小さな島の白い家

「哲ちゃん、ありがとう。いつも悪いわね」

「いやぁ、なんてことはないよ。今日の荷物は重いけど、大丈夫?」

「もう慣れたから、平気よ。それより、明日も荷物が届くと思うから、よろしくね」

「了解。じゃ、また明日」

 そう言って、哲也は操舵室へ戻り、船を後進させた。漁船を旅客用に改装した海上タクシーだ。狭い港内で器用に向きを180度変えて、哲也が操船する海上タクシーは小さな港を出て行った。それを見送ると、ヒカルは哲也から受け取った荷物をキャリーベルトに縛り付け、背中に背負った。哲也の船から降りたお婆さんが、そんな重い荷物、ひとりで大丈夫か?と声をかけてくれた。平気よ、と元気よく答え、ヒカルは狭い路地を歩いて行った。


 ヒカルが瀬戸内海に浮かぶこの小さな島に引っ越してきて、そろそろ3ヶ月になる。以前は東京に住んでいたが、インターネット環境さえあれば、どこにいてもできる仕事だと気づいて、以前から興味があった島暮らしを始めることにした。

 この島は、出版社の顔見知りの編集者が紹介してくれた。彼は以前、取材で何度かここを訪れたことがあったらしい。小さな家が空き家になっている、という情報を持ってきてくれた。ただし、と、その編集者は言った。

「そこに住むには、相当な覚悟がいるよ。なんと言っても、島の中は階段だらけで車が通れない」

「そんなの大丈夫よ。私、車は運転しないもん」

「まあ、最後まで聞けよ。島と本土との交通手段は漁船に毛が生えたような小さな海上タクシーだけで、それも事前に連絡しておかないと、島に立ち寄ってくれないんだ」

「ふふ、漁船に毛が生えると、どんな格好になるのかしら? それ、ネタとして貰っていい?」

「ご自由にどうぞ。で、その空き家だけど、島の一番標高の高い場所にある。これが、その写真」

 そう言って、編集者はスマホの画面を見せた。

「あら、白壁の家なのね。素敵! これは想定外だなぁ……」

「前の住民がイタリア帰りの絵本作家。エオリア諸島にあるなんとかっていう島に住んでいて、そこの家に似せたものを建てたっていう話だ」

「へえ、エオリア諸島……って、どこ?」

「シチリア島の近く、っていうことしか知らない」

「で、その絵本作家さんは、いまどうしてるの? 私の知っている方かしら?」

「いま東京に住んでいる。まあ有名な人だから、名前ぐらいは知っているかも」

「ふーん。その人、なんか、わけあり?」

「いや、単に田舎暮らしに疲れたってことらしい。長い間、不便な場所で暮らしてきたから、せめて晩年ぐらいは楽をしたいんだって」

「ということは、もう結構なお年なのね」

「うん、まあね」

 そう言って、編集者はその作家の名前を言った。

「あら、彼女なの!? 絵本作家の大御所じゃない! なるほど、それで、その島に頻繁に取材に行ってたのね」

「これはあまり大っぴらにしてもらうと困るんだけど、彼女、実はもう引退したんだ。それで、東京で便利な老後を、ということなんじゃないかな」

「へえ、そうなんだ。それはいいとして、その家、私に貸してくれるの?」

「いや、売りたいそうだ。どうする?」

「売るって……いくらぐらいかしら?」

「見当もつかない。それより、港から150mも登ったところにあって、そうそう、肝心なことを忘れていた。電気は通っているけど、水道はないらしい」

「え、じゃあどうやって……」

「近くに共同の湧き水があって、そこからポンプで汲み上げてるって話だ。当然、ガスもないので火は自分でどうにか熾す。どうする? そんな過酷な環境に、都会育ちのお嬢さんが耐えられるかな?」

「都会育ちのお嬢さんなんて、言わないで。これでも、元陸上選手だったんだから」

「うん、そうだったね。で、どうする?」

「うーん、買うとなると、正直言って価格次第ね。でも、場所は気に入ったわ」

「じゃ、彼女に話を通しておいてあげるよ。君の携帯の番号、教えてもいい?」

「いいわよ」

 その日のうちに、件の絵本作家の女性から連絡があった。あなたのことは知っている、なかなかいい絵を描く作家さんだと褒めてくれた。大御所の彼女からそう言って貰えると素直に嬉しい。でも、本題はそこではない。譲ってくれるという建物の価格を恐る恐る尋ねると、あなただったら300万円でいいわ、とのことだった。高いのか安いのか、さっぱり見当がつかない。これが都会にあったなら格安だろう、ぐらいの見当はつく。

