彼はインクの宅配便
大豪邸に住んでいる大金持ちのAさんと、その近所に小さな家に住んでいる貧しいBさんがいる。ある日、Aさんが散歩の途中でBさんの家の前を通った。
そのとき、Bさんが小さな部屋を箒で掃除しているのが見えた。その様子を、Aさんはしばらく眺めていた。Aさんに気づいたBさんは、掃除を中断して、Aさんからすれば猫の額ほどの小さな庭先に出てきて挨拶をした。
「やあAさん、こんにちは。お散歩ですか?」
「ええ、まあね。ところで今、その箒で掃除をしていましたよね?」
AさんはBさんが手に持っている箒を指してそう言った。
「ああ、お恥ずかしい。私、掃除機を持ってないんですよ。ずっとこの箒です。でも、こんな小さな家ですから、箒で十分用が足りるんです」
「なるほど。ところで物は相談なんですが、その箒、私に貸してくれませんかね?」
「え? 何にお使いになるんです?」
「掃除ですよ。箒は、それ以外にあまり使い道がありませんからなぁ。魔女なら、それで空が飛べるらしいが」
「はあ。だけど、なにもわざわざこんな箒を使わなくても、ご立派な掃除機をお持ちではないんですか?」
「ええ、7台ほどあります。実は私、掃除機にはうるさい方でしてね。いや別に、音がうるさい掃除機が好きと言うわけではなくて……」
「ああ、それはわかります。こだわりがある、という意味ですね。だったらなぜ、箒なんかで……」
「理由を言わなければいけませんか?」
「いえ、そういうわけでは。しかし、この箒をお貸ししてしまうと、私が掃除に困りますもんで」
「うん、確かにそうだ。じゃあ、代わりにうちにある掃除機を1台、お貸ししましょう。それでどうですか?」
「ええ、まあそういうことなら。でもAさんの掃除機、失礼ですけど、お高いんじゃないですか?」
「値段のことですか? まあそうでもないですが、30万円ほどでしょうか」
「そんなに! そんな高価な掃除機をお貸しいただいても、なにぶんこんな小さな家ですから、その、かえって使いにくいというか、気を遣うというか」
「いえ、気にせず使ってください。もし壊してしまっても、修理代を請求するようなことはしませんから。じゃあ、この箒をお借りしますよ。掃除機は、すぐに執事に届けさせます」
「ほんとによろしいんですか? じゃあ、どうぞ。こんなみすぼらしい箒ですが」
BさんはAさんに箒を渡し、箒を借りたAさんは、自宅の方へゆっくりと歩いて行った。その後姿を見ながら、Bさんは呟いた。
「まあ、お金持ちの考えることはようわからんね。とりあえず掃除は中断して、庭の草むしりでもしようかね」
Bさんから箒を借りたAさんが、自宅の書斎でその箒をしげしげと眺めていたとき、執事が入ってきた。
「ご主人様、お呼びでございましょうか」
「うん、えーっとね、掃除機を1台、Bさんの家に届けてくれないか?」
「掃除機、でございますか?」
「僕は掃除機と確かに言ったつもりだが、そう聞こえなかったかね?」
「あ、いえ、そういう意味ではございませんで……。その、なぜ掃除機をBさんに届けるのか、ちょっと わかりかねたものですから」
「うん、確かに突飛なことだ。簡単に説明するとだね、箒で掃除していたBさんから、僕は無理を言ってその箒を借りてきた。これがその箒だ。だから箒を借りた代わりに、掃除機をBさんにお貸しすることにした」
「そういうことでしたか。では、ただちにBさんにお届けします。えーっと、掃除機は、どれをお貸ししましょうか?」
「そうだね、3号機にしようか」
「3号機は先日、ご主人様自らが修理なさった大切な掃除機ではございませんか。よろしいのですか?」
「うん、かまわない。実を言うと、あの3号機は最近、好きではないんだよ」
「承知いたしました。では3号機を・・・」
「いや、待ってくれ。自分が好きでないものを他人に貸すのはよくない。そうだな、7号機にしよう」
「7号機は最新の自動ロボット掃除機ですが・・・」
「そう、それだ。あれは実によく出来ている。放っておいても、勝手に動き回って掃除してくれるからな。Bさんも、掃除に時間を取られなくなるので喜ぶだろう」
