契り

深山純矢

契り

「──なぁ、やってみない?」


酔客の声に負けないようにボリュームを2つほど上げて、直樹は言った。俺は、良く冷えた生ビールをのどに流しながら、片手で奴の話を制す。ゴクッゴクッとのどを鳴らし、一気に空けて、タンッとジョッキをテーブルに落とす。


「かぁ〜旨い! 死んでもいい!」


お気に入りの居酒屋で飲む生ビール、最高だ! お通しの、茄子の揚げ浸しニンニク醤油を一つつまみ口にほおりこむ、──これまた美味。


「で、何だっけ? 何の話?」ふたつめの茄子に手を付けながら俺は直樹との会話を戻した。


「だからぁ、呪いのアパートだって」メニュー表に目をやりながら直樹が言う。


「ああ、はいはい、──アパートね、そんで? 何で俺が住むの?」


「実はさ、次はホラーを題材で書きたいんだよね」


自称小説家の直樹、小金もちの家庭でニート暮らし、まあ、たまに家の仕事を手伝っているらしく、ニート呼ばわりすると結構マジで怒る。二十一歳にもなって定職にも就かず、フリーターで好きなことやってる俺も、他人のことは言えないけどね。


二杯目を注文しつつ直樹は続けた。「それで、K町にあるアパートなんだけど、結構ヤバイ噂があるのよ」小声になり、雰囲気をだそうとした直樹だったが、周りがうるさくて聞こえないことに気付き、声量をボリューム3に戻す。


「そのアパートに住んだ人達はさ、みんな普通じゃなくなるんだって」


「普通じゃなくなる? ──具体的に頼む」


「ノイローゼだろ、鬱に、自殺未遂──」右手の指を折りながら直樹は答える。


「などなど、まあ全部人に聞いた噂だけどね」


「ようは、精神に異常をきたすってことか、そんでその原因が、──呪い?」


「だからぁ、それを純哉が体を張って調査するんだよ」なんでそんなことも解らないんだくらいに言い放った。


「なんで俺がお前の小説の為にお化け屋敷に住まなきゃならねんだよ」


「だって純哉、部屋探してるって言ってたじゃん──」


「ああ、確かに探してる、だが、そこに住むいわれはない」


「それがさ、そのアパートそんな噂が広まちゃったから、入居者全然入らないらしくて、今はただみたいな家賃で貸してるらしいんだよ、お前、金ないんだろ」


流石、俺を一番よく知る男、痛いところをついてくる。確かに金はない、身の丈に合わない買い物をしてしまい、高額ローン返済中だ。それで、今のアパートより安い部屋を探している。


「そこでだっ! 俺からの提案」急に声を張る直樹、ボリューム6。俺は隣の席のサラリーマンに軽く頭を下げる。


「俺は小説のネタにそのアパートを調査したい、お前は安いアパートに引っ越ししたい、利害の一致だな」 


「お前は得しかしてねぇだろが」素早く突っ込む俺に、直樹も切り返す。


「調査費として半年分の家賃を俺が払う、それで何もなければそのまま住めばいい」


「何でそこまでする? おまえが住めばいいだけじゃねぇのか?」俺のごもっともの疑問に、目を見開き驚いた顔で応える。


「えっ? 何で? 嫌だよ、怖えーじゃん! 俺、呪われたくないもん」清々しい位の素直さ、昔からだがいい性格している。


「俺が呪われるのはいいってことか?」


「でも純哉、お前、呪いとかそういうの信じてないじゃん」


「そりゃそうだが、わざわざ変な噂がたっている場所に住むことはないよな」俺はそう言うと、この店自慢の焼き鳥を頬張り、奴の反応を待った。


どん! とテーブルを叩き、

「......分かった。半年後に取材費で五万円出す。それでどうだコラ! あっ? 貧乏人!」五本の指をおっ立てて、俺の顔の前までもってくる。

 

口の悪い男に向かって俺が言う。「あと、ここの払いもな」泣きそうな直樹の顔をしたり顔で眺め、俺はこの店で一番高い刺身の盛り合わせを注文した。


 