 それにしても、300万円というのは私にとって微妙な価格だ。即金で出せないことはないけど、それをやってしまうと、不安定な仕事なので、将来にちょっと不安がある……。ここは正直に話した方がいいと判断した。すると彼女は、どうせあの家じゃ、どこの銀行もローンを組んでくれないだろうし、じゃあ3年払いでどうかしら、と提案してくれた。それならなんとかなりそうだ、と言うと、じゃあ決まりね、と言って、3日後に必要な書類を送ってきてくれた。

 そんな感じで、あまり深く考えずに、この島に移住してきたのだ。ある程度覚悟はしていたが、実際に住んでみると、大変なんていう言葉では表現できないぐらいだ。一番困ったのは、ガスがないことだ。引っ越してきた当日、近くに住んでいるお婆さんがわざわざ登ってきてくれて、火の熾し方を教えてくれた。家の横に薪がかなり残っていたので、しばらくはそれでどうにかなりそうだ。

 建物だが、これは意外にもコンクリート造だった。てっきり、木造の外観をペンキで白く塗っているものだと思っていた。島の人によると、相当な数の職人さんが何ヶ月もかかって建てたのだという。小さなキッチンとダイニング、備え付けのベッドと机があるベッドルーム、そしてトイレ付きの小さなバスルーム。その横に、海を眺められる小さなテラス。うまく写真に撮れば、ここが瀬戸内海の島にある建物だとは誰も気づかず、地中海の島だと言っても誰も疑わないだろう。これで300万円だったら、ひょっとして安いのかも、とヒカルは思った。

 根が楽天家だったので、いろいろと大変なことは1ヶ月もすると慣れた。島には、一応、食料品店が1軒あった。多少の日用品も、そのお店で買える。そのほかの物は、ネット通販でどうにかなるので問題ない。ただ、お店は港のすぐそばにある。ネット通販で買った荷物も、基本的に港で連絡船から受け取る。それからが大変だった。家まで階段を250段以上も登らなければならないのだ。薪がなくなれば、それも運び上げなければならない。最初はこれが堪えたが、元陸上部出身ということがここで活きた。大変ではないというと嘘になるが、東京で暮らしていたときのストレスを考えると、むしろこちらの方が健康的に感じた。


 20分かけて港から白い家に戻った。背中から荷物を下ろし、湧き水につながっているポンプから水を飲んだ。冷たくて美味しい。荷ほどきは後にして、コーヒーを淹れることにする。キッチンからエスビットの小さなコンロをテラスに持ち出し、ポットに湧き水をいれて湯を沸かす。最初の頃は小さな固形燃料を使って火を熾していたが、今はちょっとした枯れ木と10cmぐらいの長さに切りそろえた薪があれば、小さな火をすぐに熾すことができた。そういうことができるようになった自分が、なんとなく嬉しかった。

 そろそろお湯が沸くかなという頃、隣に住んでいるシズエさんというお婆さんがやって来た。隣、と言っても、ここから階段と小道を5分ぐらい下ったところにある。シズエさんは今はひとり暮らしで、ヒカルがここに引っ越してきたときから、何かと世話を焼いてくれていた。こういう暮らしをしたことがないヒカルにとって、それはとても助かった。この不便な環境でなんとか暮らしていけそうだ、という自信がついたのも、シズエさんがいろいろと教えてくれたおかげだった。

「シズエさん、こんにちは。今からコーヒーいれるけど、飲む?」

「ああ、ありがとう。でも私はお茶がいいかな」

「わかったわ。じゃ、私も緑茶にする」

「いいのかい?」

「いいわよ。ちょっと待ってて」

 ヒカルはそう言ってキッチンに入り、コーヒーポットの代わりに急須とお茶の葉を持ってきた。シズエさんは、テラスのテーブルに小さな麻の袋を置いた。

「この中にオリーブの実が入ってるから、料理にでも使って」

「え、いいの?」

「いいもなにも、ヒカルちゃんの土地にあるオリーブの木から採ったものだから」

「私の土地……」

 自分の土地、と言われても、まだピンとこない。建物を譲って貰ったら土地も譲って貰ったことになる、という当たり前のことに、ヒカルはまだ馴染めないでいた。あなたの土地は、だいたいここからここまで、ということを教えてくれたのも、シズエさんだった。言われるまで気づかなかったが、結構広い。教えて貰った土地の範囲に木が何本か植わっていたが、そのうちの一本がオリーブの木だった。

