近未来のパイロット

 寿辺里は、ある航空会社のパイロットとしてもう30年も飛んでいる。この日も、波音993型機のパイロットとして乗務していた。羽田空港を離陸して3時間。目的地のシドニーまで、あと5時間ほどだろうか。

 寿辺里がパイロットになった頃が、ちょうど過渡期だった。操縦を100%、AIに任せるのか、それともバックアップとして、これまでどおりに人間を乗務させておくのか。その議論が世界の航空業界で1年も続いたが、結論は出なかった。それから30年経過した今も、議論は続いている。

 30年の間にAIはさらに進化し、日常生活の中でも多くのことをAIに任せる時代になった。鉄道はすでに完全自動運転となった。長距離トラックも、先頭の1台だけ人間のドライバーが運転し、これに続行させる形で今は10台までAIによる自動運転が実現している。技術的には100台でも200台でも続行させることは可能だが、雇用の確保という名目のため、法律で10台までに規制されている。しかし最近は、それでも長距離トラックのドライバーが不足し始めているので、30台まで可能なよう、法改正が議論されている。

 長距離トラックの続行自動運転が可能になった背景には、自家用車の完全自動運転が実用化されたことにある。自家用車に自動運転機能が搭載されるようになったのは今から50年ほど前の西暦2020年前後だったそうだが、当時は主に画像解析とレーダー波による自動運転だった。しかしそれでは、自家用車の完全自動運転化は難しいと判断された。特に、画像処理では突発的な事象に対応できないことが明らかになったからだ。それで議論を重ね、最終的には、全ての車に小型のトランスポンダーを搭載することになった。道路にも、トランスポンダーの情報を取得して解析する装置が埋め込まれた。そして半径1km以内にある全ての車のトランスポンダー情報をもとに、リアルタイムで速度や運動方向を解析することで、100%とはいかないが、99.99%ぐらいは危険予測ができるようになった。

 本当は、歩行者など全ての道路利用者にトランスポンダーを搭載することも検討された。こうすることで、本当の意味で自動運転化が実現できる。それは個人情報保護や人権との関係で実現しなかったが、希望者には、歩行者用トランスポンダーが無料配布された。それを携帯していない歩行者に対しては、まだ画像処理とレーダーに頼って危険予測を行う。もちろん、トランスポンダー携帯者より危険性は増すが、その辺のリスク管理は各個人に委ねられていた。道路を利用する危険性と個人情報保護とを各自が天秤にかけるわけだ。

 航空機の世界では、20世紀後半には離陸以外の操縦がほぼ自動化されていた。離陸も含めて完全自動化が本気で議論されるようになったのは、2020年に世界を襲った新型ウィルスによるパンデミックが原因だったらしい。世界的な人の移動が制限されるようになり、航空業界は大打撃を受けた。運航本数が激減し、多くのパイロットが職を失った。その後、パンデミックは2年ほどで終息し、世界的な人の移動も徐々に戻ったが、今度は深刻なパイロット不足に陥った。頭を抱えた航空業界は、これを機会に、航空機運航の完全自動化を一気に推し進めることにしたのだ。今後、別のウィルスによるパンデミックなど不測の事態が起こったときも、完全自動化されていれば、柔軟に対応できる。寿辺里がパイロット候補として航空会社に入社したのは、まさにその頃だった。

 航空機の完全自動運航にあたって検討すべきことが2つあった。一つは自動離陸のアルゴリズムをどうするかということ、もう一つは自家用機やヘリコプターなどの小型航空機の扱いだった。

 自家用機の扱いについては、国によって普及の仕方が違うので、世界規模で一律の扱いにはできなかった。そこで、自家用機を運航を国ごとに認可制とした。認可を与えるのは国際航空機関で、各国の航空交通に対するインフラ整備の充実具合など、一定の基準をクリアすることが求められた。残念ながら、日本は自家用機運航の認可が得られなかった。

 航空機の操縦では、離陸よりも着陸の方が技術的に難しい。しかし、自動着陸が早くから実用化されていたのに対し、自動離陸の技術はかなり遅れていて、21世紀になっても、旅客機に自動離陸装置は搭載されなかった。その理由はただひとつ、離陸滑走中に何らかのトラブルが起きた場合、離陸を中止するか続行するかの判断が、AIに任せられないことだった。

 AIに人間のパイロットと同じ訓練や学習をさせることで、離陸時の判断もできるものと考えられたが、そう簡単ではなかった。離陸を中断した方が安全なのか、続行した方が安全なのか。その微妙な判断は、AIでは演算が難しいとされた人間のインスピレーションの問題だった。