 後日、ふたりで不動産屋に向かった。事前に直樹が下調べしていたので、例のアパートを管理している不動産屋はすぐにみつかった。担当のおっさんと部屋の詳細、間取りや住所が書いてある紙を見ながら、いろいろ話を聞いた。


事故物件ではない、3年前に建て直ししたが、その前のアパートでも人が亡くなるようなことはなかった。何故か男性の住人ばかりがこの部屋を借りる、一年、早ければ二、三ヶ月で退去。入れ替わりが激しく、変な噂が立ち、家賃を下げざる得なくなった。


実際、K町の家賃相場を確認したが、その部屋は相場の半分以下だ。


「何故、前の住人の方達はすぐに出ていかれたんですか?」俺はストレートに聞いてみた。


「私共は退去される理由までは聞きませんので、分かりかねます」


そのあとも、幾つか質問してみたが、守秘義務やら個人情報保護法がなんちゃら言われ、上手くはぐらかされた。直樹は事前に情報をあまり入れたくないらしく、ほとんど口を挟まない。


得るものも無さそうなので、契約の話に移ろうとした時、直樹が「ちょっといいですか」と口を開く。それから、直樹の家賃値下げ交渉が始まった。すでに、かなり破格だと思うが、相手の足元をみて話を進める。こっちは無理に借りる必要もないので、強気の交渉ができた。


結果、家賃を二千円下げることに成功。契約書に判子を押して、前払いで家賃半年分を直樹が支払い、鍵を受け取り不動産屋を後にした。


最寄り駅に着き改札を抜けK町に向かう。駅から少し歩くと商店街があり、わりと賑わっている様子。商店街を抜け右に曲がり、しばらく歩くと大きな神社が見えてきた。地図を確認すると神社と反対側の歩道を少し行った所にそのアパートはあった。


外観はグレーでメゾネットタイプのアパート。部屋数は4つで、俺の部屋は向かって一番左の101号、例の部屋だ。築三年だけあってまだ綺麗な外観を保っている。


「おいおい、なんか良い感じじゃないか?」何故か残念そうに直樹が言う。


「俺的にはツタとか壁にわさわさっと絡み着いてて、おどろおどろしい感じが──」


直樹を無視して預かった鍵で早速ドアを開ける。玄関に入ると、正面に2階に上がる階段が見える。三和土を上がり、左のドアを開けると六畳の洋室、中に入り左手、アパートの正面になる部分に、小さいながらテラスがあり、右手には五畳程の、ダイニングキッチン、風呂、トイレがある。風呂とトイレ別は俺の中で高得点。


とりあえず、換気のため部屋中の窓を開けていく、階段で二階に上がるとすぐにドアがあり、開けると五.五畳の洋室、左手にある間仕切り扉を開けると六畳の和室、奥にベランダ、両方の部屋に一畳位の押し入れがある。