「英子さんから、オリーブの木だけは次の持ち主が現れるまで守って欲しい、とお願いされてたからねぇ。去年の秋に実がたくさんなったから、採っておいたんだよ」

「へえ、そうなんだ……」

 英子さんというのが、この建物の前の持ち主、つまり絵本作家の大御所だ。

「ねえシズエさん、ちょっと聞いていい?」

「何かねぇ?」

「英子さん、なんでここを離れたの?」

「詳しいことは私も知らないけど、1年ぐらい前に、ここを離れるかもしれないから、なんてことをよく言ってたねぇ。それから、わりとすぐだった。東京に引っ越すことにしたわ、なんて言ったのは」

「何年ぐらい、ここに住んでたの?」

「5年ぐらいかな? 英子さんがここに引っ越してきた最初、島の人はみんな心配したもんだよ。どう見ても都会暮らしの人、っていう雰囲気だったからねぇ。それに、もうそこそこ高齢だったしね。そんな人が、ここに住んで大丈夫か、なんて思うのは当然でしょ?」

「そうよね」

「だけど驚いた。自分で畑をやったり、火を熾したり。私らと変わらないぐらい、こういう暮らしに慣れているみたいだった」

「ここに来る前はイタリアの小さな島に暮らしていて、同じような環境だったんだって」

「そうらしいねぇ。人は見かけで判断しちゃ、いけないね」

「ほんと」

「でもヒカルちゃん、あなたは見かけどおりだったねぇ。都会育ちのお嬢さん」

「もう、それを言わないでよ」

「でもね、こんな短い間で、すっかり島の暮らしに慣れたみたいだね。みんな驚いてるよ」 

「そう言ってもらえると嬉しいな。あ、そうそう。ちょっと畑を見てくれる? あれで大丈夫かなぁ」

 ふたりは白い建物の片隅にある小さな畑へ行った。畑と言っても、家庭菜園ぐらいの大きさだ。そこに、シズエさんから貰ったトマト、キュウリ、ナスの苗を植えている。うまくすれば、今年の夏に収穫できそうだ。シズエさんはひとつひとつの苗を丁寧に見て回った。

「ああ、ええ感じに成長してるよ。これからの季節、この辺は乾燥するから、水やりは忘れないで」

「実がつき始めたら、間引いた方がいいんでしょ?」

「それはまた、そのときに教えてあげるよ」

 海の見えるテラスでお茶を飲んでしばらくすると、シズエさんは帰って行った。ヒカルは港で受け取った荷物を開梱する。ネット通販で買ったパスタが3kg、小麦粉などの食材。明日は、パスタを茹でる鍋とコーヒー・ミルが届く予定だ。

 貰ったオリーブの実を眺めてみる。これをどうにかして料理に活かしたい。それより、あれがオリーブの木なんだ。また実をつけてくれるかしら? どうすればいいのか、あとでネットで調べてみよう。

 昨日炊いたご飯の残りで、手早くおにぎりを3個作った。今日はこれがランチ。キッチンのそばにある小さなダイニングテーブルで食べる。このテーブルは、英子さんが置いていってくれたもの。テーブルだけでなく、壁に掛かっている絵、小さな棚にある置物など、ほとんどが英子さんが暮らしていたときのまま。こうした方が便利なのに、と思うものもあったが、敢えてそれを置きかえたりしなかった。

 東京で住んでいたときと比べて、不便この上ない生活だ。しかしそれと引き換えに、ヒカルは誰にも邪魔されない、静かな暮らしを手に入れた。ここに移住すると決めたとき、憧れだけで島暮らしができるほど甘くない、と周囲から散々言われた。ヒカルも少し迷いが生じたが、そういった雑音を振り切った。結果は今のところ正解。この先のことはわからないけど、そのときはそのときで、また何か考えればいい。

 

 今日は午後から、新しい仕事の打ち合わせがあった。もちろん、Zoomを使ったオンライン・ミーティングだ。出版社の編集者と絵本作家、そして絵本画家のヒカルの3人の打ち合わせ。絵本作家が創作したストーリーとイメージに合わせて、ヒカルが絵を描いていく。そういう打ち合わせを何度か繰り返し、1冊の絵本が出来上がる。普段は、事前に絵本作家が誰かを教えてくれるのだが、今回はミーティングの時にご紹介します、と編集者に言われた。