 AIが本格的に普及し始めた頃、よく話題に上ったのが「AIの普及で将来消える職業」だったという。かなりの職種が列挙されたが、人間にとって都合のいい方向へその予測は外れ、意外と多くの職種が残った。その理由が、人間の思考が生み出す独特のインスピレーションだった。それは非常に曖昧なもので、どんなに膨大なデータをAIに学習させても、「なんとなくそう判断した」という曖昧な思考をAIで再現できなかった。離陸時の判断も、まさにそういった曖昧ながらも的確な判断が求められるのだ。

 この自動離陸装置の開発に、航空機メーカーが鎬を削っていた。あらゆるアルゴリズムが開発され、考え得る限りの離陸時のシチュエーションを再現して熟練パイロットの思考パターンをAIに学習させた。そうやって開発した自動離陸装置をテストすると、どういうわけか、人間の方がわずかにAIよりも的確な判断をすることがわかった。これには、メーカーも頭を抱えた。なぜうまく再現できないのか? しかし、答は意外なところにあった。それに最初に気づいたのが、中国の航空機メーカーの研究者だった。

 考えてみれば、単純なことだった。AIに学習させるデータを得るため、メーカーはシミュレーターに熟練パイロットを乗せていろんな状況を再現し、パイロットの判断をデータ化した。問題は、熟練パイロットがテストの目的を知っていることだった。自分の職業が奪われるかもしれないテストだ。手の内を明かすわけがない。つまり、データを取るためのテスト時に、熟練パイロットは無意識のうちにきちんとした判断を避けていることがわかった。一種のネグレクトだ。この辺が、かなり人間的と言える。

 そこで中国のメーカーは、多くの国で倫理上の問題から実行されなかった方法でテストを行った。国営航空会社に強引に協力させ、日々、運航に携わっているパイロットの脳波を直接データ収集したのだ。それによって、パイロットがどういった思考で離陸に臨んでいるかが明らかになった。それをAIに反映させることで、人間とほぼ同等の離陸判断ができるようになり、ついに自動離陸装置が実用化された。

 自動離陸装置の開発に遅れをとったメーカーは苦境に立たされ、アメリカやヨーロッパの、いわゆる老舗の巨大航空機メーカーはことごとく中国の航空機メーカーに吸収された。いま、寿辺里が乗務している波音993型も、元はアメリカの航空機メーカーが開発した機体の発展型だ。

 コクピットで、寿辺里は欠伸をひとつした。もちろん、眠いわけではない。一種の暇つぶしだが、それで潰せる時間はたった5秒。フーッと、つい溜め息が出た。

 寿辺里がパイロットになった頃は、まだ人間が操縦していた。パイロットも二人乗務していた。それが今は、コクピットには寿辺里ひとりだけ。本当は、寿辺里も乗務する必要がなかった。航空機のコントロールは、羽田空港にある会社の総合司令室で集中的に行われている。トラブルが起きた場合も、総合司令室から遠隔操作で対応できる。しかし、まだ多くの乗客が「無人で飛ぶ旅客機」に抵抗感があった。そこで、過去にパイロットだった人間を選んで、ひとりだけ乗せておくことにした。パイロットは自動操縦に頼らなくてもマニュアルで操縦、着陸できるだけの訓練は受けていた。しかし、人間のパイロットが必要とされる状況は皆無と言っていい。テロ対策のため、システム上、パイロットが自動操縦を解除できないようになっているからだ。自動操縦は、総合司令室からでないと解除できない。

 計器板のモニターに「機内巡回の時間です」と表示された。寿辺里はコクピットから客室へと歩いて行った。昔はいたCAという職業も、今はない。代わりに、ヒト型アンドロイドが客室内を巡回している。アンドロイドが不具合を起こしていないかを確認するのも、パイロットである寿辺里の業務になった。と言っても、アンドロイド自体も総合司令室で管理されているので、これも形式上の話。本来の目的は、乗客たちに「きちんと航空会社の人間が乗っていますよ」ということをアピールすることだ。

 人間が乗っていることで、かえって不安に感じる乗客もいるのではないか、と思ったこともある。これは乗客など利用者には知らされていないのだが、パイロットの制帽には脳波測定器がインストールされていて、データをリアルタイムで総合司令室に伝送している。もしパイロットが妙な考えを起こしたりすれば、すぐさま司令室で察知され、コクピットにいるときなら客室とのドアがロックしてそのまま監禁され、客室内にいる場合ならアンドロイドがパイロットを拘束するシステムになっている。なので、制帽を勝手に脱ぐことはできない。勝手に脱いだら、パイロット拘束システムが起動する。どうしても脱ぎたいときはコクピットの操縦席に座ってシートベルトを装着した状態で、その旨を司令室に伝えなければならない。制帽を脱いでいる途中で勝手にシートベルトをはずすと、同じように拘束システムが作動する。まるで囚人だ。

