り、また針をその向こうへ投げた。

 そういえばエサを付けている様子は無かった。


 それからも幾度かアタリが来たが、どれもこれも釣果とは言えないものばかりだった。

 あるときは空き缶。

 あるときは長靴。

 あるときはヤカン。

 

 またあるときは魚の骨……。


「ちょっと待ってください」

「おや、どうしました?」

「それ、おかしいですね」

「これがですか?」

 釣り人は竿から外したばかりの魚の骨を私に掲げて見せた。

「はい。それです」

「はて。川で魚の骨がひっかかるのは不思議とは思えませんが。少なくともヤカンを釣り上げるよりはね」

 私は釣り人の手から下がるものをじっくりと見詰めた。間違いない。

「いえ、その魚が妙なのです。だってそれフグの骨ですから」

「フグ?」

「はい。フグの中でもカエル骨などと呼ばれる部分です。ご存じでしょう、フグは海に棲む魚ですよ。なぜこんな川に骨があるのか」

「おや、ずいぶんお詳しいですねえ」

「だって私は……」

 

 そこまで言うと私は口を噤んだ。

 なぜそうしたのか自分でも分からなかった。しかし、その先を告げることがどうしても私には出来なかった。

 私は釣り人の背中を離れた。そして、さらに上流へ向けてとぼとぼと歩き出した。


 目を開けると妻が私の顔を覗き込んでいた。

「まあ! お父さん気が付きましたか!」

 どんよりとした頭の中で妻の声と、それから何人かのそれが入り交じって聞こえた。ずいぶんと騒がしかった。

 私はどこか知らない真っ白な部屋に横たわっていた。

「山場は越えたようです。本当に良かった」

「先生方、どうもありがとうございました」

 涙ながらにお礼を言っているのは妻だ。

「もう本当にこの人はバカなんだから。釣ってきたフグを自分でさばいて食べるだなんて……」

 

 フグ?


 ああ、そういえば……。

 私は目を瞑った。知らない鳥の鳴き声と共に、口の中に例えようのない旨味が蘇ってきた。

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