 時間が近づいたので、ヒカルはパソコンを立ち上げてZoomに接続。こんな小さな島でも、Wi-Fi環境が簡単に設定できるので助かる。こんな便利な時代になったのに、なんで今でも大勢が都会の会社へ行ったりするのだろう? もちろん、職種によってはこうした環境で仕事ができない場合もあるだろう。だけど、私も含めてデスクワークをする人は、基本的にこれでいいんじゃないの?と思う。多くの人が出勤しなくて済んだら、それだけ環境への負荷も減るだろうし、雑踏の中で妙な病気をもらうことも少なくなるはず。

 そんなことを考えていると、出版社の式部さんの顔が画面に現れた。彼女は、ヒカルがプロの絵本画家としてデビューしたときからの付き合いだ。

「ヒカルさん、新しい生活はいかが?」

「ええ、やはり最初はとっても大変だった。でも、もう慣れたわ。近所のシズエさんという方が、とてもよく面倒を見てくれたおかげで、今はすっかり島の住民よ」

「そのシズエさんは、元気にやってるかしら?」

 画面に突然、もうひとりの参加者の顔が映し出され、会話に割り込んできた。あれ、この人……。

「ああ、英子先生、お久しぶりです。式部です。お元気でしたか?」

「え、式部さん、今回のお仕事は……」

「そう、ご覧のとおり、英子先生です。ヒカルさんを驚かせたいから、内緒にしておいてって言われたから」

「ヒカルさん、こんにちは。そちらの住み心地はいかが?」

「英子先生……あの、もう引退されたんじゃ……?」

「うん、そのつもりだったんだけどね。実は、あなたがそちらへ引っ越したと聞いてから、気になって、ちょくちょくシズエさんと連絡を取っていたのよ」

「そうなんですか」

「ええ。あなたも最初は苦労してるみたいだったけど、1週間もしたら、もう慣れてきたみたいだって、シズエさん、おっしゃってたわ。それを聞いて安心してね」

「お気遣い、ありがとうございます」

「あなたの島での奮闘ぶりを聞いてね、私、もう1作だけ書いてもいいかな、なんて思ったの」

「その作品の絵を、ぜひヒカルさんにお願いしたいというご提案が、英子先生からあったというわけ」

 式部がそう引き継いで言った。

「そうだったんですか。あの、わたし頑張ります!」

「そう肩肘張らないで、気楽にやってね。せっかく、静かな環境を手に入れたんだから。その島であなたがどんな絵を描いてくれるか、私、とっても楽しみにしてるのよ」

「はい、ありがとうございます。あ、シズエさんはとてもお元気ですよ」

「そう。よろしく伝えておいてね」

「それで英子先生、今回の作品のことですが」

 放っておくといつまでも世間話が続くのではと感じた式部が、話を仕事に戻した。

「そうそう、お仕事の話よね。タイトルはもう決まってるの。『島で暮らすレモンちゃん』 これでいかがかしら?」

「ええ、いいと思います。レモンちゃんのイメージは、やはりヒカルさんですか?」

「100%ではないけど、部分的には、という感じね」

「英子先生、せっかくですから、レモンちゃんは三部作でお願いできないでしょうか?」

「三部作?」

「ええ。ヒカルさんもこれから島の暮らしに馴染んでいくでしょうし、それに合わせたレモンちゃんの成長物語という感じで」

「それもいいわね。じゃあ最初、レモンちゃんは都会の果物屋さんに住んでいたことにして、それがひょんなことから島に移動する、というのを第1作にしようかしら」

「島へは、どうやって移動しますか?」

「そうねぇ……ヒカルさん、あなたはなんでその島で暮らそうと決めたの?」

「移住前ははっきりとした理由があったと思うんですが……その、もう忘れちゃいました」

「ああ、そうなの? そういうの、なんかいいわね。それだけでも、絵をあなたにお願いして良かったと思うわ」

「そんな……」

「うん、じゃあ式部さん、こういうのでどうかしら? まず最初、レモンちゃんは、小さな女の子が都会の果物屋さんからおうちへ連れて帰るの」

「お母さんにおねだりして買って貰った、ということですか」

「その辺は、あとでゆっくり考えるわ。その女の子は、レモンちゃんがとっても気に入ったのね。それで、食べないで取っておいて、夏休みの旅行で島に一緒に連れて行くの。その島で、女の子の鞄からぽろっとレモンちゃんが落ちてしまって、コロコロと坂を転がっていくわけ」

