音楽はいつもメジャー・セブンス
1.高校時代
「私は絶対にポール」
「僕はジョン。だけど、絶対とは断言しない」
「ポールの曲の方が、素敵なメロディが多いのよ」
「そうとは限らないよ。あの“イン・マイ・ライフ”はジョンの曲だよ」
「でも、イエスタディとかヘイ・ジュード、レット・イット・ビーみたいな名曲は、全てポールよ」
「名曲かどうかは、その人の主観だと思うけど」
「じゃあ、正雄くんが定義する名曲って、なに?」
「そんなの、定義するものじゃないよ。単に、自分が聴いて好きかどうか。それだけ」
「それだけ?」
「理由が説明できる“好き”は、本当に好きじゃない、ってこと」
「じゃあ、私のことは?」
「うん、今のところ説明できない“好き”。でも、まだLOVEではない」
「あら、残念。私は正雄くんのこと、LOVEだと思ってるけど」
「LOVEとLIKEの境界線は、どこだろう?」
「こういうことをしたくなるかどうか、じゃないかしら」
そう言って、奈穂は正雄に顔を近づけ、そっと唇を重ねた。
「どう?」
「うん、そうだね。少しLOVEに近づいた、かな」
「じゃあ、こないだ買ったっていうそのギターで、何か弾いてみて」
「まだそんなに上手くないよ」
「いいのよ、そんなこと。ね、弾いてみて」
正雄は買ったばかりのアコースティック・ギターを手に取った。まだ新品を買うお金はなかったので、中古楽器店で買ったものだ。
「ジョン・レノンのイマジンでいいかな。まだそれぐらいしかまともに弾けないから」
「何だっていいのよ。心を込めて、聴きます」
正雄はゆっくりと、アルペジオでイマジンの弾き語りを始めた。かなり緊張していた。奈穂はブラスバンド部でフルートを演奏している。音楽のことをほとんど知らない正雄が、きちんと音楽をやっている奈穂の前で演奏するのだ。緊張しない方がおかしい。
なんとか間違えずに、最後まで弾き終えた。ホッとしていると、奈穂がこう言った。
「最初の部分、CからFに移る間のCM7(シー・メジャー・セブンス)のコードが素敵。だけど、ちょっとチューニングがずれてない?」
「そうかな」
「もう一度、CM7を弾いてみて」
正雄はCM7のコードを押さえ、1弦ずつゆっくりと弾いた。
「やっぱり、3弦目が少し低いと思うわ」
「本当だ。よくわかるね」
「一応、ブラバンやってるからね」
「奈穂のこと、LOVEになった気がする」
「それは、どうもありがとう」
ずれていたギターのチューニングは綺麗にシンクロした。しかしその後、正雄と奈穂、二人の気持ちはチューニングがずれてしまい、高校卒業と同時に二人は終わってしまった。
2.大学時代
「ねえ正雄、いい加減、音楽を変えてくれないかしら?」
「ええ? せっかく今日のドライブのためにテープを編集したのに」
「私もビリー・ジョエルは好きよ。だけど、もう3回もリバースしてるのよ。さすがに飽きるわ」
正雄と紀江は、海沿いの道をドライブしていた。クルマは、バイト代で貯めたお金を全額つぎ込んで中古で買った7年落ちのプレリュード。いまかかっている曲は、ビリー・ジョエルの“Just The Way You Are (素顔のままで)”。この曲が僕らのプレリュードになるのかな、なんてキザなセリフを言おうとした矢先の、紀江の言葉だった。
正雄は、その頃の若者の誰もがやっているように、ドライブ・シーンに合わせて編集したカセット・テープをクルマに何本か持ち込んでいた。そろそろ夕暮れ。それに合わせたテープをカー・オーディオに突っ込んだが、渋滞のせいで、海岸沿いで流れて欲しいと思っていた曲が、街中の無粋な場所で流れ出した。気づかないふりをして、A面、B面が終わっても、オート・リバースさせたまま放っておいた。
2巡目も、紀江は我慢して聴いていた。しかし3巡目になると、さすがに少しムッとして、つい正雄に思ったことを言ってしまった。ひょっとしたら私、この人とうまくやっていけないのかしら、と紀江が思い始めたのも、この頃だった。