全部の窓を開けてから畳に座り込み、そのまま大の字に寝転がる。畳の匂いがする。たまに嗅ぐと妙に落ち着く。


「幽霊のでる部屋には見えねぇなぁ」いつの間にか隣の洋室にいた直樹は部屋を見回しながら一人ごちた。


俺は身を起こしあぐらになる。


「お前の一人損になりそうだな」直樹は俺の隣に腰を下ろした。


「ああ、だが、火のないところに煙は立たねぇからな」と、不適な笑みを浮かべる。


「そういうもんかねぇ、──ところで調査って何をすんだよ?」


「んっ、ああ、特に何も、此処で暮らしていれば何か起きるだろう、それを、五日に一回程度、報告してくれ」


「そんなんでいいのか? カメラを仕掛けたり──」


「そんな物仕掛ける金はない」直樹はピシャリと言った。


「でも、何も起きなければどうする?」


「あまりに何もなければ、こっくりさんとか、ひとりかくれんぼなり、やってもらおうか」


「こっくりさんは分かるが、ひとりさくらんぼってなんだ?」初めて聞く言葉、疑問をぶつける。


「さくらんぼじゃねぇよ、かくれんぼ。降霊術の一種で、......まぁいいや、やる時に説明する」


「さてっ」と直樹は立ち上がる。


「そろそろ、親父のワンボックスが使える時間だ。さっさと引っ越しやっちまうか」大きく伸びをした。


男の独り暮らしだ、荷物なんてたかが知れてる。ワンボックスを二往復で事足りた。元々六畳一間の部屋の荷物も、一時間で片付いた。


住人への挨拶もすまし、二人で引っ越し蕎麦を食い、解散する頃には22時を回っていた。心地よい疲れの中シャワーを浴び、缶ビールを二本空け、その日はすぐに床に着いた。




「でっ! どうだった?」せっつく直樹をまあ待てと、片手で制す。ゴクッゴクッとのどを豪快にならし一気に空ける。


「かぁ~ 旨いっ! 死んでもいい!」


「死んでしまえ」ボソッと呟く直樹の声を、俺は聞き逃さない。


今日は、第1回調査報告会。あのアパートに住んで五日が過ぎた。目を輝かしている直樹を見ているのも心苦しいので、単刀直入に言う。


「──結果から、言うぞ」息を飲む直樹。


「幽霊は見ていない、呪われた実感もない」露骨に嫌な顔をする直樹。


「──くそぅ、......くそー!」そう言うと、ジョッキを持ち上げ一気に煽る。


だが、まだ話は終わっていない、「でもな、──」俺がそう言うと直樹は片手で待てと、俺を制す。これは、やられると結構ムカつく。


どんっ、とジョッキを下ろし、なげやりに「で?」と一言。


「音がな、──するんだよ」直樹の目に若干の光が戻る。


「音? どんな?」


「畳を擦るような音だろ、床に何か転がるような音、──壁をノックする音」


「マジ、......で? え? お前、怖くないの?」


「怖えーよフツーに、でも音だけだから、なんか慣れてきたわ」


「慣れるんだ?」何やらメモを取り出し、書き始めた。そのまま、いつ、どこで、どんな時? と、事細かく質問され、一通り説明した後、俺は一番気になる事を直樹に尋ねた。


「寝室を2階の洋室にしてんだけどさぁ、隣の和室から畳の擦れる音がさぁ......、日に日に近づいて来てるっぽいんだよね、──俺のベッドに」


「怖えぇぇ、やめろお前、嘘だろ? どっかで聞いた事ある話だ、作り話だろ?」


「いや、本当。こう言うときは寝床を変えたほうがいいのか?」


しばらく絶句していた直樹が口を開く。「悪りぃ、──分からん。調べておくよ」それから二、三、直樹の質問に応えると、その場はお開きとなった。


結局、寝床を変えてもそっちに来たら同じだと思い、俺は同じベッドで寝続けた。


擦る音は相変わらず、近づいて来ているように感じたが、なるだけ気にしないようにしていた。




薄暗い部屋に灯る光、──影が揺れている、蝋燭の火だろうか? 薄い布団に寝ている。


そして、俺の上に股がる赤い着物の女。両手で俺の首を抱えた状態で、顔は向こうを向いていて見えない。髪は結っておらず、黒く美しい髪がゆらゆらと揺れている。


ゆっくりと動かしていた女の腰が徐々に激しくなる。大きくなる女の喘ぎ声に興奮して、俺も負けじと下から突き上げる。


暫くの快楽の後、互いが絶頂に達した。俺の上でぐったりとする女が愛おしくなり、顔が見たいと女の肩を持ち上げる。女の長い髪が俺の顔をすべっていく、女の横顔が少し覗いた──。


そこで目が覚めた。部屋の天井を眺めながら、妙に生々しい夢の余韻に浸っていたが、パンツの中の違和感に気付き、着替えるために脱衣場に向かった。




「相変わらず、音だけか?」前ほどふざけた感じはなく、少し心配してるようにも見える直樹との、第2回調査報告会が始まった。


「そうだな、まだ幽霊は見ていない、ただなあ、──この前、夢精した」


「はっ!? 何ふざけてんだお前、俺は純哉の性生活を書きたいわけじゃあねぇぞ」


「んなこたぁ分かってんだよ、まあ聞け。擦る音は相変わらずだったんだよ、近づいてくる気配、でもな、その夢を見てからは擦る音だけぱったりとしなくなった」俺は一呼吸おいて、続ける。


