第5話

それはまだ昏先が警官としても妖怪としても経験の浅い頃の話である。


『一つ、雑念を持つ者を救うべし。

二つ、恐怖摂取量は最小限にすべし。

三つ、純粋な恐怖を喰うべからず。』


新人研修の時期になると、その警察署ではそんな書が各部署の長の席の上に掲げられた。

昏先はその理由をまだ知らなかった。

同期の一人、天狗の為楽するが五百吏いおりも、理由を知らぬうちの一人だった。


新人研修は、食料である人間の恐怖の代用となる新薬の生産工場見学であった。

まるで学生じゃないか、と為楽は言って怒っていたが、昏先は案外それが楽しいと思っていた。


五百吏は昔から昏先を好敵手として見ており、彼にとって昏先は目標であり越えるべき壁であり、師でもあり友でもあった。

昏先は何とも思っていなかった故に、良く意見が衝突する事もあった。


生産工場見学の後、五百吏の言動は次第に外罰的になっていった。まるで何もかもをただの敵として見ているかのような態度に、同期の昏先でさえ彼を遠ざける様になっていった。


そしてそんな風に時の流れた或る雨の日、その後の昏先を形作る出来事は起こった。




例の工場の長が売上金を偽装し着服、更に時の国会議員とも癒着していた事が発覚し、工場に家宅捜索に押し入った時の事だ。

昏先と為楽はその時同じ班として突入し、工場で生産された薬物等の押収を担当していた。

だがこの時、為楽がしでかした事を昏先は見逃していた。為楽は工場の薬物を一部隠れて自分の懐に仕舞っていたのだ。

彼は家宅捜索が終わるや否や、その薬物を自分に注射した────濃度調整加工を施す前段階の、純粋な恐怖を────。




昏先は化猫の眼を見て、刹那の間隙にその時狂った様に暴れる為楽の姿を重ねた。

事件当時の為楽の眼も今の化猫と同じ瞳の色をしていた。知性を欠いた、獣の如き眼。


「……まさか化猫、【あの薬】を……!?」

「ふっ、ふはははははははははははははは」


傷付いたCDを再生した時の様に、化猫は乾いた笑い声を挙げた。


「今の今まで気付かなかったんだな昏先。こうなる前に気付いて止めてくれたなら、私はきっと、溺れずに済んだだろうに────」

「もう、戻れないのか」

「どうしようも無い。昏先、せめてお前の手で終わらせてくれ。残りの【ブツ】は事務所の隣町、商店街の路地裏だ……。

早くしろ、自分で抑えとくのにも限界が……ッッ」


昏先はぶつける場所の無い怒りと、過去の後悔が込み上げてきた気持ち悪さでどうにかなりそうだった。

躊躇ためらっている間にも、探偵の変化術は解けかかっていた。全身の毛という毛が逆立ち、血走った眼は今にも落ちそうな程見開かれて、そこにいたのは探偵とは到底形容出来そうもない獣そのものであった。


「化猫────。すまなかった……!!」


目元に光るものを溜め、滲んでぼやけた視界の中昏先は銃口を獣に向けた。

もう何も見えない。そこにあるのは深い自責の念と後悔、激しい怒りだけだった。


「……グッ……グルルルルル…………」


獣が唸りを挙げた、その直後。

地獄の焦土を蹴る音と銃声が重なった。

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