正雄としては、ここからがいわば“聴かせどころ”だった。ビリー・ジョエルの“Just The Way You Are ”に始まり、“Leave A Tender Moment Alone”と続き、最後に”New York State Of Mind”で締めくくる。そして下宿しているアパートへ戻って、ギターで弾き語りをして、紀江と一晩過ごす。そのシナリオが崩れつつあるのを感じ始めた。
「ここからの3曲が、特に好きなんだけどなぁ」
「じゃあ、あと1回だけ。それが終わったら、サザンに変えてよね」
「うん、わかった」
少し憮然として正雄は答えた。
「ねえ正雄、怒ってる?」
「いや、怒ってないよ。3回も同じ曲を聴かされたら、誰でも飽きるよね」
「飽きるって言ったの、少し言葉が過ぎたわ。私はね、正雄ともっといろんな音楽を聴きたいの。そうしたら、何か新しい発見があるかもしれないでしょ?」
「うん、そうだね。じゃあ、今からサザンに変えよう」
「無理しなくていいのよ」
「大丈夫だよ。無理なんかしてないから」
信号待ちの間に、正雄はカセットテープが入った木箱からサザンの新しいアルバムを取り出し、カセットデッキの中身を入れ替えた。映画の主題歌にもなったバラードが流れてくる。その曲を聴きながら、紀江はうっとりとサイド・ウィンドウから海を眺めている。いい曲かもしれないが、あの歌い方が正雄はあまり好きではない。
日が暮れてから、海沿いのレストランで夕食をとった。紀江は少し不機嫌そうな正雄の気持ちを和らげようとしたのか、不自然なほど楽しそうに、陽気に喋っていた。正雄もそれに合わせて、ささくれ立った気持ちも少し落ち着いた。そして食事を終えると、彼女の家まで送っていった。
正雄は自分の部屋に戻ると、最近買ったばかりのギターを手に取った。フェルナンデスのZO-3、いわゆる「象さんギター」だ。アンプとスピーカーが内蔵されたこのギターを「オモチャだ」と揶揄する人もいる。しかし、正雄のような小さなアパート暮らしの音楽好きには重宝する。スイッチを入れ、ボリュームを少し控えめにして、正雄はゆっくりとビリー・ジョエルの“Just The Way You Are”を弾き始めた。押さえるのが難しくて、よく引っかかっていたGM7(ジー・メジャー・セブンス)のコードを、やっとうまく弾けるようになったのだ。今夜はこの部屋に来てもらい、それを紀江に聴いてもらいたかったのだが、夕食の間にそんな気分が失せてしまった。
ひととおり弾き終わると、今度は“Leave A Tender Moment Alone”をゆっくり弾き始める。これはまだ練習している最中だが、歌い始めの部分、E♭M7(イー・フラット・メジャー・セブンス)からDm7(ディー・マイナ・セブンス)へとコードチェンジする部分が好きだった。その部分を何度も弾きながら、紀江とは別れた方がいいかな、と考えていた。
3.そして家族と一緒に
「ねえパパ、そのウクレレ、ちょっと私にも弾かせて」
「ああ、いいよ。ちょうどチューニングを合わせたところだから」
正雄はそう言って、2年前に買ったウクレレを娘の安見に渡した。彼女は無事に高校受験を終え、のんびりと春休みを楽しんでいた。中学校の音楽の授業で、少しだけウクレレを触ったらしい。だから基本的な4つのコードは知っている。安見はその4つのコードを押さえて、さらっと弦を指で弾いた。澄んだ綺麗な音が響く。
「なかなかいいじゃないか。綺麗な音が出てるよ」
「ほんと? 私もウクレレを本格的にやってみようかな」
「本格的に始めるなら、この小さなソプラノサイズではなく、スタンダードにしたらどうかな。来週、ハワイへ行ったときに買ってあげるよ。合格祝いだ」
「やったー! あ、でもあっちは本場でしょ。値段、高いんじゃない?」
「そんなこと、安見は気にしなくていいよ。それにこういう道具は、最初から良いものを選んだ方がいい」
「そうなの? よく入門用の安いのから始めなさい、なんて本に書いてあるけど」
「入門用を買うと、いつまで経っても初心者のまま終わってしまうことが多い。本気でやりたいなら、最初からいいものを買うべきだ」