「あの夢と何か関係があんのかもしんない、根拠はないけどそんな気がすんだよなぁ──」


「どんな夢なんだよ?」


「エッロイ夢だよ......」正直、あまり話したくはない。


「全然分からん、話せよ」


取材費を貰う以上、話さない訳にはいかず観念して着物女との情事を話した。


「なるほど、まあ普通に考えれば毎日少しずつ純哉に近づいて、その日に到達し、夢に現れた......か、それから何か変わった事は?」


「別に、相変わらず擦る以外の音は聞こえるけど、それくらいだな」


「そうか......、しかし、その着物の女は何者なんだろうな? あのアパートの元凶なのか?」俺に分かるはずもなく、首をひねる。黙っていると、直樹が独り言のように喋りだした。


「夢の部屋の雰囲気は、──遊郭の部屋だな。蝋燭ってことは古い時代......照明は無かったんだろ?」


「ああ、無かった」


「と言うことは、──電気、普及......明治だから......それ以前」と、ぶつぶつと呟き、独りの世界に入って行く。こうなると直樹は長い。


「先に帰るぞ」と、一言いうと、直樹は片手をヒラヒラさせ、それだけで挨拶をすませた。




ぬるめの湯にゆっくりと浸かり入浴をすませた。くつろごうと冷蔵庫からビールを取り出し、2階に上がる。夜風で涼もうと窓を開けて、網戸にした。明るいままだと外から丸見えなので、常夜灯にして明かりを落とす。ついでに和室の換気でもしようと仕切り扉を開けた。


思考より体が先に反応した。一瞬で全身が粟立ち、扉を開ける手が止まる。半分ほどひらいた扉、その先にそれはいた。


横座りの状態で顔は俯き、黒く長い髪を下に垂らし、赤い着物を纏った女。


怖い、......俺は初めて本当の恐怖を感じた。身体が硬直して動かない、いや、動くのだろうが、少しでも動けば相手がすぐさま飛び掛かって来そうで動けない。まばたきすら、目を閉じた瞬間に何かがおきそうでできない。


全身から嫌な汗が流れ、開きっぱなしの目から泪が落ちる。すると、女は横座りのまま、指を下に、手の甲をこちらに向けた左手を、ゆっくりと上げる、胸の辺りで下を向いてた指を上に返し、──止まる。


何か女の左手に違和感を感じたが、そんな事を考えてる余裕はない。逃げたい、しかし動かない身体、そして、俯いていた女の顔がゆっくりと動きだす、顔を上げようとしているのだろう。


ヤバい、今でこの状態だ、目でも合おうものなら、俺の精神は持たない。そんな俺の気持ちなど関係なく、女はゆっくり顔を上げてくる。


その時、テーブルに置いてあるスマホが着信した。その音をきっかけに固まっていた身体が動く。頭が命令するより先に体が走った。スマホを拾い上げ、階段をかけ降り、一目散に玄関を飛び出した。