「では、すぐに7号機をお届けしてきます」
「うん、そうしてくれ」
執事は一礼して部屋を出ていった。
部屋で一人になったAさん、借りてきた箒を、改めてしげしげと眺めた。そして、おもむろに腰を上げると、箒をもって掃除機を保管している部屋へと向かった。
一方、執事は主人であるAさんの指示通り、自動ロボット掃除機を持ってBさん宅へと向かっていた。こういう奇妙な用事を申し付けられるのはしょっちゅうだったので、特段不思議にも感じなかった。うん、確かにうちの主人はちょっと変わっているな、と執事は独白した。掃除機が趣味なんて、あまり聞いたことがない。でも考えようによっては、クルマが趣味というのも似たようなものかもしれない。どちらも、本質的には道具であり機械でもある。
執事がBさん宅に着いたとき、Bさんはちょうど庭の草むしりを終えたところだった。
「主人から、Bさん宅にこちらをお持ちするようにと仰せつかりました」
「ああ、それはどうもご苦労様です。やや、これが掃除機ですか? ふつう、掃除機というと、ホースがあって……」
「これは最近発売された自動掃除機です。スイッチを入れるだけで、勝手に動き回って掃除してくれるのです」
「ほー、そんなものがあるんですか。でも、壁にぶつかったりしませんかね?」
「それは、掃除機の方で勝手に判断してやってくれます」
「どうもピンときませんな」
「ここにカメラとセンサーがございまして、障害物を避けながら、部屋を隅々まで掃除してくれます。ひと部屋10分ぐらいでしょうか」
「電源コードがありませんけど」
「充電式バッテリーを搭載しています。充電が必要になったら、自分で勝手にこの充電器まで戻ってきます」
「ロボットみたいで、何やら不気味な掃除機ですな。あの、暴走したりしませんか?」
「大丈夫だと思いますが、たまに、狭いところで身動きが取れなくなってしまうことがあります。そのときは、まあおおらかな気持ちで助けてやってください」
しばらくBさんは、あれこれ掃除機を眺めていた。そして、ふと思い当たったような顔をして、執事にこう尋ねた。
「せっかく持ってきていただいたのに恐縮ですが、別の掃除機をお借りするわけにはまいりませんか?」
「この掃除機、お気に召しませんでしたか?」
「ええ、まあそういうわけではないのですが、やはりそのう、全自動でまかせっきり
というのが性に合いませんで」
「いわゆる、普通の掃除機の方がよろしいですか?」
「わがまま言って申し訳ありませんなぁ。普通の掃除機で、できれば、その、吸い取る部分がグニャグニャ曲がるホースみたいなのじゃなくて、曲がらないパイプみたいなものがあれば嬉しいのですが」
「ああ、そういうタイプのものもうちにはいくつかあります」
「では、それをお借りできませんか? 中でも、一番大きくてパワーのあるものを」
「わかりました。主人と相談しなくてはなりませんが、そのように伝えておきます」
「お手間かけますなぁ」
執事は家に戻り、主人のAさんにBさんの要望を伝えた。
「なるほど、Bさんはそういう掃除機がいいのか」
「ええ、そのようです」
「変わった人だな。いや、私も人のことは言えんが。でもそんな掃除機、うちにあったかな?」
「3台ございます。旦那様は、ホースが曲がらない掃除機は融通が利かない頑固オヤジのようだとおっしゃるので、倉庫にしまってございます」
「そうだったか。じゃあ、悪いがそれをもう一度Bさんに届けてくれないか?」
「かしこまりました」
執事は倉庫へ行って、目的の掃除機を探し当てた。先端部分、いわゆるヘッドと呼ばれている部分から掃除機本体までをつなぐパイプがホースのように曲がらないタイプのもので、自動車の車内で使うようなハンディタイプの掃除機によくみられる。それの最も大きなものを取り出した。大人の背丈ほどもあるもので、この手の掃除機にしてはまことに使い勝手が悪い。なんでこんな掃除機を開発したのか、機械には素人の執事でも首をかしげる代物だ。Bさんはできるだけ大きい物を、というのだが、これはさすがに使いにくいと思われる。たぶん、生まれてこの方、掃除機というものを使ったことがないのだろう。だからそういうものを貸してほしいなどと言い出したに違いない。何度もBさんの家まで往復するのは面倒なので、この大きいものと、使い