「そんなもんかなぁ。でも、高いの買って、ママに怒られない?」
「なんでママが怒るんだ?」
「だって、友達のおうちの話を聞いていると、お父さんが何か高い買い物すると、いつもお母さんに怒られているみたいだから」
「安見のママはそんなことで怒ったりしないよ」
「そうよね。ママがパパに怒ってるところ、見たことないもんね」
「じゃあ安見、旅行の前に何か1曲、弾けるように練習してみたらどうだ? パパが前に使っていた古いウクレレを貸してあげるから」
「ハワイへ行くの、来週でしょ? そんな短い間で弾けるようになる曲、あるかな」
「イマジンはどうだ?」
「うん、あれね……歌詞が好き。でも、弾くのは難しそう」
「そんなことないよ。安見はもう、C、Am、F、G7の4つのコードを知っているから、それにあと3つコードを足すだけで弾けるよ」
「ほんと? その3つ、難しくない?」
「全然。そこがウクレレのいいところなんだよ。まず一つはDm。まずFを押さえてごらん」
「こうよね?」
「そう。その状態で、薬指でここを押さえる。それがDm。うまく音が出るか、やってごらん」
安見は人差し指で綺麗に弦を弾いた。この子の手は母親似だな、と正雄は思った。
「うまいうまい。綺麗に音が出てる」
「でも指を3つ使うコードって、押さえるのが難しいよね」
「すぐ慣れるよ。G7だって3本の指を使うだろ? じゃあ、次はG。これはちょっと押さえるのにコツがいるけど……」
正雄はそう言いながら、Gの押さえ方を教えてやった。指先が不器用な正雄と違って、安見の指はすらっとなめらかにウクレレのフレットの上を走った。
「よし、じゃあ最後は、CM7だ」
「あ、なんかそれ難しそう。メジャー・セブンスって、初心者向けの楽譜には出てこなかったもん」
「言葉の響きに惑わされてはいけない。CM7は、中指でここを押さえるだけ」
「え、これだけ?」
「そう。それだけ。じゃあ、イマジンをちょっとやってみよう。まずCを押さえて、このリズムで弾いてごらん」
「こうね?」
「そう。それからFに移るんだけど、その間にほんの一呼吸分、CM7を経由してからFに移る。こんな感じだ」
正雄はイマジンのメロディをゆっくりと口ずさみながら、最初のフレーズをウクレレで弾いてみた。安見は見よう見まねで一生懸命に弾いている。
「あ、この感じ、それっぽいね!」
「ははは、当然だよ。だって今、安見はイマジンを弾いてるんだから」
「そっか。そうだよね」
安見は屈託なく笑った。
「その最初のフレーズを4回繰り返したら、さっき教えたDmとGが出てくるフレーズになる。それで、イマジンはほぼ弾けたも同然だ。2日もあれば、すぐにできるようになるよ」
安見は最初のフレーズを何度も弾いている。僕なんかよりよほど筋がいい、と正雄は思った。やはりこの子のセンスは、母親譲りかな。
「安見! 買い物に出かけるわよ! ハワイへ行くのに、新しいサンダルが欲しいんでしょ?」
「あ、はーい! パパ、ママが呼んでるから行ってくるね。このウクレレ、借りておいていい?」
「もちろん。ハワイでウクレレを買うとき、イマジンを弾いてみればいい」
「うん、そうする!」
安見は正雄の古いウクレレを抱えて部屋を出て行き、タタタッと階段を降りて母親と買い物に出かけていった。
一人になった正雄は、新しく買ったウクレレを弾いてみる。FamousのFS-5G。決して高価なものではないが、丁寧に作られたものだ。ハワイアン・コア材を使ったボディが艶やかに輝いている。ハワイへの旅行には、これも持って行くつもりだ。
本当は、ハワイで自分用のウクレレを買うつもりだった。本場の高価なウクレレは、いい音を奏でるだろう。しかし、道具の価値は値段ではない。自分との相性、そして身の丈というものがある。本場のウクレレは僕ではなく、娘の安見が持っている方がいい、と思った。
僕には、この丁寧に作られたFS-5Gがちょうどいい。
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