アパートから距離を置き、すぐに電話する。コール音がもどかしい──、8コールで間の抜けた声がした。「もしも~し」


「直樹か、でたぞ! やばいっ、マジででた!」


「なんだよ? でたでたって、また夢精でも──」


「ちっげぇーよ! 馬鹿野郎! ふざけてんじゃねーよ!」俺は恐怖を打ち消そうと怒鳴り声になってしまう。


「おいおい、なんだよ、どーした? とりあえず落ち着けよ、今何処だ?」


それから、近くのファミレスで落ち合うことにした。


「なるだけ急いで向かう、お前は深呼吸でもして待ってろ」


人と話すことで俺は、少し落ち着きを取り戻してきた。「怒鳴って──、悪かった」珍しく素直に謝る俺。


「ああ、じゃあ、すぐ行くわ」と電話を切ろうとする相手を呼び止める。


「ちょっと待て直樹、ついでに何か履くものを持ってきてくれ」


俺は、裸足で部屋を飛び出していた。





俺は裸足なので店には入れず、ファミレスの駐車場でうずくまり直樹をまった。やがて頭上で声がした。


「おす、とりあえず中に入るか」とサンダルを投げながら直樹が言った。


席につき対面する俺の顔を見て顔をしかめる。「酷い顔だな、真っ青だぞ」それだけ言うと、俺の気持ちを汲んでいるのだろう、こっちから話すまで待つつもりのようだ。


冷たい水を一気に飲み干し、ふぅ〜と長い息を吐き、さっきの出来事を話した。


一通り話を聞き終え、直樹が口を開いた。「でっ、どーする? 実際でるのなら、あそこには住めないだろ?」


「そんなこと言っても、引っ越しをする金がねぇ。貯まるまでは住まなけりゃ......」先ほどの恐怖が甦りテーブルで頭をかかえる。「純哉、その指どうした?」と、直樹が言う。──指? 頭から両手をテーブルに下ろす。


「......なんだよ......これ?」俺の声は震えていたと思う。左手の小指に、小さな無数の傷がつき、血は出ていないが沢山の傷で指が真っ赤に見える。


「......なぁ直樹ぃ、なにこれ? 」涙声で問う。


「俺にも分からない。──でも、あの部屋からは離れたほうがいい」直樹の冷静な言葉に腹が立った。


「なんでおまえはそんなに冷静なんだよ!」テーブルを両手で叩くと立ち上がり、叫ぶ。まわりの客の視線が刺さるが、知ったことか、直樹を睨み付ける。


奴は俺の目を真っ直ぐに見て言う。「俺だって怖えぇよ、でも、ふたりでパニクっててもしょうがねぇだろうが!」立ち上がり、俺の肩に手を置き、座らせる。完全に八つ当たりだ、解ってる、俺は、恐怖と情けなさで声を殺し泣いた。


「家に使ってない部屋があるから、金が貯まるまでそこで暮らせ、明るくなったら一旦帰って必要なものだけ運んじまおう」


俺はうなずく事しかできなかった。



深夜2時を回った頃から、体がだるい。恐らく熱もあるだろう。ふしぶしも痛く、風邪をひいたようだ。直樹にその事を伝え、テーブルに突っ伏し少し休ませてもらう。


「そろそろ、行くか」と直樹の声、どれくらい経ったのか、時間の感覚がない。重い頭を上げると、空は明るくなっていた。


スマホしか持っていない俺の分も、直樹が会計を済ませ、ファミレスを出た。重い体を引きずりながら歩くと、アパートが見えてきた。恐怖心はまだあるが、何より横になりたかった。鍵のされてないドアを開け、中に入る。


「悪りぃ直樹、俺ちょっと休んでいいか?」


「ああ、勿論、俺も少し寝かせて貰うよ」


まだ早朝なので、バイト先に人はいないだろうと電話はやめて、休みたいとメールを一本打ち、そのままベッドに倒れ込んだ。



冷たいタオルが額に乗せられ、目が覚めた。


「悪い、起こしちまったか」


目覚めても、体はだるく、熱も下がってないようだ。


「どうだ、調子は?」と、直樹がペットボトルの水を差し出す。上半身を起こし受け取り、一口だけ飲んだ。


「良くないな、さっきより悪いかも」


「だろうな、熱も下がってなさそうだし、あと、──指も酷くなってる」言われて指を見ると、無数の傷口から膿が吹き出し、小指全体がぐちょぐちょとしてグロテスクだ。直樹曰く、拭いても拭いても膿が出てくるらしい。


「どうなっちまうんだろうな、俺?」グロテスクな指を眺めながら弱音がでた。


「とりあえず、お前が起きたら病院に行こうと思ってたんだ。車を取ってくるから、少し待っててくれ」


「えっ?」と直樹に顔を向ける。俺の顔は相当、不安そうな顔になっていたんだろうな、直樹が諭すように優しく言う。


「こんな真っ昼間から、流石にでてこないだろ。すぐ戻るから寝てろ」時計を見ると、正午を少し回ったところだ。ひとりになる不安はあったが、やはり、明るさは恐怖心を和らげる。


直樹が出て行き独りになり、眠ろうと努めるが、つい先程まで寝ていたので寝付けない。何度か寝返りを繰り返した後、尿意を感じた。そう言えばしばらくトイレに行ってなかった。ふらつく体を慎重に進め、階段を降りる。小便を済ませ、ついでに汗をかいた服を着替えた。