「そこから物語が始まるわけですね」

「それでね、ヒカルさん。レモンちゃんのイメージだけど、可愛らしいんだけど、どこか芯がしっかりしている、というキャラクターにしたいのね。そういう風に描いて下さるかしら」

「わかりました。ラフ・スケッチを何枚か描いてお送りします。メールでいいですか?」

「もちろん、いいわよ」

「じゃあヒカルさん、そのラフ・スケッチ、編集部の方にも送って貰っていいですか?」

「わかりました」

「じゃあ英子先生、物語の流れが大まかに決まったところで、次のミーティングを開きたいと思います。いつ頃になりそうですか?」

「そうね、1週間ぐらいかしら?」

「わかりました。ひかるさん、それまでにラフ・スケッチはできそうですか?」

「大丈夫です」

「それでは、次のミーティングの日程は、またこちらからお知らせします。今日はありがとうございました」

「あの、式部さん? 少しだけヒカルさんとお話したいことがあるから、このミーティングIDをこのまま少し使わせてもらっていいかしら?」

「かまいません。私はこれで退出しますから、ごゆっくりどうぞ」

「ありがとう」

 しばらくして画面から式部が消え、ヒカルと英子だけになった。

「ヒカルさん、その部屋はダイニングかしら?」

「ええ、そのとおりです」

「あなたの後ろに映っている壁掛けの絵、そのまま飾ってくれているのね」

「そうなんです。実は、置物なんかも、ほとんどそのままで、なにも変えていません」

「ごめんなさいね、空っぽにせず、そのまま置いてきてしまって。でも、どうして? もうそこはあなたのものなんだから、好きにしてくれていいのよ」

「そうなんですけど、なぜか、このままの方が落ち着くんです。だから、このまま使わせて貰っていいでしょうか?」

「それは、もちろんかまわないわよ」

「あの、英子先生? こんな素敵な建物を、たった300万円で譲っていただいて……」

「いいのよ。気にしないで。私ね、今年で85歳。長いこと外国に住んでいたけど、こんな私でも年を取ると里心が出てくるのね。人生の最後は日本で過ごそうと思って。だけど、シチリアのアリクディ島に住んでいた家が忘れられなくてね。それで、その島に似たような建物を建てたの。あ、アリクディ島って、ご存じかしら?」

「えーっと、エオリア諸島、でしょうか」

「そうそう。それでね、そこに住んでみたんだけど、やはりイタリアよりも湿度が高いのかしらね? 港と建物の上り下りが大変で……アリクディでは、ぜんぜんそんなこと、感じなかったのにね」

「そうだったんですね」

「せっかく建てたから、誰かに使って貰いたくてね。あなたが住んでもいいと名乗り出てくれたとき、嬉しかったわよ。前からヒカルさんの絵は素敵だなって、思ってたのよ。あなたになら、タダでもいいと思ったけど、そうもいかないでしょ。だから、適当な金額を言ったのよ」

「そう言っていただけて、私も嬉しいです」

「もうずいぶんと本を書いたから、そろそろ引退しようと思って。最後は便利な都会に住むことにしたのよ。でもね、あなたの絵を見て、一度、お仕事をご一緒したいと思ったのね。だから、今回限りの復帰。しばらく、よろしくね」

「はい、ありがとうございます。素敵なレモンちゃんの絵を描きますね」

「そうね。一度、建物の南側の斜面を降りていってごらん。ヒントになるものがあるかもよ。ふふふ、じゃあ、また今度ね」

 そして、英子は画面から消えた。


 オンライン・ミーティングが終わった後、ヒカルは建物の裏手に回った。草むらの中の小道を少し下ると、一本の木があった。しばらくその木を見ていると、心の中で「あっ」と声が出た。レモンの実がなってる。そうか、この木はレモンの木なんだ。なっている実は、お店なんかでよく見かけるような形ではなく、ちょっとぽっこりとした丸っこい実だ。えーっと、ここは私の土地? よくわからないけど、まあいいや、と思ったヒカルは、苦労してなんとかレモンの実を一つ採った。鼻をくっつけて匂いを嗅いでみると、うん、これは確かにレモンだ。これをモデルに、レモンちゃんを描いてみようかしら。楽しいことになりそうね。

 地中海ほどではないかもしれないけれど、さらっとした気持ちのいい風が海から吹いてきた。その風を背中に受けながら、ヒカルは軽い足取りで白い建物に向かって小道を登っていった。不便だけど、素朴で静かな暮らしは、まだ始まったばかりだ。

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