勝手の良い小さいもの二つを持っていくことにした。
「いやぁ、お手間をかけてすみませんなぁ。この大きい方をお借りしますよ」
「それはかまいませんが、この大きさだと、使いにくいと思いますが」
「いえ、これで結構です。大は小を兼ねると言いますからな」
「そういう問題ではないかと……いや、失礼いたしました。では、こちらをお貸しします」
「ありがとうございます。で、いつお返しすれば?」
「それは聞いておりませんが、うちの主人が箒をお返しするまで、と考えるのが妥当かと」
「なるほど、それはそうですな。では、それまでお借りします」
「ではまた」
執事がBさん宅を辞した後、Bさんは借りた掃除機をじっくりと観察した。そして、押し入れから工具箱を持ち出すと、Bさんはその借りた掃除機を分解しだした。他人から借りたものを、持ち主に断りなく分解するのはさすがにまずい。しかしBさんはお構いなしに、どんどんバラバラにしていった。いったいBさんは、借りた掃除機をどうしようというのか……。
一方、箒を借りたAさんも、似たような行動に及んでいた。箒を自分の工作室に持ち込み、穂先の長さを計測していた。少し長いかな、と呟いた後、穂先を短く切ってしまった。分解と違って、これは明らかに復元不可能な行為である。ということは、つまり、Aさんには最初から箒をBさんに返却する意思はなかったものと推測されるし、現に、Aさんは返すつもりはなかった。貸した掃除機を、そのまま進呈すれば済むだろうと考えていたのだ。それはともかく、いったいAさんは、借りた箒をどうしようというのか……。
「……それで、この続きはどうするつもりなんだ?」
「そこがね、まだわからないのよ。だから締切を延ばしてって、お願いしてるのよ」
「作家自身がわからなければ、どうしようもないね。それに、AさんとBさんでは童話にならない」
「名前は、後からどうにでもなるの。それよりこの続き、なにかいいアイディアはない?」
「僕は編集者であって、創作家ではないから」
「あら、冷たいのね。まあ、いいわ。少し海岸でも散歩して、頭をリラックスさせてみるわ」
「それがいい。いいアイディアっていうのは、そういうときに浮かんでくるものだよ」
「編集者は気楽でいいわね」
「とんでもない。締切を延ばして一番困るのは、この僕なんだ」
「そうね。ごめんなさい。とにかく、もう少し待ってほしいの」
「わかった。じゃあ目処がついたら、連絡くれる?」
「OK」
そういって彼女はスマホをデスクに置いた。円野ユリというペンネームで童話作家をしている彼女は、仕事場兼住居の小さな平屋の家を出て、散歩に出かけた。電話をしていた担当編集者の幸彦とは恋人同士の関係にあったが、昨年にユリが賞を取って以来、次々と執筆依頼が舞い込んで忙しくなり、なかなか会う暇がない。
10分ほど歩くと海岸に出た。左手に江ノ島が見える。ビーチへ降りる石段の一つに座ると、ユリは持ってきた黒革のカバーをかけた手帖を開いて、なんとなくスケッチを始めた。絵はそんなに上手くない。だけど、誰に見せるつもりもないので、下手でも一向に構わない。
使っているペンは、プラチナ万年筆からリリースされているプレピーという300円ぐらいの万年筆。価格からは想像できないぐらい滑らかな書き心地が気に入っていて、ブラック、レッド、そしてブルーブラックのインクが入った3本を常に持ち歩いている。
ユリは、なんとなく海をブルーブラックのインクで塗りつぶし、そしてうっすらとした色合いで江ノ島の輪郭を手帖に描いていった。空に浮かんでいる雲も太陽も、全部ブルーブラックで描いた。
まだ午前中なので、ビーチに人は少ない。そろそろ夏ね。ユリはそんな他愛もないことを呟き、空を見上げた。左の方から一筋のヒコーキ雲。あ、右からも一筋。この後、どうなるんだろう?