階段を上がるのがしんどく、手をつきながら四つ足で登る、四つん這いで寝室に着き、ベッドに向かう。苦労してたどり着いたベッドに腰掛け、テーブルの水を取ろうと、ふと隣の和室に目がいった。


「......なん......で?」カーテンを閉めてはいるが、充分明るい和室にそれはいた。昨夜と同じように横座りで俯き、左手をゆっくりと上げている。


俺は恐怖と、朦朧とする頭で訳が分からなくなっていた。......何故? なんで俺がこんな目に? こいつは、──何? 恐怖の次に俺から涌き出た感情は、怒りだった。


「何なんだよっ! お前はっ! あぁ!?」言うと同時に部屋中の物に当たり散らす、テーブルの物を手で払い落とし、カラーボックスを倒し、カーテンを引きちぎる。恐怖心と怒りで暴れるが、弱った体はすぐに膝をついた。息を切らし女に目をやる。


左手をこっちに向け、今は顔も上げている。その顔は、蒼白く美しい。怒っているようにも、泣いているようにもみえた。


上げている左手、──違和感の正体。女の左手、小指が短い......、第一間接が欠損していた。


「それかぁ、...... あぁっ! それなのかぁ、あー!?」 言いながら、辺りを見回す、散らかった部屋からハサミをみつけ素早く拾った。


「ほしけりゃ、くれてやるよ!」


俺はそう言うと、右手で持ったハサミを左手の小指にはさみ、力一杯右手を握った。


「ぐうぅわあぁぁぁー」激痛。流れ落ちる血。痛みと熱で意識が飛びそうになる。側にあるテーブルを脛で蹴り上げ、意識を保つが、所詮は文房具のハサミ、肉は切れても骨までは断てない。俺はハサミを投げ捨て、血と膿でグロテスクな小指を口に含み、力の限り噛みついた。激痛で震える左手、力を込めて震える顔。


「ごりっ」と鈍い音が頭に響き、口から指が離れる。ぺっと口から小指を吐き出し、右手で取る。「ほらよ」と、それを女に、ぽいっと放り投げた。


頭が朦朧とする......左手が痛い......涙で滲み女の顔が見えない......。そのまま、ゆっくりと意識の底に沈んでいった。





気がついた時は病院のベッドの上だった。二日間眠りっぱなしだったらしい。


俺の意識が戻ったと連絡を受けた直樹は、誰よりも早く駆けつけた。涙と鼻水でグシャグシャの顔で全部俺のせいだと、俺も指を切って責任をとると大騒ぎした。


結局、お前の指なんか要らねえから、小説で賞でもとって賞金を寄越せってことで落着した。


俺は左手の小指を第二間接まで失った。直樹は現場を散々探したが、何処にも指は無かったそうだ。例え見つかったとしても、切断面がぐちゃぐちゃすぎて、綺麗にくっつけるのは無理だったらしい。そりゃそうだよな、噛み切ったんだし。


これでまた、頭がおかしくなった男が、自分の指を食いちぎったなんて噂が広まるのかもしれない。でも、まあいいか、俺はあのアパートを出る気はないしな。


もう、あの女はでてこない確信がある。あの時、俺のやったことが正解なのかは分からない、だけど、指を女に渡し、気を失しなった時に俺は夢を見たんだ。


遊女になった巫女の悲恋の物語。


あの女が見せたものなのか、俺があの女のイメージで勝手に見たものなのかは分からない、だが俺の指一本であの女が報われるなら別にいいかなと、──今は思える。


何で、報われたか分かるかって? それはあの時、気を失う寸前に微かな意識の中で、確かに俺は声を聞いたんだ。


「ありがとう」と。


完 ~good end〜






「いいよ、いいよ! 直樹君、良く書けてる。これ実話なんだって? いやー良い。編集長に押しとくよ」


「ありがとうございます」丁寧に礼を言い、出版社を後にした。


結局あの後、一週間後に純哉は、──死んだ。


俺は思う。純哉があの時聞いた声は、こう言っていたんじゃないだろうか。


「ありがとう。これでずっと一緒だね」と。


完 ~Bad End~

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契り 深山純矢 @gladiolus2412

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