 形式的に客室の巡回を終えた寿辺里はコクピットに戻り、「食事」と表示のあるボタンを押した。背後のストレージで音がして、しばらくすると温かい食事が自動的に出された。それを受け取り、形ばかりの操縦席に座って食事をとった。乗務中の唯一の楽しみだ。

 食事をとりながら、寿辺里はふたたび溜め息をついた。目的地まで、あと4時間30分。実を言えば、5年前に地上勤務への配置転換を希望した。しかし、持病の肩と手首の関節痛が悪化していて、うまくキーボードが打てなかった。それで配置転換の希望は通らず、仕方なくパイロットとして勤務を続けることになった。

 そろそろ会社を辞めてもいいのではないか、とも考えた。今や花形職業の長距離トラックのドライバーにでもなりたいところだが、関節痛持ちの体ではどこも雇ってくれないだろう。定年まであと15年、こんな監獄みたいな職場で過ごさなければいけないのか。それならいっそのこと……。

 急に、コクピット内で警報音が鳴った。何ごとが起こったのかとモニターを見て、目を疑った。そこには「乗務員の脳波の乱れを感知。拘束システムを起動します」という表示。寿辺里は慌てた。つい余計なことを思考してしまった。これは本意ではない、というコマンドを入力しなければ、操縦席に拘束されてしまう。コマンドは大変複雑なもので、マニュアルを見ながらでないと正確に入力できない。座席の後ろに収納してあるマニュアルを取り出そうとしたそのとき、拘束システムが起動して座席に拘束されてしまった。関節痛さえなければ、体を捻れば振り返ってマニュアルが取り出せるのに・・・


 そこで、寿辺里はハッとして目覚めた。ベッドから起き上がって、周囲を見回した。夢だったか……。それにしても、やけにリアルな夢だったな、と思いながら、寿辺里は窓際へ行ってカーテンを開けた。ここはシドニーのホテル。昨夜、羽田から深夜便に乗務して今朝シドニーに到着し、仮眠していたところだ。時刻は昼過ぎだろうか。

 ルームサービスで簡単な食事をとった後、シャワーを浴びた。そろそろチェックアウトして空港へ向かわなければならない。ふたたび深夜便の乗務で羽田へトンボ返りだ。昔はもう少し乗務スケジュールに余裕があったが、新型ウィルスのパンデミックが終息した後、極端なパイロット不足で、規定ギリギリの過酷な乗務が続いている。でもパンデミックで解雇された同僚が多い中で、会社に残れたのはラッキーだと思うべきだろう。

 チェックアウトのためロビーへ降りると、副操縦士の三砥がちょうどフロントで手続きしているところだった。

「あ、寿辺里機長。少しは眠れましたか?」

「うん、まあ嫌な夢を見たけどね」

「このところ、少しお疲れなんじゃないですか?」

「これだけハードなスケジュールだと、いくら好きな仕事でも疲れるよ」

 ホテルを出て、会社がチャーターしたバスで空港へ向かう。途中、CAが宿泊しているホテルに立ち寄った。華やいだ声で「おはようございます」と寿辺里たちに声をかけてバスに乗り込んできた。彼女たちは若いから、疲れはないようだ。それにしても、さっきの夢はいったい何なのだ?

 空港へ到着し、オペレーションセンターで運航管理者とフライトプランなどを打ち合わせ、乗務する飛行機へと向かった。機体はB787。半年前に、B777から乗務変更したばかりだが、基本的に同じライセンスの機種なので、さほど違和感なく移行できた。飛行前点検を終えて、コクピットへ。副操縦士の三砥が、フライトプランをフライト・マネジメント・システムから呼び出して確認している。寿辺里は機長席に座りながら、両手で操縦桿を握ってみた。あれが夢で本当によかった。しかし将来は、我々は本当にああいうことになっているのだろうか。

「キャプテン、キャビンは準備が終わりました。ブリーフィングをお願いします」と、チーフ・パーサーがコクピットに声をかけた。その温かい声に気を取り直し、寿辺里はコクピットを出てキャビンへと向かった。8人のCAは、もちろんアンドロイドではない。思わず苦笑した寿辺里に、CAのひとりが「キャプテン、思い出し笑いですか?」と朗らかに声をかけた。

「いや、みんなの元気な姿を見て、自然と笑みがこぼれただけだよ。えーっと、ではブリーフィングを始めます。皆さん、体調は大丈夫ですか・・・」

 いつもの、威厳ある寿辺里機長に戻っていた。

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