左右から近づいてくる二筋のヒコーキ雲を、ユリはわくわくしながら眺めていた。このままだと、ぶつかっちゃうんじゃない……? しかし何ごともなかったかのように、それぞれのヒコーキ雲は互いに交差し、そのままX字を描くように遠ざかっていった。
そっか。高さが違うのね。そんな当たり前のことに気づいて、思わずクスッと笑みがこぼれた。そのとき、ユリの頭の中でピンとひらめいた。悪くないアイディアね。それでいこう。忘れないうちにと慌ててそれをメモすると、すぐに仕事場へ引き返して、幸彦に電話した。
「あの物語の結末、わかったわ」
「うん、それはよかった。で、どんな話になるの?」
「まず、Bさんは掃除機を改造してロケットにするの」
「なんだって?」
「最後まで聞いて。とにかく、改造した掃除機ロケットにまたがって、Bさんは空を飛ぶ夢を子供の頃から抱いていた。そしてAさんの方は長年、魔女の研究をしていて、空を飛ぶために最適な箒を探していたの。そのとき、Bさんが使っていた箒を見てピンときたわけ。これなら飛べそうだ、と。そして二人はそれぞれ掃除機と箒を改造し、同じ日の夜、試験飛行をする。そして夜空で二人は出会うの」
「やれやれ、参ったな。そんな突拍子もない話、いくら童話って言っても……」
「だから、童話なのよ。もうそれでいくと決めたわ」
「それにさあ、Aさんは男だろ? なのに魔女に憧れるなんて……」
「あら、男が魔女に憧れたっていいじゃない? 老紳士が箒にまたがって空を飛ぶのよ。こんな愉快なことはないわ」
「うん、わかったよ。じゃあそれでいこう。だけど、AさんとBさんはやめてくれよ。せめて何か名前ぐらいは……」
「それならもう決めたわ。Aさんがジッキィ、そしてBさんがヒッキィ」
「ジッキィ&ヒッキィ。ジキルとハイドみたいだな」
「まあ、そんなところね。それより幸彦。悪いんだけど、例のインク屋さんへ行って、ブルーのインクを買ってここへ届けてくれない?」
「えー、また? いま書いているパープルのインクじゃダメなのかい?」
「前にも言ったでしょ。私、インクの色にインスピレーションされるの。最初はフォレスト・グリーンで始まって、途中からここまでの話はパープルだったけど、この先はブルーよ」
「しょうがないなぁ。それで、どんなブルー?」
「ブルーの103番って言えば、すぐに店主が調合してくれるわ」
「ブルーの103番だね。今からだと、早くても午後2時ぐらいになるけど」
「届けてくれたら、すぐにインクを入れ替えて書くわ。あ、ついでにランチを用意しておいてあげるから、食べていって」
「それはどうも。まったく、いつも宅配便代わりにするんだから」
そう言って幸彦は電話を切った。ユリはクスッと笑って、「もう少しだけ、宅配便をお願いね」と切れた電話に向かって呟いた。
スマホを置くと、ユリは万年筆のインク・コンバーターからパープルのインクを抜き取る準備をした。そうだ、その前に、このパープルであの返事を書いておこう。ユリは一筆箋を取り出し、さらりとした文字でこう書いた。
「幸彦へ。プロポーズの件、OKよ!」
そしてこのメッセージを、ランチボックスの上にそっと貼り付けておいた。
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